『蛹』
主な登場人物名 (年齢)
五十音順
相澤夏々(あいざわなな) (20)
相澤春樹 (61)
大石三郎 (41)
門口淳 (26)
金谷清彦 (33)
橘田栄子 (22)
黒瀬優 (27)
小峰由香子 (26)
中村謙二 (38)
高乃慶介 (23)
早坂日葵 ( 9 )
早坂恵美 (32)
藤崎あいり (20)
船津道忠 (24)
真辺輝雄 (26)
◆
プロローグ
去年、九月の彼岸 夕方 (雨)
ある清楚な住宅街の一角のアパートに複数のパトカー、救急車が回転等を回しながら周りを囲み、野次馬がスマホで撮影したり、近隣住民が窓から覗いたりしていた。
辺りは慌ただしく、レインウェア着て、ブルーシートを運ぶ者、境界線を引く者、携帯で連絡をとる者、それぞれが動いていたが、現場アパートの駐車場で下を向きながら唇をかみしめ両拳を握りしめる女性警察官と、その女性警察官の両肩にそっと後ろから手を置く中年男性の警察官だけが止まっているようだった。
後に、ニュースやワイドショーなどで話題にのぼる事件となり通称『蛹事件』と呼ばれたが、別の事件がおこると報道されなくなった。
◆
三月二十日 春の彼岸 南関東では、もうじき桜が見頃を迎える。。
首都圏から電車で三十分ほどにある川沿いの住宅地
その住宅地の最寄り駅 Jr越川線扇駅から西に十数分歩くと、川を渡る長い橋梁や鉄道橋がある河川敷にでる。
天気が良く空気が澄んでいると、富士山や、都心、秩父連山、遠くに群馬、栃木の山々、筑波山とパノラマの景色が一望できる。
町には、これといって何もないが住むには、ほどよいようだ。
扇駅南口ロータリーを出て細い道を真っ直ぐ歩くと一つ県道に出る。
自動車は市道を進まないと県道には出れない。
県道を渡り、もっと細い路地裏に入って200mほど進むと込み入った住宅地の中に、築三十五年以上の2DKのアパートが見えてくる。
二階建てで上、下に三部屋ずつある。見た目は古いし部屋割りは変わらないが、しっかりとリフォームされていて、月44,000円(税込)と格安である。
先月、このアパートで地元新聞に小さく載る事件が起こった。
一◯一号室の住人が亡くなったのだ、孤独死だった。
黒瀬優は、その孤独死があった一〇一号室前の地面から一段上がったコンクリートの通路に座り込み、甘いコーヒー牛乳とスーパーなどでよく見かける二袋500円で売られている、ビスケットにチョコレートが付いているお菓子を食べながら、今日、ここに越してくる相澤夏々の引っ越しの手伝いをするために久しぶりにアパートに訪れていた。
「全く、社長と相澤さんは人を使うのが上手いのだから…」
相澤夏々(あいざわなな)とは一か月ほど前に一度、それも仕事上 出入りしている不動産店で会っただけで引っ越しの手伝いをする嵌めになってしまったのを思い出していた。
◆
先月の祝日に、黒瀬は形ばかりのアパートの契約解除に相澤不動産を訪れていた。
相澤不動産を経営している相澤春樹は、地元に古くからある不動産会社の二代目で扇駅前にある。今は、多くの物件は大手賃貸会社に委託していて、実際に自分が管理してるのはわずかであった。地元自治会の会長もしてるようだ。
「いやー、今回も助かったよ。黒瀬くん、ありがとうね」
相澤はティーカップに入ったコーヒーと箱をテーブルに差し出しながら黒瀬が座っているソファーの反対にある自分専用の黒光りした椅子に腰かけた。
「いえ、こちらこそ、ありがとうございました」
コーヒーに一緒に出された箱の中の砂糖3つとミルクを2つ入れた。
「で、どうだった? 今回の放送は?あれだっけ、無料動画投稿のユアチューブって儲かるのだろう?」
「まだまだ生活できるまでは儲かっていませんよ。でも、前回の放送が、よかったので、今回も見てくれるユーザーが多かったです。反響は、正直いまいちでしたが。あのバズった配信以来フォロワーも増えてますから、嬉しいですね」
「バズッ? あー、八戸さんのところの『蛹事件』ね。あれは、ひどい事件だよね」
「でも、相澤さんが、口を利いてくれたおかげで、あのアパートで配信ができました。ユアチューバーとしての自信もつきましたよ」
黒瀬優は、三年前からユアチューバーを職業にしているが、まだまだ、知名度は低く、昨年の暮れに入ってやっとチャンネル登録者が二万人を超えるようになってきた。
