緊急集会、体育館!
「急がば回れぇいい!」
と、大人たちは揃えた口を酸っぱくして何かに付けて言ってくるのだが、彼らが一刻を争う事態に直面したときには、散々喚いた酸味を心地悪そうに吐き出し、まるで正反対の言動を取る姿を何度も目にしてきた。臆面もなく踵を返し、効率重視の最短距離を進んでいく様は確かに潔くもあったが、言動不一致のその後ろ姿から威厳を感じ取ることは難しく、むしろ悲哀を背負って丸めてくれていた方が同情の一つもできただろう。
ひと気のない茂みのなかに猛然と入っていった老人の姿を見送ったツメくんは歩みを止め、すぐ横にあった電柱に手を添えて、家を出てからずっと踵を踏んだままにしておいたスニーカーをちゃんと履き直すことにした。
遠く空の奥をやけに白い雲がゆっくりと、目を細めてやっと分かるほどの速度で移動していた。ツメくんが靴のなかに踵を押し込むことに躍起になっている間も、着実にその雲は朝日を目掛けて動いているように見えたが、まだ到達には程遠い位置で結び目がほどけて空に溶けてしまい行方知らずとなった。
その一つの消失の帳尻合わせをするかのように、ある音が空に響き渡る。それは学生を経験したものなら鼓膜に刻み付けられるほど耳にしたチャイム、あの音階が空一面に広がり、整列し、前ならえからの点呼のように整然と上空を駆け巡った。
まだモタモタと靴を履いていたツメくんは反射的に顔を上げ、「ジュウナナ! ジュウナナ!」と自らの出席番号を叫びそうになった口をつぐんで音が発せられた方角へと顔を向けた。
これは始業5分前を告げる予鈴のチャイム、本来ならばその発生源、遠くとも周辺にいなければ遅刻は免れない。しかしツメくんがいるのは、そこまでまだまだ距離のある道中、これから全身全霊の疾走を行使したとしても遅刻という事実はもう覆らない。
「急がば回れぇいい!」
「急がば回れぇいい!」
規定通りに物事を行っていてはどうにもならないと分かっているとき、綺麗事ほど物ぐさな言い分はなく、たとえ違反を咎められようとも、その先に可能性があるのなら、どんなに不確実な場所であっても、そこに向かって突っ走るしかないのだ。
ないのだ! ツメくんはその通りに、スニーカーのつま先を地面に打ち付けて履き心地を確かめてから裏路地へと駆け出した。
日頃から人通りを想定していないその抜け道には、道沿いの邸宅に収まり切らなかった逸話があふれ出し、ツメくんの足もとにその経歴を曝け出すようにして散乱する。
放り出された片脱げの革靴、真上から見事に潰された空き缶、ナイフの影のようなカラスの羽根、塀にめり込んだ拳大の石、緑色の政党のポスター、門扉の隙間から鼻だけを突き出した犬とその子犬、郵便受けからこぼれたチラシ、その一枚の上を駆け抜けたツメくんが、どこへ行き着くのか知らない水路を飛び越え、何を仕切っているのかも分からない金網を乗り越えた先の、誰が所有しているのかも分からない、背丈だけはいやに高い葉っぱを生やした草藪のなかを突っ切っていると、茂みのどこかから声をかけられたのだ。
「何をそんなに急いでいるんだい、だって?」
ツメくんは足を止めることも振り返ることもせずに答える。
「それをあなたに教える必要はないし、仮に、仮にだよ、あなたが暇人で朝っぱらからやることもなくて街中をぶらぶら見回っていたとして、学校に向かって懸命に駆けている学生を見掛けたとき、それをわざわざ引き留めて理由を聞かなければならないんだとしたら、あなたには推理力もなければ想像力もないということになるけど、それでいいかな?」
進路を邪魔する鬱陶しい草群れを払いのけてそう言い放ち、これでまともに進めると思っていた矢先、土塊に足を取られて転倒しかけたツメくんはとっさに手近な草を掴んで体勢を守る。その際に草に止まっていた虫がツメくんの袖に飛び移ったが、そんなことは露知らず苛立たしそうに口を開く。
「へぇ、開き直るんだ。だからといってぼくが急いでいる理由を教えるとでも思った? そんな訳はないよ。たとえ校則で『登校中、見知らぬ人に質問を投げかけられたら、我が校の生徒として恥じない真摯な態度で応じなければならない』って、義務付けられていたとしても、ぼくは守る気なんてさらさらないし、さらにそれで退学になったとしても、ぼくはあなたに急いでいる理由を絶対に明かさないね!」
