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酒罵微忘碌  作者: 久世
20/26

残酷な天使のテーゼ 後編

 指名をしていたぐらいではあるので、好みのタイプではあったし、夜のお店慣れしていない時分の僕でも割と話しやすい女の子だったのだけれど、その時は本当に天使に見えた。しかし、十個ほど年下の女子から出された見るに見かねての助け舟に乗ろうとするその姿は、いかにも情けなく、それでも突っ張ることもできない小さな自分を恨めしく思いながらも、まずは今夜の窮地は救われたと安堵し、いそいそと連絡先を交換する。


「終わったら、連絡するね」


 その日から、僕らのメールでのやり取りが始まった。お店での支払いは社長持ちであり、社長同伴の時以外で店に行くことはほとんどないことは相手も分かっているから当然なのだけど、僕に対する直接の営業的な話はほとんど出てこなかった。

 その代わり、本来はあまり口外してはいけないお店の内情や組への愚痴などはよく聞いた。そういったことを聞かされるたびに、少しプライベートに踏み込めた気がしたし実際に少しずつ距離は縮まっていった。

 少しずつ好きになってもいった。

 いや天使に見えたその瞬間に、すでに胸を矢で射抜かれていたのかもしれない。

 数日おきぐらいの間隔はあけつつ、僕らの交流は継続し、月に数回は、なんだかんだとそのお店に連れて行かれていた頃だ。連絡先まで交換した僕は、とりあえず行けばその女の子がいるという大きな後ろ盾を得て意気揚々と足を踏み入れる。好きな女の子に会える嬉しさと社長からどやされる心配なく夜のお店を謳歌できるという二重の喜びだ。


 そんなある日、いつものように入店し、その子とおしゃべりをしていると、「珍しいビールをもらったけど、いらない? 飲まないから、仕事終わったあと、家まで取りに来てよ」という、何やらよくわからないお誘いをいただいた。


 何かの罠か?


 当然そう思う。ボッタクリには、やや敏感だ。危険察知能力もそれなりに備えてはいたつもりでもある。

 歌舞伎町の夜の女の子が、わざわざ僕に渡す必要のないビールを、飲まないからという理由で自宅に取りにこいという。飲まないからとはいうが、ビールが飲めないわけではないのも知っている。しかも店を上がった後のお誘いだ。アフター的なものではあるのだけど、アフターが、自宅? 

 混乱した。混乱したが、迷うことなくその場で了解の返事をする。

 そわそわしていた。この時間が終わったら、この子の自宅へ行くのか……と思うと、嬉しさと期待感と、言いようのない不安が襲ってくるので、酔いはちっとも回らない。

 セット終了の時間が来て、僕らは店を出る。

 退店後、すぐにメッセージが届いていた。

「またあとでね。終わったらすぐ連絡するね」

 社長ら他のメンバーは3次会へ向かうべく歌舞伎町の次の店へ移動しようとしていたのだけど、僕は「かくかくしかじかで」と一応情報を共有した上で、別行動とし、彼女からの仕事終わりの連絡を待つことにした。もちろんのこと社長ほかメンバーらからは、いよいよ攻める時だの、今夜が決戦だの、後日この先のことは詳しく報告するようにだの、やんやと言われたのはいうまでもない。


 待っている間、手持ち無沙汰なのと緊張を紛らわせるために、コンビニでビールを買い一人寒空の下で飲みながら待機する。

 それほど時間は経たずに天使がビルから降りてきた。

「お待たせ。って、また飲んでるの? 相変わらずお酒強いねえ。普段はタクシーで帰るんだけど歩いていこっか。近いから」

 歌舞伎町から徒歩30分程度の彼女の自宅へ、少し遠回りをしつつ時間をかけて歩いて向かった。

 普段ラインのメッセージで話していたようなことの延長の話題ばかりだったけど、生トークでそれを聴くのは、また一味違う。悩み相談もされたりして、そこら辺は、一応社会人としては年長者ではあるので、きちんときた大人として回答をしてみたり。


 彼女が立ち止まった。


「うちのマンション、ここ。お姉ちゃんと二人暮らしなんだ。多分お姉ちゃんもう寝てるから、うち、入る?」


 びっくりした。心臓が飛び出そうになるという表現は、こういう時のためにあるのだと感じた。割とサバサバした感じの性格の子でもあり、なんなら本当にビールをだけ渡されてバイバイのつもりだったのだけど、この子は今まさに、僕を部屋に招き入れようとしている。しかも、姉が同居しているという自宅に。