黒瀬のチャンネルは、名前の黒瀬のクロと優のス から取ってクロスチャンネルという、安直な名前である。
ホラーを中心とした実体験ライブユアチューバーで、旅をしながら、心霊スポット巡り、お墓でホラー映画鑑賞など配信するが、なかなか当たらずにいた。しかし、二年程前に事故物件に住んでライブ配信をした処、反響があり動画配信の視聴率が、伸びて行ったのだった。
事故物件巡りは、バイトで特殊清掃をやっておりバイト先の経営者、中村謙二に相談して実現したのだった。
この清掃業の知識を活かしながら、部屋で亡くなった方たちの、人生模様や、その人が生前やりたかったであろうことをできるだけ調べて、その部屋であたかも、その住人と話すように、笑ったり、泣いたり、相談に乗ったり、行動したりするライブ配信を行うのだった。もちろん、視聴者の意見などもきいたりする。
「それにしても、中村社長から相談受けたときは、どうしようと思ったけど、実際、助かるよ」
相澤は、コーヒーをすすりながら言った。
「助かっているのは、こっちです。相澤社長が、他の不動産関係を紹介してくれたり、中村社長が紹介してくれたりで、配信できてますので。ありがたいです」
実際に、それぞれにメリットが生まれている。不動産店から特殊清掃の依頼を受けた中村は不動産店に許可をもらい、黒瀬に連絡をとり、黒瀬は中村や別の従業員と現場清掃後、許可をもらった不動産店に入居の契約をとる、不動産店は事故物件に一度でも新規入居者が入った場合、次の入居者には任意の報告義務が発生しなくなる。そして、黒瀬は、その物件からクロスチャンネルを配信するのだが、その時に物件のアピールなども配信して、新規入居を促すのだ。無料で部屋を借りる代わりに物件広告をする。中村には、紹介料を支払うが、ほぼバイト代で帰ってくるので実質無料だ。特に小さな不動産店にとっては、形の上とはいえ事故物件に住んでもらえるのには助かっている。
最近では、黒瀬が住んでいた物件に住みたいと言う入居希望者の連絡が増えてきていた。
「それにしても、次の物件がすぐでてきたね」
「そうですね。普段なら、次の物件が見つかるまで暫く住まわせてもらうのですが、最近、中村社長の営業努力があってか、増えています。…ですが、それだけ人も亡くなっている事ですから…」
とコーヒーを苦い顔をしながら飲み干し呟く黒瀬
などと、話していると、賃貸の見取り図が沢山貼られた出入り口の引き戸が開いた。
ガラガラと戸を引いて入ってきたのは、黒瀬より少し年下であろう女性だった。
「叔父さん居る?」
と声をだしたのは、相澤夏々である。
夏々は、、隣市に家族と住んでいるが、来月、美容師専門学校を卒業し就職を期に一人暮らしを始める。叔父の相澤春樹が管理する相澤不動産のアパートに移るのだ。
「おー、夏々ちゃん、いらっしゃい」
と笑みがこぼれる相澤に対して、顔を上げずに目線だけ夏々に向ける黒瀬
「こんにちは」と叔父ではなく、そこに座っている黒瀬に挨拶をした夏々
その場で、頭を下げる黒瀬
黒瀬が頭を上げた瞬間に、夏々の顔が歓喜に包まれる。
「嘘でしょ!クロスさんですよね!」
「そ、そうです」突然のネームに黒瀬は戸惑った。
「マジで、ヤバい、何で叔父さんのところにいるの?マジで嬉しんだけど、私、めちゃくちゃファンなんです。ヤバい、ヤバい、ヤバい」
「わははは。夏々ちゃん、落ち着きなさい、お客さんの前だよ」
「あ、す、すみません」叔父ではなく、黒瀬に頭を下げた。
「いやー、今日姪っ子の夏々が物件見に来るって言ってたが、もう約束の時間か?」
「早く、部屋が見たくて、早く来たけど、まさか、クロスさんが居るなんて…ハッ!もしかして、春叔父さん、クロスさんが居るってことは、一昨日のライブ配信、叔父さんの処の事故物件?」
「まったく、もう、事故物件じゃない」眉間にしわを寄せる。
黒瀬は、相澤の方に顔を向けて、了解をもらった後で
「そうです。一昨日の配信は、相澤社長のアパートです」
「やった〜!春叔父さん、私、クロスさんの部屋にする!」両手をあげて大喜びする夏々
「いや、待て待て、夏々ちゃんには、ワンルームだが新築のいいところでセキュリティもバッチリな処 探してあるよ。それに、お父さんの秋彦に何て言う」椅子から立ち上がり必死に止めようとする