きっぱりと言い切ったの同時に藪を抜けると、一気に視界が開ける。住宅地の一角に飛び出したツメくんが、制服のあちこちにへばり付いた草の端切れを軽く払い除けてから、予備動作もなく突然走り出したものだから、そばを通過しようとしていた自転車が急ブレーキを掛け、立ち止まることなく駆けていってしまったツメくんの背に向かってベルを連続で鳴らした。
「だから言わないよ! しつこい、しつこいしつこい、しつこい! その好奇心で照り輝いた瞳に唾を吐きかけられる前に、さっさと立ち去ってしまいなよ!」
しばらく走ってから角を曲がり、その先に続いている急勾配の坂道を全力疾走で上がっていく。これまでほとんど休まず走り続けていた疲労で太ももが鉄のように重くなり、それを誤魔化そうととにかく空気を吸い込みながら坂の上を目指す。右手にうかがえるガードレール越しの景色は、坂を上がるほど空の配分が増えていく。対して街並みはミニチュアのように小さくまとまっていき、先ほど通り抜けてきた草藪も道端の雑草ほどの大きさになって見下ろせた。
そこでは相変わらず背丈ばかり成長した草葉が、懸命に走るツメくんを応援するようにして揺らめいている。その後押しもあってか、ようやく坂の上から校舎の一端が見え始める。あともう一息だと速度を上げたツメくんの袖では、未だそこに止まっていた虫が制服の繊維から足を離し、遠く離れていく故郷に手を振るようにして草たちの揺らめきに応じていた。その所為でバランスを崩して落下してしまったが、即座に背中の翅を展開して飛揚し、今度は裾にしがみつく。折良く坂の頂上に到着してツメくんが速度を落としたので、ふたたび振り落とされるようなことにはならなかったが、荒々しく吐き出される息とともに上下する裾を居心地悪く感じ、翅を開いて飛び立った。
その翅音を聞き付けたツメくんが、「なんだ、よ、まだい、るのか」と呼吸で言葉を区切りながらそう言い、ペッ! と唾を噴出する。
「ほらお望み通りの唾だ! こんなものを欲しがるなんて余程の奇人か変態だ。もしくは偉人の変態だ。ペッペッ! ほぅら、ペッペッペッ! ペッペッペッ、ペッ! しつこいね、しつこいよ! 本当にしつこいやつだよ!」
飛び回っている虫にそう言い放ち、口内という口内に舌を這い巡らせて唾液という唾液をかき集め、細く窄めたくちびるからペッと渾身の一滴を吐き出す。そしてその着弾を見届ける時間も惜しかったのか、さっさと校門を通り抜けて校舎に入っていった。
教室までの道のりの途中、トイレ、図書室、保健室、寄り道をする場所はいくらでもあるが近道はない。それでも時間の短縮を試みるならばいくつか工夫が必要だ。
なかでも重要なのは、歩いてもいるし走ってもいるという絶妙な速度で廊下を移動すること。その歩法ならば、教員の目を警戒するあまり、過剰に速度を落として始業に間に合わなかったという本末転倒な事態に陥ることもなく、仮に急いで移動している姿を目撃されても「確かに走っていましたが、確かに歩いてもいたのです」と小坊主のような屁理屈で丸め込むことができるのだ。ツメくんはそのお手本のような速度で廊下を走り、いや歩き、いや、走り、か? 偶然その姿を目にした用務員はしばらく判断に迷い、結局決めきれないまま作業に戻り、しかし胸の支えが気になって思うように仕事は捗らず、その日の夜、普段よりも熱く入れた風呂のなかでようやく「あれは走っていた」と決めることになるほどの絶妙な速さで廊下を進む。
しかし、このままでは間に合わない。本鈴が鳴る間際の神妙な静けさを肌で感じ取ったツメくんは、さらなる時短のため要所要所にある曲がり角は最小限の一歩、多くても二歩の無駄のない足運びで折れ、階段を上がる際は腕を伸ばして手すりを掴み、身体を引き上げる勢いとともに三段飛ばしで駆け上がる。とにかく細部を切り詰め、省き、短縮したことが功を奏し、始業のチャイムと同時に教室前側の扉から豪快に転がり込み、セーフかアウトか、セーフ寄りのアウトかアウト寄りのセーフか、教壇にいるはずの教員Mに尋ねたのだが、そこには誰もいなかった。
不思議がりながら見回せば室内はもぬけの殻、クラスメイトたちもいなければ悪友Kもいない。何よりいつも笑ってくれるクラスのマドンナFがいない。
「あ、今日は日曜か」
黒板の右端にチョークで縦書きされた日付を見ながらそう呟いたがそれは見間違いで、日の字だと思われているその下からは短足気味の二本足が伸びている。ツメくんはその事実に気が付くよりも先に、黒板の中央にでかでかと殴り書かれた
『緊急集会、体育館!』
という文言を目にする。
そして今一度、自分以外の何ものもいない教室を見渡し、黒板端の日の字を改めて確認してから、今日がちゃんと月曜であることを認めたのだった。
