聖地
* * *
「うわぁ……!」
感嘆符が尽きなかった。
門衛に顔パスで通されたハムダンおよびカアス、そして、後から飛行で追いついてきたカナイとツァーカブを伴い、ナイトは聖地の門をくぐった。
ハムダンが車を路地裏で停めると、ナイトは我先にと助手席の扉を開けて大地に降りる。そして表通りに駆け出す。
聖地の賑わい──喧騒は、ナイトがこれまで見てきた街の何百何千倍という規模であった。
「パンが焼きあがったよ! 早い者勝ちさね!」
「大海から仕入れた魚だ! どれも新鮮だよ!」
「野菜や果物が揃ってるよ! 今なら安いよ!」
「各地から取り寄せた鉱物鉱石鋼材はどうだ!」
門の内側には巨大な市場が広がっており、外の荒廃した砂漠地帯が嘘のように、よく整備されている。
道はアスファルトでしっかり舗装されていて、一切ぬかるんでいない。貧民街でも見かけた、馬かラバかヤギに似た生物が家畜として、街を席巻している。にもかかわらず、これほど清浄で清潔な街並みを維持できているのは、素直に驚嘆するほかにない。清水を湧かす広大な噴水広場まであり、貧民街で起こっていた水不足など、この地では無縁ということが伺える。
そして何より驚くべきは。
「車だ……クルマがある!」
市場の一部はロータリーになっており、買い物客を乗降させるタクシーやバスのような乗り物が、人々の喧騒に重いエンジン音を加えていた。
「そりゃ車くらいあるさ。ウツ地区にも装甲車や護送バスがあったろ?」
カナイが疑問を呈して来るが、聖地に存在するものは戦闘用でも緊急用でもない、ごく普通の車体であった。
金髪褐色の修道女は煙草を一服しつつ述べ立ててくれる。
「聖地は機属の襲撃がないからな。襲撃がなければ死者も出ない。労働力は減らない。自然と街は豊かになる」
「そうなんですか……あれ?」
ナイトは振り返ると、カナイの小さくない異変に気付く。
「カナイさん? 背中の十字架は?」
「ああ。聖地だと街の連中がこぞって私らに寄進にやってくるから、秘匿モードにしてんだよ」
言って、カナイは首から下げた小さな十字架をナイトにつまみ見せた。
「普段からその形にしてれば、持ち運びも楽なんじゃ?」
「いいや。これがクソ重い。普段のデカイ十字架の方がマシってレベルで重い。なぁカアス?」
カナイ同様、十字架を小さく秘匿した聖徒たちが同意の首肯を落とす。
「ええ。ですが、街の人々を混乱させるよりはマシかと」
「その通りですわ!」
カアスとツァーカブ、そしてハムダンが遅れて路地裏から姿を現す。
「では、ナイト様。私達が聖地をご案内して差し上げますわ!」
「あ、お願いします、ツアーさん」
意気軒高なツァーカブを筆頭に、ナイトたち一行は表通りを雑踏に混じって歩いて進む。
聖地の成り立ちや建立された像のいきさつなどを景気よく解説してくれるツァーカブであったが、ナイトの意識はすぐ隣を護衛するように歩くカナイの方に向けられてしまう。
(このまま、首尾よく事が進めば)
ナイトは元の世界に戻れるはず。
だが、そうなれば──
(もう会えなくなるのか……)
その考えは、思っていた以上に、少年の心に寂寥の雨を降らせた。
これまでさんざん世話になった。
転移した当初、ウツ地区で右往左往していたナイトを救い出し、導いてくれた金髪褐色の女性──彼女がいなければ、ここまでくることは到底かなわなかっただろう。
しかし、疑問は残されている。
(なんで、予言とやらを隠したがるんだろう?)
そんなにもナイトには教えたくない内容なのだろうか。
そもそも異世界転移者と神の関係とは。
ひとり悶々と思索の渦に捕らわれるナイトは、自分の視界の端にあるアイコンに目を配る。
誰にも見えていないそれをタップすると、今現在のナイトの状況──ステータス画面が一覧となって現れる。
他の誰にも見えない、ナイトだけに備わった機能だ。
本当に度し難い。
視力が眼鏡を必要としなくなったことも含めて──と思ったところで、思考に引っかかりを覚える。
いつから視力がよくなったのかを冷静に思い返すナイト。
転移当初、カナイと出会った時は、まだ眼鏡を必要としていた自分。
カナイの助けで教会に寝泊まりした時──はじめてステータスウィンドウを確認した時も、眼鏡はしていた。
そう。
あの日。
ウツ地区ではじめて機属と遭遇し、避難を余儀なくされた時。
西区の護送バスが襲われ、自分の隣の老人が──老人が──?