「お父さんは大丈夫!絶対にクロスさんの部屋がいい!、配信で部屋も見てるし、大丈夫!家賃は自分で払うのだから文句は言わせない。ね、ね、いいですよね。クロスさん」
「相澤社長、早速、部屋の契約が決まって良かったじゃないですか」
「…分かった、はぁ、部屋の事は叔父さんが何とかする。かわいい姪っ子の為だ、これも何かの縁だ、黒瀬くん、バイト代出すから、引っ越しの手伝いよろしくね」
「え!あ、はい」と返事をするしかない黒瀬だった。
◆
約束の時間が迫る中、黒瀬を見つめる視線があった。
黒瀬は、ふと、気配を感じたのであろうか、はっと我に返り周りを見渡した。
その行動に視線の主が声をかけてきた。
「お兄ちゃん、何食べてるの?」
黒瀬は、辺りに誰も居なかったよなと思いながらも周りを見渡した。
「上だよ」
アパートの渡り通路兼屋根の役割をしているであろう場所の柵の上から少女が覗きこんでいた。柵を乗り出さなければ、男の姿など分からないであろう。
上から、じっと見つめる少女に黒瀬は、何を食べているのかとのこと返事ではなく、
「食べるかい?」と言ってしまった。
少女は、「うん!」と大きな声を出しながら、上の階である二〇一号室の部屋の前から一番離れた二〇一号室前の階段駆け足で降り、また自分の部屋の下である一〇一号室の前まで十秒ほどで来たのである。
「何食べてるの?」と聞き返す少女
「チョコレートクッキーだよ」とクッキーとビスケットの違いが分からないので伝わりやすいほうで言った。袋を少女の方にかざすと、行きよいよくお菓子を鷲掴みにしてその場で食べ始めたのである。
少女は少し傷んだ洋服を着て、大きめのサンダルを履いていたが、整った髪に綺麗な爪をしていた。
しばらく少女を見つめていると、軽いクラクションが2回ほど鳴った。
合図したトラックの荷台には、中村ハウスクリーニングとの名前がある。
不動産業の相澤が連絡をしていた中村謙二の清掃トラックが引っ越しの荷物を載せて着いたのである。
少し離れた駐車場に止めたトラックから降りて歩みよった中村は、
「黒瀬くん、今日も宜しくね」と、白い歯を見せながら笑った。
それと同時に助手席のドアが開き黒瀬のもとに駆け寄ってきたのはアパートの新規入居者の相澤夏々である。
「クロスさん、今日は本当にありがとうございます」
と深々と頭を下げるのであった。
「よろしく」と、黒瀬は少しテンションの低い挨拶をした。
すると、察してか、中村が、小声で黒瀬に呟いた。
「黒瀬君も大変だね。普段引っ越しなんてやらないのだが、相澤社長の頼みだろ。俺も断りきれなくてね」と苦笑いした。
「本当にすみません。お父さんも手伝いに来てくれるはずだったのですが、家から荷物を出している時に腰をやってしまいまして、今、母と接骨院に向かっている所なんです」
「いや、ごめんね。不機嫌そうだった?」
先ほどの少女が黒瀬に声をかけた。
「ねー、お兄ちゃん、ここに住むの?」
黒瀬は、少女の目線を合わせるようにかがみ込んで答えた。
「違うよ。このお姉ちゃんが住むんだよ」
「ふーん。…日葵ね。お兄ちゃんの手伝いがしたい」
「あぶないから」と中村がトラックに向かいながら黒瀬に呟いた。
黒瀬も、少女に、うろつかれてケガでもされたら、たまったもんじゃないと、中村の『あぶない』の意味を察して、
「日葵ちゃんって言うんだ、ありがとね。でも、また今度、お手伝いしてくれるかな?はい、これ」
言うと黒瀬は、もう1つのあった、お菓子の袋を全部少女に渡した。
すると少女は、両手でガッシっとお菓子袋をつかんだ。
「あ、やっぱり、黒瀬さんは、普段でも、そのお菓子なんですね。」と夏々が入ってきた。
「日葵ちゃん、よろしくね。日葵ちゃんは、どこのお部屋?」
「上」と二〇一号室を指さした。
「日葵ちゃん、どうぞよろしくね。日葵ちゃん、いいな〜お姉ちゃんにも、チョコレート1つちょうだい」と手をだした。
しかし、日葵の反応に黒瀬と夏々はびっくりしたのだった。
日葵は、いきよいよく、お菓子を服の中に入れて見せないようにして目を見開き、「やだ!」と大声で叫び、じっと夏々を見つめた後、走って、自分の部屋がある二階へ走って行ったのだった。
「嫌われましたかね?」困った様子で聞く夏々
「大丈夫でしょ」と他人事の黒瀬であった。
「黒瀬くん、手伝ってくれるかい?夏々ちゃん、鍵開けて窓を開けてきてくれるかい」と駐車場にいる中村から指示がでた。