「いや、薄々感付いてはいたけどね、だって今朝ちゃんとジャンプ読んできたし」
ツメくんは誰に聞かせるでもない言い訳を口にしながらチョークを手に取り、見誤るほど短かった月の足を黒板からはみ出るほどの長さまで引き伸ばして教室を後にした。
よほど急かされたのだろう、体育館へ向かう廊下には、怒涛のように通り過ぎた生徒たちが巻き上げた塵や埃が今もなお中空を舞っている。それが目に入らぬよう手庇を作りながら通り抜けていくツメくんの足が何かを蹴飛ばす。手をどけ、飛んでいったものを確認すると、それは上履きの片割れだった。
急ぐ生徒の足から外れてしまったのだ。しかし取りに戻る時間も惜しいとその生徒は片足の上履きだけを連れて体育館へ向かってしまったのだ。取り残された片割れは、後から後から絶え間なくやって来る生徒の上履きに踏まれ、小突かれ、弾かれて、ようやくそれも止まったと一息つけたところでツメくんに蹴飛ばされたのだ。廊下の壁に衝突し、遅れてきた足音の遠退きとともにあらわになる廊下の全貌、そこには上履き以外にも、倒れた消火器、小テストの破れた答案用紙、ノックダウンしたボクサーのような制服の上着、それらは後々ここを訪れることになる用務員に回収されるまで、塵や埃同然の不衛生な景観の一部として廊下に置き残されることになる。
そんな品々のなかを抜けていくツメくんは、緊急を要する集会について思いを巡らす。最初に行き当たったのは、先月マドンナFにフラれてから荒れに荒れて素行不良の限りをつくしたKの公開説教、次に遭遇したのは、そのKと自分が秘密裏に進めているカンニング計画の漏洩、そして最後の心当たりは、学校のレコードを塗り替える勢いで増加している己の遅刻のこと。まさか一生徒の遅刻程度で緊急集会など開かないだろうと思いたかったが、先週の金曜日の遅刻の際、教員Mからいつも以上に深刻な声と顔で「次はないぞ」と告げられたことを思い出し、少しだけ足を速めて体育館への渡り廊下を通り抜けた。
生徒が多すぎるのか体育館が狭すぎるのか、あるいはそのどちらともなのか、いずれにせよ全校生徒の収容を想定できていなかった体育館は、通用口のぎりぎりまで生徒たちが詰め込まれ、かろうじて表面張力で維持されているグラスの水のように、いつ何時なにかの拍子に生徒たちが体育館の外へとあふれ出てきてもおかしくない状態を維持していた。
ツメくんはそこへ慎重に近寄り、雨の最初の一粒のように音もなく踏み入る。さざ波は確かに立った。周囲の生徒が新入りのツメくんのために少しだけ脇にどき、そのために上履きの踵が体育館の外へと数センチほどはみ出すことになった。けれど影響はそれだけで済み、ツメくんは無事、体育館に収まることができたのだった。
が、収まってみたはいいものの、どこか様子が変だった。
集められた生徒たちは騒然としており、集会が始まっているようにはとても思えない。そのまま数分経過したが、何かが開始されるような気配もなかったので、ツメくんは前にいる生徒の肩を叩いて尋ねる。
「これ、何待ちよ?」
問い掛けられた生徒は、後ろにいたのがツメくんであることに少し驚いた表情をし、それを慌てて隠してから答えた。
「いや分からんのよ、ずっとこの調子で、なんもやらん」
あきれたように口を半開きにし、そこから薄く吐いたため息の風圧で捩じった体を戻しながら正面へ向き直った。
トラブルでも起きたのだろうかと思い、ツメくんは背伸びをして体育館の前方に目を凝らす。幾多幾多の生徒たちの頭の先にある舞台上に教職員の姿はいない。そこから上手側へと視線を移動させ、壁に沿ってぐるりと体育館を一周、下手側に到達するまで教職員を見掛けることはない。いるのは体育館をただただ埋め尽くす生徒たちのみで、彼らは緊急と銘打って呼び集められたのに何も始まらないこの退屈な待機を好機とばかりに雑談に励んでいた。
日頃は時間割の間隙に合わせて切り詰めている話題をやたらめったら誇張し、原形が分からないほど装飾してゴテゴテになったら大仰な身振り手振りで送り出す。受け取った相手も負けず劣らずの大袈裟な反応で喜怒哀楽、感情的に手を打ち叩き、張り上げた声は大音声、助長し話者は修辞を重ね、もはや主眼は飾り付け、装飾過多のカクテルパーティーのような賑々しさが体育の館を陽気に揺らす。
その振動で体育館の外に揺すり出されそうになったツメくんは前にいる生徒に、
「もう少し前にいけない?」
そう頼んだのだが、
