教団
* * *
聖地エブスにて。
荒廃した世界から城壁で隔絶された、神聖都市。
多くの建物がそびえたち、人々は外界の苦難を忘れ、我が世の春を謳歌する、平和で自由な都──
その地の中央──天使教団の総本山である“神の御柱”内部で、協議する者たちの影がある。
「大司教よ」
「はっ──」
合議場の奥深く、最も高き御座にある者の高音が場内を満たす。
「この場で、いま一度確認しておきたい──予言の獣、最後の機神“ジズ”の顕現を捕捉したとは、真の話か?」
「ええ。その通りでございます、我が聖下」
短くも鋭い白髪、蓄えた白銀の顎髭も猛々しい益荒男は、謹直かつ礼節にかなった低声を大理石の床面に落とす。
「すでに“狂信”および“憤怒”の二人に供回りを務めさせ、近く“色欲”が合流予定にございます。標的は現在ユダ地区に滞在しており、この聖地への到着は『まもなく』とのこと」
歓声にも似た声が静謐かつ清廉な合議場の空気を震わした。
大司教と呼ばれた男は、跪拝したまま丸眼鏡の位置を整えて、一言一句たりとも誤ることなく告げてみせる。
「教皇聖下ならびに枢機卿猊下の皆様方には、どうかご安心のほどを。計画は着実に進行しておりますれば」
「うむ。すでに“ベヒモス”“レヴィアタン”を捕らえた貴殿の差配を疑う者はいない。遺漏なく事を運ぶがよい、シホン大司教」
「御意──」
教皇の許しを得て御前から立ち去った大司教・シホンは、五十代の見た目とは思えぬ精悍な体つきを法衣に包み込み、合議場から離れる。
「お待ちしておりました、大司教猊下」
「うむ、ご苦労」
外で待機していた聖騎士団の少女ら十数人を引き連れて、城郭のような廊下を突き進む。
そんな折に。
「よう。大司教のダンナ」
「おお。何用か、“傲慢”。それに」
「ご無沙汰しております。シホン大司教猊下」
礼儀正しく一礼を返す童女は、波打つ金髪を輝かせ、その身の丈には不釣り合いな大きさの、豪奢な黄金の十字架を背負っていた。
「“強欲”ではないか。──して。二人して何用か?」
「何用か、ねえ」
応じたのは、ヤヒールであった。
塵ひとつない磨き上げられた廊下、巨大な窓硝子との間にある柱の陰に立っていたのは、聖騎士団とは別系統の聖徒──“八悪”に属する使徒たる美青年……ではない。褐色肌に修道士姿だが、その胸の起伏は隠しきれていない。彼女は男装の麗人であった。ヤヒールは、長い黒髪をひとつに結い上げた頭を柱から離す。
「計画は順調なんだって?」
「それがどうした? おまえが危惧すべきことはひとつたりともないぞ?」
「確かに。私が言えることは何もないね。異世界転移者サマを、甘言で釣って聖地にまで送らせる──アンタのいやらしい常套手段だ。けどね」
ヤヒールという男装の美女は、蒼氷色の十字架を廊下に打ち付け、小さくないヒビを起こす。
「アンタはそれでいいかもしんないけどさ、利用されるコッチの身にもなれっつー話なんだよ」
「ぶ、無礼な、大司教猊下に向かって」
諫言する聖騎士の一人を、シホンは片手をあげて制する。
「──そんなにも“ベヒモス”の件が気に喰わなかったか?」
「ああ、気に入らないね! もうずいぶん前の話だけど。私が聖徒じゃなかったら、アンタの頭を粉々になるまで潰してブチ殺してるトコロだよ!」
「……ふ。憐れなものだ」
「ァんだとぉ!」
ヤヒールは火に油を注ぐがごとき大司教の言い分に、本気で頭にきた。
大司教は憐憫の声を紡ぐ。
「彼我の実力差も見極めがつかぬのか? それで八悪がひとつたる“傲慢”──『皇帝・ルシファー』を背負うものに選ばれるとは」
「ッ、選ばれたくて選ばれたわけじゃねえヨ!」
「ヤ、ヤヒールちゃん!」
ハムダンが小さな童女の身体で止めに入ろうとしたが徒労に終わった。
堪忍袋の緒が切れたヤヒールがハムダンを押しのけ、蒼氷色の〈第八戦装〉を展開しようとした、刹那。
「──遅い」
パワードスーツが展開される瞬時の間隙を突いて、大司教の神速からなる鉄拳が、男装美女の鳩尾をしたたかに殴打していた。
「かっ!!」
肺の中のすべての空気を無理やり外に吐き出されたような衝撃に、ヤヒールはその場に頽れるしかない。
「ヤヒールちゃん!」
心配して駆け寄るハムダン。
シホン大司教は法衣の裾を正して、言い捨てる。
「未熟──不熟──この俺を越えたくば、あと百年は修行することだな……ヒヨッコが」
「チ、クショ、が」
呼吸の自由を奪われたヤヒールは、廊下の壁に背中を預けるので精一杯だった。
そんな彼女を置き捨てて、シホンは聖騎士団を引き連れて廊下を進む。
彼にとって、聖徒との私闘にかかずらう時間さえも惜しい──それほどの使命感によって、彼の全身は駆動していた。
* * *
「もう。だからやめようって言ったのに」
「ぅ……すいません。──ハムダン先輩」
「シホン大司教は本物の化け物だよ? 敵いっこないって」
廊下の罅割れを黄金の十字架で修復しつつ、ヤヒールの修繕も同時進行で行う童女は、愛らしく頬を膨らませてみせる。
「ヤヒールちゃんは昔から向こう見ずなところがあるって言ってるでしょ? いくら“傲慢”だからって、そういうのを言い訳にしてたら、よくないと思います!」
「ほんとに、先輩には頭があがりません」
童女を先輩と呼ぶ男装の麗人は、どうにか呼吸できるまで回復できてきた。
なので、どうしてもたずねてみたくなった。
「先輩は、どう思いますか?」
「どうって?」
「大司教の計画ですよ」
ハムダンは沈鬱な表情で物思いにふける。黄金の十字架を背負う童女は口を少しずつ開いていく。
「……ベヒモスの彼のことは、今でも本当に残念だったと思う」
「……はい」
「でも、しようがなかったんだよ。私たちには、他に選択肢なんてなかった」
「けれど、──けれど、あのとき私は!」
「ヤヒールちゃんは優しい子だから、いつまでも後悔してしまうんだと思う。そして、それでいいと思う。苦しいこと、切ないこと、悔しいことは罰だ。私たちは、それがあるから、生きていける」
「──はい」
ハムダンはヤヒールの頭を、修行時代の頃のように撫でてやる。
「それに、大司教さまの計画は、この世界には必要なことであり、なにより教皇聖下による神託であり予言だもの……ベヒモスの彼だって了承してくれた。だから、きっと、今度の子も…………」
そう言いつつ、語尾が消え入る己を自覚せざるを得ないハムダン。
そんな童女の姿を見やりつつ、ヤヒールは窓ガラスの向こうの平和に見える晴天を、眺めるしかなかった。