二人は「はーい」と返事をして引っ越し作業が始まった。
一人暮らしを始める部屋だからか、大物は冷蔵庫、洗濯機とベットのマットぐらいで、量もそれほどない。
十一時過ぎから始めた作業も十二時ごろには、ほぼ部屋に入っていた。
「限もいいし、お昼にするか?」
「了解です。そしたら、俺、駅前のコンビニで弁当買って来ますよ。相澤さん からお昼代貰ってますし、何がいいですか?」
「私も行きます!」夏々が腕を組んできた。
「なんですか?」腕をはらいながら黒瀬は答えた。
「ん〜」と、ふてくされる夏々
「中村さんは?」
「オレ、焼肉弁当二つと、デカ盛りカップラーメンの醤油で」と ドヤ顔の中村に対して
「了解です」相変わらず中村が大食いなのを知っている黒瀬は普段通りの顔をした。
駐車場の反対側のアパートの自転車なども通れない細い路地を 真っ直ぐ歩き、割と交通量の多い道を一本 渡り暫く歩くと、駅前のコンビニに着く。徒歩で十分ほどだ。
昔ながらのコンビニの自動ドアが開くと、そのコンビニチェーン特有の音楽が流れる。
いらっしゃいませ、などの言葉はなく店員は、お昼のレジ打ちで忙しそうだった。
黒瀬は、カゴを持ち夏々とレジ待ちの人の前を通りながら入り口から真っ直ぐにあるお弁当の棚を最初に見た。
「よかった〜あった。私、明太クリームパスタ~これ、マジ美味いですよね」
と、黒瀬に同意を求めたが、黒瀬は無視した。
中村に頼まれた焼肉弁当が1つしかないことに気づくと黒瀬は代わりの弁当を携帯で中村に確認した。
「今、あるのは、唐揚げ弁当と、ハンバーグ弁当、あと、カレーとかですね。あ、焼肉のおにぎりありますよ。」
「…」
夏々は、黒瀬が電話をしている間に、飲み物を選ぼうと飲料の冷蔵庫に向かった。
「…」
「了解、弁当とおにぎり四つですね」
黒瀬は、カゴの中に、夏々が入れたパスタと中村のお弁当、おにぎり、自分のカレーを入れて、カップ麺売り場に行くと、夏々が飲み物を手に黒瀬の元へ来た。
「クロスさん、飲み物、星印のコーヒー牛乳でしたよね。配信でいつも飲んでますもんね」
と、得意げに言った。
だが、黒瀬は、
「…ごめん、違うのにするよ」
「え?」以外の反応に落ち込む夏々
「いや、なんだか、甘いのはいいかなって、気遣ってくれてありがとうございます」本当に悪かったと思って敬語になる
そう言うと、醤油味の大盛りカップ麺をカゴに入れて、二人で飲料売り場に向かった。
コーヒーを戻して、黒瀬が選んだのは、600㏄110円のジャスミン茶である。
「ふ〜ん」と、落ち込んでいた夏々だが、黒瀬の意外な一面を見たからか、笑顔になっていた。
レジで3,000円弱の会計を済ませて、帰路に帰る途中で夏々は、
「ちょっと、意外でした、てっきりクロスさんは、激甘党だと思ってました。たぶん視聴者もそう思ってますよ」
黒瀬は、「…そう?」 と少し間をあけて返事した。
「絶対そうですよ。私がだまされたのですから、だって、チョコビスケットも買ってないですし、しかも、そのカレー辛口じゃないですか!」と嬉しそうな夏々である。
「…そうだね」 と言いながら、自分でも首をかしげるのであった。
普段ならトラックの中で食事する黒瀬と中村だが、今日は、アパートの住人である相澤夏々の好意
によりアパートの中で昼食をとることにした。
ここのアパートの部屋は窓と押し入れ以外は同じで、玄関を開けると右手にダイニングキッチンがあり左手にトイレと風呂があり奥に六畳の部屋が二つある。洗濯機は廊下に設置、洗面所は無い。
六畳間に1つ押入れがある。壁と天井は古風だがしっかりとリフォームされていて全てフローリングの部屋だ。
荷物がそのままなので、玄関入ってすぐのダイニングの床に直に座って3人丸くなり食事を始めた。
辛口のカレーに中村も 「久しぶりに黒瀬君が カレー食べてるのみたわ。ここ半年ぐらい、甘い物ばかり食べてたからなぁ」 と驚いたが、黒瀬は、面倒くさくなり 「…次の配信の準備です」 と答えたが裏目と出てしまった。
「本当ですか!」夏々がマジマジと食いついてきた。
しまった!と目を閉じる黒瀬「…まだ、内緒です」と言いカレーを飲む。
すると、中村が、「夏々ちゃん、本当に、このアパートでよかったの?朝、お父さん心配してたよ」