「こっちもこっちで動けんのよ」
やや険のある口調できっぱりと返されてしまい、ツメくんは気後れして口ごもったが、不安定な振動に身を揺られているうちに、見ず知らずの生徒に邪険に扱われたことに沸々と怒りがわいてくる。
振り返った際に合わせた顔を記憶から探してみたが、やはり覚えはなかった。同学年の生徒なら見覚えくらいはあるはずなので、上級生か下級生の可能性が高いだろう。上級生なら仕方がない、とツメくんは自身の気の小ささに目をつむり、しかし下級生なら、と胸中で叫びながらつむった目を勢いよく見開く。その瞳が物語るパワーによるハラスメントストーリーは脳内上映だけで終わるフィクションなので実際には起こりえないが、唯一の観客である当人にとっては現実の一部と何ら変わりなく、発したこともない怒声とともに繰り出した流麗なクンフーで不逞生徒を打ちのめして一件落着、エンディングを迎えたときには、わいた怒りも収まっていた。
文句のつけようがない映画を観たあとの晴れやかな心地が胸に広がり、それは麻酔の甘さでツメくんの全身に穏やかに伝わった。神経が弛緩し息が深まる。眠気が何度か目蓋をよぎる。足裏から床の感覚が希薄なるのに相違してグンッと頭が重くなる。急に現実感がなくなる。まるで水中に沈んでいくかのように。底には何があるのだろうか。それを思い描き、触れそうになる度、一時的な目覚めで現実に浮上する。
前にいる生徒が船を漕いでいた。
船?
考える前にまた落ちていく。
どこに?
あともう少しでそこに到れるというところで、ツメくんの意識は突然の大雨に見舞われたかのように急激に覚醒した。
汗は一滴もかいていなかったが全身は寒気に包まれ、激しい運動をしたあとのように身体が酸素を求めていた。呼気と吸気を細かく繰り返しながら額に手をやり、そこに発汗や発熱がないことを確かめたツメくんは、前にいる生徒も自分とまったく同じ仕草をしていることに気付く。そしてそれだけでなく、その動作がまるで複製画のように周りにいる生徒たちにも広まっていく一瞬を目の当たりにした。
これは偶然か、それにしては出来すぎている。ならばここは夢のなかか、と思って頬の内側を噛んでみたが、痛みは現実と全く同じ鋭さで頬に食い込み、かすかな血の味を口内に滲ませた。淡い鉄味のそれを唾液で喉奥に落とし込み、赤の他人の欠伸も伝染するくらいなのだから、同環境に押し込められたら同種の生物が同行動を取ることは、それほど不合理ではないのかもしれない。目撃した非現実的な出来事を理屈付け、それを自分に言い聞かせる。
それに、とツメくんは満杯になった体育館に改めて視線を這わせる。こんなにも熱気で蒸し上がっているのだから、幻覚の一つや二つを見てしまうこともあるだろう。こんなにも満杯で、意識は飛び飛びで体育館、息をするのにも満杯で、息が切れる体育館を見ていると、ツメくんは目が回って息苦しくなり、とっさに後ろを振り向いて新鮮な空気を体内に取り込む。口から清流を注ぎ込まれたかのように身体や神経、頭のなかから澱みが払われて意識が明瞭になったが、それは通用口の最も近くにいたツメくんだからできたことで、他の生徒たちは暑さと低酸素に判断力を奪われ、濁った水槽に押し込められた熱帯魚のようにパクパクと口を開いて理解不能な譫言を口走っていた。
生徒たちは自分が意味の通じない言葉を発しているとは思いもしない顔ぶりで、相も変わらず誇張と装飾を駆使した話題を周囲に振る舞う。それを受け取った生徒は耳に届いた言葉の意味を半分も理解できていないが、音に反応するオモチャのように発作的に笑い声を立て、脳裏をよぎったまったくの無関係の返答で応じる。それを聞いた生徒もてんで関係のない話を始め、絵の違うパズルを無理やり繋ぎ合わせているかのような如何わしい情景が体育館のあちこちで繰り広げられていた。
その様子を唯一正常な意識を持って目にしていたツメくんは、今まで自分がいた秩序立った世界の崩壊を前にして、ただ立ちすくんでいることはできなかった。
前にいる生徒の肩を叩き、もはや昇天しているといっても過言ではない顔つきで振り返った彼に、
「寝たら死ぬぞ!」
雪山で遭難したときに口にする定番の一言を、語気を荒らげて告げた。
