妖怪スナック 前編
スナックに嵌っていたことがあった。
繁華街にあるスナックも面白いが、なんてことない住宅街にそっと溶け込むように存在する地域に愛されるスナックもまた一興だ。年配のママが中央できりもりし、少し若いチーママがひとりふたりいたりして、薄暗い店内では常連さんと思しきオジサマ方でいつも賑やかにカラオケが鳴り響く。
そういうお店は、特に常連客らによる見えない圧倒的なバリアが確実に存在する。とてもじゃないが、一見さんがひとりで入店できるような雰囲気ではないし、それでも入ろうものなら一斉に客らの耳目を集め、「こいつは誰だ?」という眼差しを一身に受け止めながら席に通されることは間違いない。もちろんお店側だって新規の客がありがたくないはずはなく、よほど場を乱さぬ限り受け入れようとはしてくれるだろうが、自分の年齢が若ければ若いほどアウェイになることは覚悟したほうが良いだろう。
話は今から13、4年ぐらい前に遡る。その頃はもう新宿ゴールデン街は完全に自分のホームになっていたし、いわゆる夜の歌舞伎町での経験値もそこそこ溜まり始めていた。とはいえ、毎晩のように自費でキャバクラを豪遊できるほどの財力は持ち合わせておらず、一方で夜の社交を楽しみたいという気持ちもふつふつと湧き出てくる。
欲望、好奇心、探究心。
当時、まだ引っ越してまもない頃だった。自宅から最寄駅へ向かう道すがらに一軒のスナックを見かけ、少し興味を持っていた。夜遅くに店前を通ると、いつも店内は盛況で楽しげな宴が開催されているようだった。
「スナックって、どんな感じなんだろうな。どこにも妖怪みたいなママがいるって噂も聞くけど……一度ぐらい体験してみたいな」
そんなふうに思いながらも、お店に入る勇気もなく、スナック通の知人もいなかったもので、月日はしばらく流れて行った。一般のお店のようにネット上に口コミが見つかるようなものなら、事前の調査である程度の準備と心構えもできるというものだけれど、もちろんそんな情報は流通しておらず、帰宅時などに、わざわざ道路を挟んで向かい側のそのお店側の道に足を運び、少しだけ中の様子が伺えるガラス窓の隙間から見える一瞬の光景から店内について想像を膨らませていた。
ときどき常連客らしき方々のお見送りに中の人たちが出てくることもあった。タクシーを呼んで、酔客をちゃんと乗車させて、お見送りするまでが仕事なんだな、と思ったのを記憶している。
それから考えると地元以外からの常連客も多いのだろう。あるいは元々ご近所に住んでいて転居された方が、遠くからでも足繁く通い続けているのだろうか。まあ、とにかく外から垣間見れる光景のみから、断片的な情報を収集するだけで結構な期間が経過した。
とある日、チーママらしき女性が外にお見送りに出ているのを見かけた。ずいぶんと若く見える。歳の頃は僕より10個とは言わないまでも結構下だろうか。遠目にしか見なかったが、若い女性も働いているんだなということを認識し、僕のそのお店への興味は俄然高まった。その女の子を狙って云々ということよりも、歳の近い中の人がいてくれる方が溶け込みやすいのでは? と思ったというのが大きい。いや、狙って云々というのがゼロというわけではないのだけれど、いかんせん遠目に見ただけなので好きも嫌いも判断はつかない。
それ以来お店の前を意図的に通り過ぎる回数は増した。その若いチーママの出勤が確認できた日は無駄に何往復か店前をうろついてみたり、少し離れた場所から観察してみたり、まるでちょっとした犯罪を企てているような、そんな挙動不審な行動をとっていただろう。
そんな日が続く中、比較的店内が空いている日にチーママが出勤しているのを確認して、意を決した。
《ニイタカヤマノボロウ イマスグニ》
自分の中で指令が飛んだ。気合を入れるため、一旦自宅に戻り、ビールを一本一気に飲み干した。なぜかシャワーを浴び、着替えを済ませ、普段つけない香水を少しだけ身に纏い、戦場への気持ちを奮い立たせるため、もう一本ビールを胃袋に流し込んで家を飛び出す。
カランコロンカラン
漫才の入店シーンでよく使われる擬音語と似たような音が実際に鳴った。店内にはママとチーママ、それに客が二組三名ほど。
「いらっしゃい。まことちゃん、お席通してあげて」
ママがそういうと、まことちゃんと呼ばれたチーママが僕をカウンターの端の席へいざなう。
「はじめまして。先月から働いているまことです。お若そうですけど、うちはよく来られるですか?」
「あの、実は初めて来まして。前から気にはなっていたんですが……」
「あら、そうなんですね! お一人だと入りづらいですよね。何さんってお呼びすればよいですか?」
呑み屋などで名前を聞かれた時、どう名乗るかは割と悩ましい。見知った人が勝手に下の名前で「○○ちゃん」「○○くん」などと紹介してくれれば、それに準ずるのだけれど、30歳を超え、一応おじさんの入り口に足を踏み入れてからは、名を名乗るのに下の名前だけを伝えるのはどうなんだ? という思いも持つようになる。何だか小っ恥ずかしさを感じる。しかしながら、夜の街では30代そこそこの年齢なんて、まだお子ちゃまでもあり、結論からいうと下の名前で通すことに何ら問題はなかった。僕のキャラもあるのかもしれないが。
チーママと、ご挨拶がてらの他愛もない自己紹介トークに終始していたところ、そのうちママがやってきて声をかけてくれる。
「さっき店の前うろちょろしてたでしょう? 多分今日だけでないわよね。そういう方結構多いし、入ってこられない方も割といらっしゃるんすけどね、ほら、やっぱり入りづらいでしょうし。でも、今日は多分入ってくるなあって思ってたら、やっぱりいらっしゃったわね。これからよろしくお願いしますね」
ママにそう言われ、これまでの軽犯罪行為じみた行動を気づかれていたことに赤面した。
いつだったか、「さっきからちょいちょい私のおっぱい見てるでしょ? わかるよ」と、女友達に面と向かって言われた時ぐらい赤面した。見てたけれど。
とりあえず、今夜の第一目標、入店し挨拶するという第一関門は突破できた。顔と名前を覚えてもらうため、次に繋がるよう焼酎のボトルも入れた。これでいつでも再来店できる。
この日に気づいたことが二つある。
チーママとは至近距離で話してすぐにピンときた。とても面白い子だ。顔も僕好みで年齢もちょうど良い頃合い。この子に決めました。神様、女神は近所のスナックにいたんですね。
二つ目は、ママが妖怪人間ベラだったこと。妖艶な雰囲気と、はっきりしたお顔立ちも。
ママが自分で言ってたんだよね。「はやく人間になりたい」ってさ。