「いいんです。だって、最高じゃないですか。だってクロスさんが住んでるなんて、大ファンとしたら、もう即買いですよ。即住み。それに、他のアパートの住人の方たちも大丈夫そうですし」
「あー、さっき引っ越しの挨拶回りしてきたもんね。どうだった?」
すると、夏々は見上げながら先ほど今時珍しい引っ越し蕎麦を持って挨拶回りのことを話し始めた。
「祭日だけど、住人の皆さん居てくれてよかった〜でね、隣の、一〇二号室は、女の子で私より少し下かな〜専門学生って言ってた。何か、心配そうな顔してたから、私知ってて越してきましたって言ったら、『うっそー』って言われた~
その横の一〇三号室は、話し声はしたのだけど出て来てくれなくて…
上の二〇三号室の おじさんは真面目で面白ろそう、だってポロシャツのボタンを一番上まで閉めてるの、笑いそうになっちゃた。
真ん中の二〇二号室は、私より少し上のお兄さんかな、蕎麦アレルギーだったから、引っ越し蕎麦わたせなかった。今度、違うの持って来ますって言ったら、『大丈夫ですよ』って優しく言われた〜。
そして、この上の二〇一宇号室の日葵ちゃんの部屋はね、お母さんと二人暮らし、シングルマザーだって大変そうだけどすごいよね。尊敬しちゃう。 そうそう、結局渡せなかったお蕎麦も日葵ちゃん家にあげちゃった。めちゃめちゃ喜んでたよ。頭の上に三箱のっけて、お蕎麦、お蕎麦って踊ってたの~かわいい」
「…中村さん、大丈夫ですか?」と黒瀬が気遣う。
中村が泣いていたのだ、「わりい、大丈夫。」
「どうしたのですか?中村さん!」
「いや、実は俺、バツ1でさ、黒瀬くんは知っているけど、ひどい旦那だったんだ、嫁と子供を思いだしちゃって…いや、本当ゴメン」
少し重い空気が漂うなか、中村が「夏々ちゃん、聞いてもいい?」
「はい」と身構える夏々
「ここの、家賃いくら?、相澤社長に安くしてもらった?」
少し安堵する夏々「もちろんです。安くしてもらいましたよ。事故物件ですしね。月44,000円です」と自信満々に答える。
すると、黒瀬と中村は 大笑いした。
「それ、今の家賃のまんまじゃん」腹を抱え込む黒瀬
「やっぱりなぁ、さすがは、相澤社長だ」違う涙をぬぐう中村
「え?マジですか?、なんなん、春叔父さん!」と赤い顔をする夏々
三月の彼岸、午後、20度を越えて春本番となった。
◆
高乃慶介、去年の秋に扇駅前交番に配属されてきた新米の地域警察官である。
どういうわけか、配属された場所が大学生時代に住んでいた場所で、あまり新鮮さも無く職務している。
◆
四月十二日 春休みも終わり桜の木に若葉がいっぱいになるころ
扇駅前交番に勤務する小峰由香子は、駅前のコンビニで買ってきた たぬきうどんをすすりながら、刑事になるための勉強をしていた。
「先輩、昼休み中なのに熱心ですね」と出前のかつ丼を食べながら声をかけてきたのは、昨年の秋から配属された、高乃慶介である。
「あぁ、今年こそは、推薦をもらいたいからね。アピールも含めているのさ」小峰は、男言葉になるのが癖のようだった。
「高乃くんは、刑事になろうと思わないの?」
「まったく、思わないっすね。警察官だって、あと何年務めるのかわからないし、金ないし、彼女と なかなか会えないし、早く寮から出たいですよ」
食べ終えた、うどんのパックを休憩室脇の流し台に持って行き水ですすぎながら、小峰が高乃に背を向けて言う
「とりあえず、働けるって素敵じゃないか、階級試験に合格すれば給金も上がるし、今の内にこの仕事のやりがいを見つけないと、ただの公僕になるぞ」
「やりがいか…ただの公僕でも構いませんが…先輩は、なぜ刑事を目指しているのですか?」と高乃が お茶の入ったマイボトルを口に寄せながら聞いてくる。
「それ、聞くかぁ?」
「ダメですか?」
「ダメと言うか、これって無かったんだよ。刑事になろうってさ。ただ、警察官になったら刑事かなぁって感覚だったけど、去年の事件で本気で刑事になろうと思ったんだ…知ってるだろ、重要参考人 田中芳子を…」
怒りを抑えるような口調の小峰である。
「あの、『蛹事件』ですよね。自分が配属される少し前の…」
「うん。実際には、『扇ハイツ死体遺棄事件』だけどね。『蛹事件』とはマスコミがつけた嫌な名前さ」
◆