さらにそれを体育館中に広めるように付け加えると、前の生徒は覚束ない面持ちながらもしっかりと頷き返し、記録した音声を再生するようにしてツメくんの言葉を半径1メートル周辺の生徒に伝えた。伝えられた彼らは、各々のタイミングで言葉を理解し、昨夜見た不思議な夢を話す口調でさらに周囲の生徒に伝え、その生徒たちもさらに周囲に、周囲に、周囲に伝えていく。その速度は草頭をなびかせる風速5メートルで体育館中の耳から口を吹き抜け、言葉を発する際の唇の動き、付随する吐息、聞いたときの反射的な瞬き、驚き、伝言時の微小な動きの連続が緩やかな気流を生み、あうあうと浮ついていた言葉を体育館の熱気もろとも巻き上げる。
天井に衝突した熱気は、開け放たれた上窓から外に流れ出たが、僅かな自重を持つ言葉は照明や梁の鉄骨にぶつかって床に落ちていく。未だ朦朧としている生徒たちの頭上にポツポツと雨粒のように降り注ぎ、熱で弛んだ頭皮を刺激すると、へたっていた毛髪が一打ごとに曲げていた腰を持ち上げ、どんなに過酷な状況下でも無根拠な希望を抱ける若者らしい髪型へと復旧していった。
髪型が整えば顔つきにも生気が戻り、半ば空に旅立っていた魂をしっかりと己に結び付けるため、作物のように背筋を伸ばした生徒たちの顔に上窓から採り込まれた外光が降り注ぐ。光は僅かに熱を帯びながら唇や頬、額の凹凸に合わせて丁寧に覆いかぶさったが、ただ唯一、目の窪みに集まったものだけは、その温度を細針の一筋に変え、混濁して底のない水溜りのようになっていた瞳に射し入った。
それは初め、か細い糸筋に過ぎない範囲のみの透明性を保っていたが、そこから生まれた小さな虹が周辺の濁りを着実に浄化し、ついに眼球を隈なく透かせたとき、そのすぐ下の咽頭で堰き止められていた言葉が羽化するようにして口先から飛び出した。
目的地を持って飛空する有翅虫を思わせる勢いで周辺の耳に羽ばたき、耳道の奥に設えられた鼓膜にそっと掴まる。そこで蠢くのでもなく蜜を吸うのでもなく、標本の静けさで無意に囁くと、それを耳聡く聞き付けた小鳥が虫を啄んで無味な囀り、更にそれを俯瞰していた大鳥が小鳥を喰らって無意味を鳴いたとき、その心臓を銃声が貫いて無垢を喚けばパーティータイム、いつしか体育館に祭宴の賑やかさが立ち戻っている。
その生命力に満ちた喧騒を耳にしたツメくんは、自分の言葉で崩壊の危機を回避できたことを知って安堵の息を吐き、吐き、吐いて、吐いた矢先のことだ。
「先生たちは」
背後からの唐突な声に驚き、
「一体何をしているのだろう?」
振り返った先には、体育館の巨大な影が視界いっぱいまで広がっていた。
それは、そこから見えるすべての風景に薄く覆い被さり、渡り廊下は寂れた草原、校舎は曇天、窓は岩、まるでレースの目隠しをしたかのように明度をなくして目元までやって来る。それを見たツメくんは何か大掛かりな出来事を予感し、けれどその実体が掴めないもどかしさで自分がカカシに変わってしまったかのような錯覚に襲われる。広大な田畑の真ん中で、一人ではとても太刀打ちできないものを任されてしまい、何ができるのでもなく突っ立っていることしかできないあの人形になってしまったかのような、ような。
そのイメージは捻っていた身体を前に戻しても頭について回り、どんなに瞬きをしてもしつこく居ついて離れない。
そんなツメくんをさらに追い詰めるかのように
「先生たちは一体何をしているのだろう?」
ふたたび投げかけられた問い掛けは、本当に自分に向けられたものなのか。耳に手をやって貝殻のような輪郭を丁寧になぞり、そこに覚えのある感触しかないことを確かめる。鏡に映すまでもなくその形状は指先だけで思い描くことができ、いくつもの音を捉えるための複雑な仕切り、その下にある耳穴、横の小豆ほどの膨らみ、つるつるした耳たぶ、すべて把握しているはずなのに、頭のなかで反響する言葉をツメくんは知らない。知らない言葉が自分のなかで大声を振りまき、あまつさえ鼻の奥で増幅されながら口腔へとやってこようとする。ツメくんはそれを舌の根で懸命に押し返そうとしたが、寒天のようにぬるりと横滑りしながら唇の隙間から吹きこぼれてしまった。
「先生たちは一体何をしているのだろう?」
ツメくんの口からその言葉が現れると、前にいる生徒の耳がぴくりと機敏に動き、先ほどと同様の手順で周囲に伝えていく。ツメくんは慌てて止めようとしたが、中断の余地もないまま体育館の隅々まであっという間に行き渡ってしまう。自分の本意でない言葉が広まってしまったことに居心地悪さを覚え、どうにかして撤回や訂正、修正ができないものかと、うだうだ思い悩んでいるうちに、言葉が回答に変じて返って来た。
「職員一同一様に
青ざめた顔色で壁際並び
その横手に校長
喋々ぼくらを睨んでいる」