「ナイト?」
足を止めたナイトを一番に訝しむカナイ──だが、今の彼の意中に彼女はいなかった。
ナイトは異様に良くなった視力で、雑踏のなかを歩く“あの老人”を発見したのだ。
震える声と瞳で現実を直視する──幻ではない!
「そんな、まさか!」
四人が制止するのも聞かずに、ナイトはステータス画面を閉じて走り出した。
肺を圧迫するほど呼吸を荒げ、心臓が砕けそうなほど鼓動が早まる。
あの老人は!
あの老人は!
あの老人は!
ウツ地区で死んだはず!
自分の目の前で! 紅い液体を自分にブチ撒けて! 死体も残さずに! 潰れ死んだはず!
ふと、過日の記憶が鼻腔をくすぐる。
むせかえるような燃料の臭い──
燃え焦げていく鋼鉄の臭い──
初めて嗅いだ硝煙の臭い──
死を吸った汚泥の臭い──
それが何故ここに!
「あの!」
裏路地まで老人の姿を追ったナイトは、そこで追うべき相手がいなくなったことに気づかされた。
四方八方、右も左も上も下もすべてを見渡す。人っ子一人、いやしない。
ナイトの脚力と視力で、追跡をまかれるなんてことがありえるだろうか。
見間違い──だったのだろうか?
「おい、ナイト! 急にどうした?」
雑踏を泳ぐようにかき分けて走り出した少年に追いついたカナイに、ナイトは何も言えない。
「えと、その……」
何をどう説明すればいいかもわからない。混乱の極みにある少年の心を考慮したように、カナイは落ち着いた声で告げてくれる。
「あとできちんと説明しろ。いいな?」
カナイに手を掴まれ、カアスやツァーカブ、ハムダンのいる表通りまで戻されるナイト。
彼の胸中で、新たな疑問と困惑の種子が芽吹き始めていた。
* * *
「ウツ地区で死んだ老人?」
「ええ。そのはず……なんだけど……」
小休止に立ち寄った喫茶店で、注文した生搾りの果実水を口に含みつつ事情を説明されたカナイたちは、当然のごとく首を傾げた。
「その老人が、生きて、この聖地に?」
「そんなまさかですわ。仮に生きていたとしても、ウツ地区から聖地まで、老人の足で何十日かかると思いますの?」
「あー、ですよね……やっぱり見間違いだったのかな……でも」
歯切れの悪いナイトの様子に、カナイは苛立ちを覚える──などということはありえなかった。
「まー。この世界で知り合った相手が死んで、生きてたと思えば、誰だって同じ反応するさ」
「どっちにしろ、私たちは引き続き、転移者様の護衛を継続できて、万事解決です」
ハムダンがそう結論付けると、果実水を飲み干した。喫茶店での小休止は早々にお開きとなる。
ここまで思わぬ寄り道や足止めもあったが、ナイトを教団本部に送り届ければ、無事に任務達成だ。
それでいいはずだった。
なのに。
(なんだ、このモヤモヤした感じは)
カナイは一歩、また一歩と、聖地中央に赴く足が重くなるのを感じる。首に掛けた十字架が重いから、ではない。
今ならまだ引き返せるという小さからざる思いが、忙しなく警笛を鳴らしてくれる。
だが、もう遅い。
もうここまで来てしまった。
カアスとの合流に始まり、ツァーカブ、ハムダンがナイトの護衛──という名の移送──任務に就いたことで、逃げ道などとっくに塞がれている。
(いや。そもそもウツ地区で、転移者を発見したことを、本当の神の加護を受けた存在を、教団に報せた時点で、全部が手遅れなんだよ)
だから、何も迷う必要などない。
この、何も知らない少年を教団上層部に引き渡すことで、カナイの、“狂信”の存在意義は達成される。
煙草の煙を呼吸器一杯に吸い込みながら、カナイたちはついに教団の総本山“神の御柱”区画へと至る。
真っ白な御柱を守護する聖騎士に、四人の聖徒は秘匿状態にしていた十字架を背中に担ぎ、通行許可を即座に求める。
最後の門が開かれた。
異世界転移者・内藤ナイトは聖騎士団に囲まれ、急ぎ大司教室に案内される。
カナイは手を振って、会釈するナイトの姿を見送ってやった。
彼の姿が見えなくなると、無視しがたい感情に襲われた。
それは、まぎれもない■■だった。