通称 『蛹事件』とは、昨年九月に八戸玄作が所有する扇ハイツ二〇一号室で起こった死体遺棄事件である。 そこの二〇一号室にはシングルマザーの田中芳子当時26才と 娘 田中凛 当時9才が住んでいた。
田中芳子は、高校生の時に妊娠した。どうしても生んで育てると言い、男と家を飛び出したが、半年も立たずに別れてしまうのであった。
でも何とか娘の凛を出産した芳子だが、1人で育てるのは無理と思い実家へ戻りたいと電話をかけたところ、兄弟から芳子が出ていった事で母親が心労で倒れ亡り、父親も鬱になってしまったと知らされ、二度と顔を見せるなと縁を切られたのである。
昼夜の仕事をしながら、凜を小学校に入れ、ここまで1人で育てたのだが、凜が8歳を過ぎた頃、夜の仕事場である男と出会ってしまう。男は言葉巧みに芳子に言い寄り、2人が住むアパートに転がり込んできたのだった。
最初は三人での生活は良かった。だが、数ヶ月も経つと家庭は一変していた。男は、二人に暴力を振るい始めたのだ。それでも芳子は男と別れることはせずに、ますます男の言いなりになっていった。しかし、男は突然出ていくと言い始めたのだった。芳子は引き止めようと懇願し金などを工面したのだったが、男は他の女の所に行ってしまったのだ。凜を育てる為だけに仕事をしてきた芳子、その渦中で知り合った男にどれだけ、心救われたであろうか、女として生き返ったのだった。
そして、そんな芳子が凜を邪魔者に思い始めたのである。
9歳になる頃のリンの日常は地獄のようであった。
最愛の母親から、毎日の暴力、ご飯も作ってもらえず、安息できるのは、学校と母親が夜の仕事に行っている時だけだった。芳子は仕事が終わると深夜にもかかわらずに凛を叩き、疲れると寝る。凜が学校から帰ると、罵声を浴びせ、暴力をふるい仕事へ行くのを繰り返す日常であった。
しかし、凜にとっては、母親が全てであった。
学校とアパートしか知らない凜にとっては、助けを呼ぶ術を知らない。ましてや、他の大人など解らない。学校の先生など、他の子供にしか興味がない。
凜の世界は母親なのだ。
小学校が夏休みになる頃、近隣の通報によりやっと児童相談所が訪問に来るようになるが、芳子は、頑なに必要ないと追い返すのであった。
相談所職員が来ると母親は普段より機嫌が悪くなる。そんな母親に対して、凜は知らない人が来ると母親が怒る。人なんか来ない方がいい、お母さんは悪くないと思うのだった。
夏休みに入ると、凜の生活は今まで以上に酷くなる。学校がないので、昼間 家では母親が寝てるので物音がたてられない。外に出ようものなら、折檻される。もちろん食事はなく 給食がないので母親 芳子が仕事帰りに持って帰ってくるスナックでの余り物の湿気たポップコーンなどが唯一の食事だった。
夏休みが終わり、学校が始まっても凜は登校してこなかった。
そして、九月二十三日 遺体として発見された。
9歳になったばかりだった。
◆
「その日は台風が近づいてきていて雨が降っていてさ。夕方近くに近所の住民より、田中のアパートが数日、静かすぎるとの通報を受けて、大石巡査部長と私で訪問したんだ。生安(生活安全部)から児童虐待の恐れがありとのことで連絡は受けていたんだ。本当は事件の翌日、凜ちゃんを児童相談所職員と生安で連携をとり保護するはずだったんだ。でも、通報があったから行かない訳も行かずに急遽、その場で保護できればと生安に連絡をとり先にアパートへ向かったんだ。
アパートに着き、ノックをしても応答がなくさ、そしたら、ドアが少し開く感じがしたんだよ。本当はダメなんだけど、そのままドアを開けてみたんだ。鍵はかかっていなかった。入口から足の踏み場もないゴミだらけで、袋にも入っていない。無造作に置かれた、ゴミ、空き缶、吸殻、そして異臭、ハエやゴキブリなどの虫、そこらの段ボールや、紙で覆われた窓、人の居るはずのない空間だった。 逃げたのかと思った。子供を捨てて逃げてれば、まだよかった…」
息を大きく吸って小峰は、話を続けた。
「…だけど、入口からかろうじて見える部屋に、大きな塊りが見えてさ、大石巡査部長も、何か感じるものがあったのだろう。無線連絡入れてたよ。私は、その塊りに引き寄せられるかのように、そのまま部屋に入ってしまったんだ。六畳の部屋の片隅に一つだけ、くるまった物があったんだ。 近づいたらそれが子供がくるまっていると直ぐにわかったよ。市販のラップやビニール袋、ガムテープなどで顔や、胴体、全身をグルグル巻きにされていて、ミイラなのか…本当に『蛹』みたいだったよ。布団などは隣の部屋にあって、本当、まき散らしたゴミ部屋の中で、それだけがくるまっていたんだ。『あぁ、出してあげなくちゃ』って思ったんだ。そして手を触れたら、グチュっとしててさ、中の体液が噴いてきたんだ。あぁ、なんて事だって思ったよ」