前の生徒にそう告げられたツメくんは、形の上での発言者として頷いて受け止めはしたが、あれは不本意に魔が差し込んで口を衝いて出たものだったので、ある日突然、手渡しされた自らのへその緒のように、その言葉を持て余した。
耳から口へ、少し鼻の方に漏れてしまったものを吸い戻し、まるで飴玉のように口内で転がす。舌の上を行きつ戻りつさせている間に小さくなっていけばいいのだが、どんなに舐め回しても唾液が増えるだけで一向に消えてなくならない。自分にも誰か伝える人物がいれば楽になれるのにと、意味もなく背後を向いてみたものの、そこには体育館の大きな影と校舎へと伸びる渡り廊下があるだけで、胸の内を受け取ってくれるものなど現れない。
どんなに軽はずみな発言であっても、自分から発せられた以上その責任は持たなければならないのか。大人になることで学んでいく教訓にぼんやりと思い馳せるツメくんだったが、やはりツメくんもまだまだ子ども、ではないにしても大人からはそれなりに距離を隔てていたので、ついつい堪え切れなくなって口から発してしまった。
「先生たちは壁際に並んでいて、校長はお喋りを止めないぼくたちを睨んでいるみたいだよ」
その声は体育館の影に包まれ、薄まり、聞こえなくなる。
強風が吹き寄せる。
影がうねる。
「校長はね」
風音に
耳を
澄ませる
「きみたちが自発的に声を沈めるのを待っているよ。そして静まったところで、自らの辛抱強さと寛容さを見せ付けるために、なによりもきみたちに反省を促すために、あの決まり文言を口にする腹積もりなんだ」
「え? 分からない? あれだよ。きみたちが静かになるまでに、ってやつだよ」
「校長は、それを言われて自責の念に駆られるきみたちを思い描いて、ほくそ笑んでいるはずだよ。ただ待っていただけなのに大仰な訓戒でも説いたかのような気になって。そんな校長を想像したら我慢ならないよね?」
あまりの饒舌に圧倒されたツメくんが「ま、まぁ」と肯定的な相槌をした途端、語気が強まり「きみたちは反抗すべきだよ」一歩近付き「そうみんなに伝えなきゃ、さぁ早く早く」急き立てながら「ねぇ、きみ!」前にいる生徒に呼び掛けて「みんなで校長の邪魔をしよう」生徒が振り向く前に「思い通りにさせないよう騒ぎ続けるんだ!」
そう言って校長の思惑を妨害する試みを伝え、前の生徒はそれに賛同して周りにいる生徒に伝え、もう要領を得ている生徒たちは無駄なく他の生徒にも伝え、あっという間に体育館の隅々まで行き渡る。
自分を越えて物事が進んでしまったことに、ツメくんは蚊帳の外にされたような心境を抱えたまま、結託の意思表明のように一段と声量が増した雑談を耳にする。体育館が大きく揺さぶられ、波打つ床板を狼狽のステップでやり過ごす。息継ぎのために小さく開いた唇の隙間から息を吸う。その間の静寂、鼓膜を突き刺す鋭角な耳栓となって途切れる会話、徐々に絞られていく声のボリュームはさざ波の聞き取れない囁き、頃合いを見計らった校長が発話のためにヒュッと短く息を吸う音が静謐の体育館で弾ける。
「き」 みたちがーー
最初の一音が聞こえるか聞こえないかの瞬間に、生徒たちはそれまで抑えていた言葉を一気に開放する。校長の以後の言葉を覆ってかき消し、一丸となって体育館の外へと追い出す。再びの喧騒に不機嫌に口を噤む校長、怯えるその他の教職員が壁と同化してさらに気配を断つなか、生徒たちはそれぞれの会話中の単語に節をつけ、傾聴必死の暗号文を校長に送る。
「あのさ、天井に挟まったバレー『ボ』ールってどうやって回収してるんだろ?」「いや、たいいく、でも、たいくでも、通じるなら言い方なんてどっちでもいいでしょ」「用務員さんが取ってるって聞いたことあるよ」「まだ始まらん!」「どうやってよ?」「それは違うと思うよ」「どんな細かいことでも、ちゃんと正確に言わないと」「うるせぇ、諦めきれないんだよ」「ものすごーく高『く』ジャンプして」「右ひじと左ひじ、くっつけられる?」「んなもん知るか」「俺はそれよりも利便性を取るわ。『た』いくの方が明らかに言いやすい」「まだ始まらん!」「あのセンコーさえ邪魔しなきゃ」「ならそうしなよ」「私はたいいいくってちゃんと言うから」「やば超人じゃん。超務員さんじゃん」 「今、いっこ多くなかった?」
「鼻『血』出てるけど大丈夫?」「多くない!」「だいじょうぶ、だいじょうぶ」「全然、大丈夫に見
「 『ガ』
『静』 」 」
るけど、購買の『かに』ぱんって品揃えする意味あるか、あれ」 まだ
俺の ン『ナ』を!