 どういう心持ちで彼女が僕を部屋に誘っているのか確信が持てないながらも、もちろん断る理由はなく、いそいそと部屋へ向かう。

「奥がお姉ちゃんの部屋だから、静かにね」

 僕は手前の部屋に案内された。「温まるまで少し時間がかかるから」と言いながらオイルヒーターに火を灯し、肩から毛布をかけられた。飲まないからと言っていたビールも二人であけた。

 詳しく書くような野暮なことはしない。そのあとは、そういう関係になった。お姉さんが起きてこないかヒヤヒヤしながら、それもまた僕の気持ちを過剰に盛り上げたのは言うまでもない。


 歌舞伎町の夜のお店の女の子を好きになった。好きなった女の子が、自分から自宅に誘ってくれた。そして、そういう関係になった。

 

 文字に起こしても、起こさなくても、僕史上かつてない事件が起こったのだ。事件だが、事実であり、嬉しい結果だ。季節は冬だったけど、あっという間に景色は春になっていた。


 それからというもの、僕は浮かれていた。当然だ。有頂天だった。


 どちらからもはっきりとした告白の言葉はなかったとはいえ、ああいう関係になったということは、そういうことなのだろう。大人の恋愛とは、そこがスタートだったりもするものだ。

 その後も、もちろん何度かプライベートで会った。当時僕が一時的に仮住まいしていた歌舞伎町にほど近いタワーマンションの一室で、なぜかお姉さんも一緒に3人で宅飲みしたこともあった。お姉さんが在宅時に「そういうことになった」顛末すらもあっけらかんと伝える彼女だったけれど、お姉さんはお姉さんで「あんたらやるねえ」ぐらいの感じで、ただの笑い話となっていたので、そういう関係性の姉妹のようだ。その仮住まいのマンションで、彼女にちょっかいを出そうとしたこともあった。そうすると、その家で飼われていたワンコが「女性が襲われている。危ない」と察したのか、逆に僕に襲いかかってきたこともあった。手のひらを噛まれて、アナボコがあいた。危険で、そしてかしこい犬だ。カシコイイヌダ。


 くそ、空気読まない駄犬め……。


 程なくして、お昼間デートの約束をした。映画を見に行こうと誘うと、彼女も「うん、観に行こう」と返事をくれた。日程も調整した。それまで、お昼間に会うことはなかったので楽しみにしていた。


 当日、少し早めに映画館付近についた僕は、「もう着いちゃった。ゆっくりきてね」と一言メールを入れた。

 返事がないまま、上映時間が近づく。


「起きてるー?」

「あれ、今日じゃなかったっけ?」

《プルルルル……プルルルル……》

「もう始まっちゃったけど僕が日付間違えてたかな。寝てたとかだったらごめん。また連絡するね」


 何度かメールをして、一応、留守電にメッセージも残して帰宅した。きっと日付を間違えていたとか、仕事に疲れて寝過ごしてしまっているとかなのだろう。

 少しだけ昼仕様におめかしをして出てきたので、ちょっともったいなかったなあと思いながらも、またいつでも会えるわけだしと切り替えて、特に怒ることもなく「理解ある彼氏さん」的な感じを装い、連絡をやめて折り返しを待った。

 しかし、そのまま、その日はなんの連絡もなかった。不安だけが募る。長い一日だったことをとてもよく覚えている。


 翌日、一通のメール。


「自分のことしか考えていないんだね。勝手に決められて、その上あんな風に追い詰められてもつらい、仕事にも支障がでるから。さよなら」


 混乱。


「勝手に決めて」というのはどういうことだろう。確かに誘ったのは僕だけれど、相談して、日付を決めて、映画を観に行く約束をしたつもりだった。それにもかかわらず彼女の認識としては、約束ではなかったということなのだろうか。「追い詰められた」というのは、約束もしていないにもかかわらず、自分はもう映画館に来ているという既成事実を突きつけて私のことを追い込んだとでもいうのだろうか。確かに、返事を待たずに何度かメールは送ったし、電話も一度かけた……が。

 謝った。何に関して謝れば良いのかわからないながらも、ひとます謝った。謝ったが、何に謝ったのか、謝った側がわからないのだから、それが誠意として受け止められることはなかった。詳しく理由を聞くこともできず、僕らの関係は終わった。夏の真っ昼間にアスファルトに撒いた打ち水のように、あっという間に、消えた。


 付き合っていたのか、そうでなかったのか。それすらも曖昧な残酷な天使からの命題は、今もなお解けないまま、あの街に残されている。

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― 新着の感想 ―
[良い点] これは切ない。 [気になる点] えええ!? 何があったんでしょうね。分からないのは情報が足りないからなのか、私が男だからなのか。 ともかく1発レッドカードとは考えにくく、何かしら蓄積するも…
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