現場の声に高乃は黙って聞いていた。
「すぐに、応援が来たさ。後は、大体マスコミが報道している通りかな…何で、『蛹』って言われてるか知ってる?幼虫は、蛹になると成虫になる為に殻の中でドロドロに体が溶けてるのだってさ。テレビで心ないコメンテーターが言ってたよ。ふざけてるだろ」
そこで小峰は言葉を終わらせた。
実は、まだ母親が見つかっていないためか世論の反響が大きくなるのかは、わからないが報道されていない続きがある。凜が検視係に引き取られて検死解剖の結果、ラップで巻かれた時 凜は生きていたとの結果がでたのだ。
小峰の管轄である西区警察署の一課に在籍している同期で恋人である門口淳から解剖の結果を聞いたのであった。
今は怒りなのであろうが、小峰は、門口から聞いたその時は その場で、嗚咽を漏らして泣き崩れてしまったのであった。
衰弱していて抵抗できなかったのであろうか、それとも、死んでいたと思われていて巻かれたのか、いや、母親の芳子は途中で凜が生きていることには気づいていただろう。だが止めなかったのだ。巻かれた時は生きていて殺されたのだ。
「凄いですね…」
「たまたま、私が居ただけだよ。もっと酷い現場もある。私は、田中がきっかけだっただけだよ」と無理やりに笑みをこぼす小峰だった。
休憩時間が終わりに差し掛かる頃、正面から、「おーい、午後のパトロール行くぞ」との声が聞こえた。同じ扇駅前交番に勤務する巡査部長の大石三郎である。
「大石巡査部長、今、歯を磨くので待っていてください」
「あ、自分は、すぐに行けます」とマイボトルの お茶で口を濯ぎ大石の方へ そそくさと行く 高乃
「お、高乃、小峰より早いか、今日はバイク乗っていいぞ。 小峰は自転車な」と体育会系のパワハラが出てきた。
「えぇ、それはないですよ」と休憩室から歯磨きをしたまま顔を出す小峰であった。
◆
藤崎あいりは、昨年 高校を卒業し親に反対もされたが、何とか説得して、地方から声優を目指して上京した。扇駅から徒歩十分ほどの込み入った住宅地の中、2DKの格安アパート一〇二号室に住み、そこから都内専門学校の声優科に通っている専門学生である。
◆
五月十日 ゴールデンウイークも開け、まだ、世間は休み気分のころ
藤崎は専門学校に向かう為、扇駅の上り線二番ホームの最後尾あたりに立っていた。
「アイツも見てる。アイツも、アイツも…きっと、学校の皆も…・親も…知っている…」と、ぶつぶつ と 呟きながら…
◆
藤崎が住む最寄駅の扇駅から二駅で大きな繁華街がある宮駅がある。専門学校帰りにバイトするにも、休校の時にバイトに行くにも楽な位置にある。週五日ほど 宮駅のガールズバーのバイトをしている。 学費と家賃、は親が負担してくれるので、そこまでバイトをしなくても大丈夫なはずだったが、趣味であるコスプレとアニメ代が大変であった。
新学期になったばかりの頃、ガールズバーに いかにも金を持っていそうな二十代後半の男が現れ藤崎が接客する運びとなった。
「いらっしゃいませ。初めてですよね」
「そう、よくわかったね。一人で、このような店にくるの初めてだから、普通な感じ?」
一通りのお店の説明をし、ドリンクを提供しながら、藤崎はお決まりの言葉を聞いた。
「おいくつなんですか?」
「でた!」 男は苦笑しながら言った。
「いや、ごめんね。上司によくキャバクラに連れて行かれるのだけど、だいたいそこから入るよね。面接じゃないんだから」
「そうですよね」と納得したかしないか、藤崎は質問を変えた。
「それじゃ、お仕事は何されているの?」と先ほどの質問とさほど変わらなかった。
「あははは、君、天然?あ〜、おもしろ」と他の客が振り向くほどだった。
「いやぁ、南ちゃん 気に入った 俺通うよ」と胸の名札を見ながら言った。
「ありがとうございます」と意味がわからないまま答えた。
その言葉のとおり、男は頻繁に藤崎のバイト先に通うのである。