3秒ルー『ル』の延長願い ってどこに 」 はじまら
『と』
『思っ』
ん 『た』
『か』
『い?』
解読に成功した校長が、その挑発的な内容に怒りで打ち震えているという伝言が体育館の隅に行き届くまでさほど時間はかからない。その通知に生徒たちは歓喜し、気が休まる暇を与えないよう会話による波状攻撃を絶え間なく繰り返す。
冗談、猥談、体験談、その後に起きた後日談、他愛のない雑談で気を散らしたあとに特大ゴシップ、教員Mと生徒Fの校内恋愛の噂が押し寄せ、黒板上で交わされる秘密の合図、それから読み取れる本日の逢引き場所、その符号に気付いている生徒Kと生徒Tの妨害で逢瀬が毎回失敗に終わるという顛末が語られる前に引き返し、次に押し寄せて来るのはカンニング計画の予告、時期と時間、手法と主犯Kの惜しげのない個人情報が間断なく押し掛け、それぞれの情報が間髪入れずに畳み掛けてくるので、内容は頭のなかで錯綜し、その整理に気を取られているうちに日が傾き、まったくの無関係、折り合いもつかない別々の影が水滴のように繋がり、そしてそれが体育館全体まで広がり切って夜に包まれる寸前、天井に皓々と照明が灯る。一堂に会していた影が一瞬にして離散し、巣へ帰るようにして素早く足元へと引き返してくる。外は夜だが内は違う。昼間と変わらぬ陽気な会話が止まることなく継続し、校長が口を挟む隙など毛ほども与えない。
そうして生徒たちはお喋りに明け暮れ、気が狂うほど日が暮れ、気付けば一年経ち、卒業の日を迎えた上級生たちを贈る言葉とともに体育館から送り出し、空いた分のスペースに新入生が補充されるまでは在校生一同、力を合わせて頑張ります、その宣誓に合わせて体育館脇の桜木にぽつぽつと花が付き、ほぐれた綿のように桜の花が樹上を覆った頃、在校生の校歌斉唱とともに新入生が体育館に入場する。
まだ右も左も分からない新入生たちに右と左を教え、もう教職員は当てにできないので上級生が授業を代行する。折角新品のノートや筆記具、教科書を買ったのに申し訳ないが、授業は口頭のみで行う。そう告げて語り出される周期表の暗記法や英語文法。記憶のための記録は許されず、暗記は暗唱よりも復唱で元気よく発声することを推奨されている。そうして新生活が幕を上げ、新入生が授業にも慣れ始めると、目測による大雑把な身体測定が執り行われ、その数値を参考にそれぞれの配置が決められる。体が大きいものは体育館の奥に、まだひ弱なきみは最前列で横隔膜を鍛えなさい。返事! 返事ィイ! はいッ!
