邂逅
* * *
ナイトは、自分の置かれた状況というものを理解できずにいた。
理解できるわけがなかった。
ただ、事故に見舞われかけた恐怖と脅威──心臓の鼓動音は、痛いくらいに本物で、眼鏡越しに見る目の前の光景の異様さは、どこまでも現実離れしていた。
かろうじて石畳で舗装された道路。人々が行き交う交差路。周囲でナイトの様子を窺う露天商や買物客らの着衣は、現代日本のそれからは、あまりにも遠く隔たりがある。
「い……いったい、ここは」
どこだというのか本気で分からないナイトは、あまりの状況の変転ぶりに尻もちをつきかねない勢いで後ろに退がる。
ドン、と誰かの背中にぶつかったのはその時だ。
「あ、すいませ」
「いてぇじゃねえか、おい?」
一目見ただけで粗野でガラが悪いと分かる人相と衣服。体格は野生の獣を思わせるほど大きい。
おまけに、つるんでいる連中六人も、人格に問題がありそうな輩ばかりであった。中には刃物をチラつかせている奴までいて、本気で肝が冷える。
粗野な獣が人語を返す。
「あん? おまえ、変な格好してやがるな?」
「あの本当にすいません許してくださいお願いします」
なんでもはできませんがと心中で土下座しつつ、早口で謝り倒すナイト。
金銭で事を治められそうな状況ではない。露店でやり取りされてる貨幣の感じを見るに、財布の中身の日本円が役に立つとも思えない。謝る以外に処方などなかった。
そんな年少だろう少年の様子を嘲弄するような十二の視線と六つの笑声が、ナイトの目と耳に痛かった。
「ごめんなさいで済んだらよぉー、都市警邏隊とかいらねえだろうが。あん?」
「あーあ、どうすんすか兄貴? せっかくの一張羅が?」
「泥がはねちまってるじゃねえですか、こいつはひでえ」
「この貧民街の顔役である兄貴を知らねえのか、おまえ?」
泥というには及ばない砂埃を男は払いのける。
クソほどわかりやすい強請たかりであった。
ポケットから取り出し、手元でチラ見した携帯は圏外。周囲を見渡しても助けとなってくれる人はいないと判断できる。
ふと、悪党の何人かが興味の視線と声を落とした。
「あん? おまえのそれ、なんだ?」
「見ない端末機械だな? 新型か?」
「まさか。こんなガキんちょがか?」
「あ、はは、な、なんのことやらぁ……」
空笑いを浮かべつつ、じりじりと後退するナイト。
瞬間。
足首を180度ほど反転。
「あ、逃げる気かテメエ!」
当然である。
悪党の声に聴く耳をもたないナイトは全速力で逃げ出した。
右と左、どちらに逃げればよいのかもわからないから、ひたすら前へ。
人波の間をすり抜け、転ぶように、前へ。
「待ちやがれ!」
追ってくる気配は、しかし、行きかう人の列に一瞬さえぎられる。
「野郎、逃がさねえぞ!」
「クソ、意外と速いッ!」
ナイトはとにかくまっすぐに駆け出した。
肺が酸素を求めて熱く呼吸し、肌の上を玉のような汗が伝う。
眼鏡の位置を直しつつ、とにかく懸命に、わかりやすい悪党の群れから逃れようと細い路地裏へ。
「はっ! はっ! はっ!」
これまでの生涯で、体育の授業以上の全力疾走をしつつも、なぜ自分がこんな目に遭ったのか──遭わねばならないのか本気で考えるナイト。
彼は思い出す。
卒業式の帰り道の途中。家に帰りたくないと思いながら公園でひとりさびしく時間を潰し、幼い女の子が事故りそうになっていたのを助けた。いや、助けかけたという方が正解か?
あの子は無事だろうか? 無事ならばうれしい。自分がこんな目に遭ってるのと同じく、酷い目にあっていなければいいのだが……
「見つけたぞ!」
やはり土地勘は向こうの方にあったと見える。
ナイトは悪党のいる方とは別方向を目指し、更に細くなる路地の方へ。
「クソ、くそ、何だってこんな目に!」
ナイトは必死に逃げる。
涙目で逃げて、逃げて逃げて逃げまくる。
背後から「野郎、逃がさねえぞ!」「待ちやがれ!」という怒号が追いかけてくる。
路地にあるものを全力で引き倒し、ばらまき、転んだ拍子に掴んだ砂粒をぶつけながら、悪党どもから逃げ続ける。
「クソ、ちくしょうっ!」
家に帰りたくないといった言葉が、これほど悔やまれるとは思いもしなかった。
いったい、ここはどこで、自分は家に帰れるのだろうか?
もし帰れないまま、あいつらに捕まるとしたら?
「──ッ!」
じわりと涙が視界を歪ませる。
ついに袋小路へ追いつめられた。
分厚い壁が眼前に立ちはだかる。逃げ道はなし。
振り返れば、刃物や棍棒を持った悪党どもに囲まれ、逃げ道を失った。
「へへ……観念しろ、小僧!」
「身ぐるみ全部はぎとってやる!」
観念などしてたまるかと涙を拭い、中腰になって身構えるナイト。
こうなったらと、玉砕覚悟で路地の棒っきれを掴み、突破口を開こうとした、その時。
「おいおいおい」
悪者たちが一人残らず凍りつき、ついで振り返る。
この場にはそぐわない、澄明かつ玲瓏な高音の持ち主が、肩に機械の十字架を担いで紫煙をくゆらす。
「たった一人を相手に追いかけっこなんてして、恥ずかしくないのか、おまえら?」
ナイトは、粗暴ながら鈴の音を思わせる声の主を、見る。
印象的なのは切れ長の明眸。よく整った目鼻立ち。引き込まれる美貌。
そこにいたのは、とても美しい黄昏色の金髪と、太陽に良く灼けた褐色肌の修道女であった──