そしてまた一年が経ち、お世話になった上級生の卒業式、先輩ありがとうございます、入学当初は軟弱な横隔膜でしたが、ほら、見てください、これを、おお見事な横隔膜じゃないか! それならもう大丈夫だ、この最も声が響く場所はお前に託したぞ! はいッ! おう、いい返事だ! だが申し訳ないが、授業は口頭のみで行う。
そう告げて語り継がれる諸々の学法は、多少のアレンジが加わって新入生に伝えられていく。その軽微な変更は、些細な角度のズレが結果として多大な距離の変容になってしまうように、桜が咲いて散る度に、散って散って、散り散りになってしまう度に、枝先は見当外れの陽光を目指して突き進み、もう何度目の開花だろうか、いいか、お前らぁ、ここは他の学校とは違うんだ。勉強? スポーツ? そんなものは必要ない。この学校はとにかくお喋りが大事なんだ。えっ、理由? それは、えーっと、そう、横隔膜! とにかく横隔膜専門の学校なんだ! 横隔膜のことだけを考え、横隔膜のためだけに三年間を終えるんだ! 分かったか! 返事! 返事ィイ! あ、はい。
透けて見える形骸に返事も当然おざなり声、無気力に引き継がれる伝統は元の主意を見失い、分化した枝葉末節を幹と仰いで語り継ぐ。そこに花が咲けば習性に従った虫が集い、蜜に密して事務なやり取り、萎れてもなお去らない重みで傾く骨組み、風に煽られれば関節痛の軋みを立て、明日にも崩れてしまうのに、その明日はまだずっと未来のことだと無根拠に思っていた頃、その大嵐は数百年に一度という触れ込みで現れる。
発生場所は不明、進路から遡ろうとしても草藪を越えた辺りで途絶えてしまう。未知数のその正体に反して足取りは早急で、何か確固とした目標があることは明白だったが、その目的はやはり不明だった。
大嵐は仰々と繁茂した藪草をミステリーサークルのような螺旋状に薙ぎ倒し、葉に付着していた露を撒き上げながら進んだ。露は荒れ狂った渦巻きのなかで細かく分散し、霧状になって住宅の郵便受けや道端の塀に貼られていたポスターに激しく降り掛かる。まるで滝に打たれたかのように濡れそぼったそれらのそばを歩いていた人の足をすくい上げるようにして突風を吹かせ、靴の片方を奪い去る。片靴を失ったその人は路面に転げながら「これは数百年に一度!」と叫び声を上げた。
大嵐はその惹句に相応しい荒々しさで転がった石を辺り構わず弾き、捨てられた空き缶をはるか上空へとふっ飛ばす。曇天に向けて一直線、缶の直撃をぎりぎりのところで避けたカラスが姿勢を崩して嵐に飲まれる。入り乱れる風雨に揉みくちゃにされ、無作為に羽根を毟り取られた痛しい姿でなんとか脱出して地上に降り立つ。柔らかい隕石のように庭先に着地してきたカラスを見て、異常事態を察知した犬が子犬を連れて小屋へと逃げ帰る。ガタガタと震える我が子を腹に抱え、ただただ脅威が去るのを待つ。大嵐はその犬小屋にも、路上駐車された自動車にも、互いを線で結び合う電柱にも、苔むしたアパートメントにも一切目をくれず目指す、目指した、目指していた。何を目指しているのかも分からないが目指していたその建物めがけて渾身の己をぶつけた。
ぶつかられた体育館はハリボテのように簡単に倒壊した。かつて膨大な数の生徒たちを収容していた剛健な面影はもうそこになく、鉄筋のはみ出したコンクリート片や露骨な鉄骨、ヒノキの板材といった無惨な建材が散乱するだけだった。
自らの目的を達成した大嵐が満足気に生暖かい旋風を吹かせて拡散したあと、辺りに散らばった瓦礫もやがて風化し、今では表面に草花が生い茂り、矮小な虫たちの棲み処になっていた。
春、まだ不活性の体節を試すように緩やかに生命を維持し、気温の上昇とともに次第にその可動域を広げていく。初夏に覆われるに連れて翅を振動させ、摩擦熱で温度に体を慣らしながら夏の一線を越えると一斉に始まる輪唱、一匹のメスを巡る競演に飛び交う虫網と笑い声、逃げ惑いながらも鳴くことだけは止めなかったが、時節の夕立を迎えるごとに冷めていく大気に終焉を想う。
やがて秋、日に日に減じていく音量にそこはかとない無情を抱きながら、いつ止むとも分からない自らの脈動に耳を凝らした。ガラス片をなぞるかのような神経質な心拍、把握する片時、静寂に脆弱な爪跡を残して冬が訪れる。
虫たちの声が絶え、ただ時折吹き巻く風に乗った最低限の息遣いにその存在を思い起こす。過去、ここで響いていたであろう確かな鳴動、幻聴、空を見上げる、眩しくて俯く、足元の影、虫の死骸、その欠片、転た、耳がとらえる草陰からの物音、揺らめく葉頭が何かが素早く移動していることを少し遅れて伝える。
草葉を次々に掻き分ける鋭敏な身ごなし、近付くにつれ耳に届く荒々しい吐息、目標物に向かって直線を引き、もうすぐそこまで、そこまで、瞬間、ぼろ切れをまとった見すぼらしい老人が草のなかから現れ、凍り付いた寒空を叩き割るような怒鳴り声を上げる。
「きみたちが静かになるまでに」
そこで老人は深く息を吸い込む。容赦なく突き刺す氷柱のような空気があっという間に老いぼれた肺を串刺す。口内に滲む血味を噛み締めるようにして歯を食いしばり、空気の漏れた両肺に冷気を注ぎ足し、事切れ間近の今際の際々、すべてを一息にして吐き出した。
「千年掛かりました!」
言葉と同時に地面に倒れ伏す。こだまする怒声は空に溶け、小さな雪片に生まれ変わって落ちてくる。一欠け、二欠け、無尽の白片となって大地を覆い、真っ白に均して跡形も残さない。