「そう、あいりちゃん コスプレが趣味なんだよね」通いつめてる男は藤崎の本名などを聞きだしていたのである。
「そうですけど、どうしてですか?」少し恥ずかしそうな藤崎に対して
「いや、俺、グラビア系も扱ってる、映像の製作会社で働いていてさ、どう、あいりちゃんコスプレ撮影してみない?」
「え、無理ですよ。私なんか」
「きっと声優の練習にもなるし、少し考えてみてよ」と強引なことはぜず、名刺と、お店に持ち込みができるお菓子のビスケットにチョコレートが乗っかっているのを渡した。男は、藤崎が甘い物に目がないのをわかっていたのである。
「あ、チョコレートだ〜うれしい〜」
後日、藤崎と男は、都内のファミリーレストランにいた、
藤崎は、パンケーキにチョコレートパフェ、オレンジジュースにガムシロップを入れて、ブラックコーヒーを飲む男の前にいた。
「ここに、サインすればいいのですか?」フォークにパンケーキを刺しながら聞いた。
「そう、後々、お互いトラブルの無いようにね」と簡素な契約書を見せてくれた。
「本当に、あいりちゃんは、甘い物が好きだね」
「そうなんですよ。ん〜、三月の終わりぐらいからですかね。甘い物しか目に入らなくなって、最近は、アニメ関係より甘い物の方が多いくらいですよ」あっけらかんと笑う
「明日、撮影だから、あまり食べない方がいいかも・・・」
「嫌です!」睨み付けて、きっぱり言うのであった。
「OK、OK。俺、契約書を上司に持って行くから、先に行くね。それじゃ、明日、甘いお菓子も たくさん用意しておくからね」と言うと、男はテーブルに置かれた伝票を持ってレジに向かうのであった。
翌日ゴールデンウイークの半ば五月一日、藤崎は、LAINで教えてもらったマンションの一室で撮影が始まっていた。
男と男の上司は、撮影の邪魔にならないように、ベランダに出てタバコを吸って笑っている。
「よく、あんな子を探してきたな。何も知らないと言うか、バカ?俺らが言うのも変だけど世間知らずを通り過ぎてるぞ」
「そうなんですよ。甘い物を与えれば、何でも言う事を聞くから、笑っちゃいますよ。ごねたら、契約書を見せて、違約金をせしめようと思いましたが、それどころか、出演料が、普段の十分の一ですよ。落とすのにかかった金もキャバクラとか、ホスト落ちの女と違って安いですし、それと、お菓子代だけですよ。本当にバカですよね」
二人は、また大笑いした。
タバコを吸い終わった上司は、 「二本撮影終わって 休憩したら、コスプレして EJ3(動画配信サイト)のライブ配信もするぞ。あいりちゃんに甘いの沢山用意しておけよ」 と部屋に戻って行った。
男は「了解です」とスマホで、近所の甘い物を検索し始めるのであった。
◆
五月五日
扇駅前のコンビニでバイトする 橘田栄子は、大学も休みなので早番で出勤していた。
「なんか、寒いなぁ」
そう呟きながら外で掃除をしていたが下り電車が入ってきたので何となくホームを見ていた。
先ほど到着した電車から誰も降りてこない様子
「なんだろ、お客が誰も居ないなんて珍しい」と周りに人が居ないのを いいことに独り言が漏れていた。
すると、駅の入口から電車が到着してから十分程たって一人の女性が歩いて来た。藤崎あいり である。
橘田は、藤崎のフラフラ虚ろな歩き方に目を奪われていた。
寒気と一緒に少し気味悪くおもった橘田は店内に戻ったが、藤崎はコンビニの前で止まってしまった。自動ドアが開いてから入口の方を向き一瞬 間をおいてから、店内にうつむいたまま入ってきたのだ。
藤崎は、店舗入口に置かれたカゴを持つと、店内のチョコレート菓子、コーヒー牛乳、プリンなどを片っ端から入れ始めたのであった。
藤崎の行動を目で追う橘田。そしてレジカウンターにお菓子が沢山入ったカゴが無造作に置かれた。
橘田は、店内に誰もいないのでヘルプに店長を呼ぶこともなくレジで打ち始めた。
打ちながら「レジ袋必要ですか?」の問に藤崎は、うなずく
大きな袋に商品を詰めながら橘田は、女性に声をかけてみた。
「甘いものばかりですね。女子会ですか?」
「うううぅぅぅぅぅ」と犬のような うなり声をあげると「全部、私の!私の!」ドン、ドンと藤崎は下をむきながら地団駄を踏み激しく言った。
「も、申し訳ありません」恐怖におびえた橘田は、これ以上声をかけなかった。
震える手で商品を渡すと、ありがとうございました。の言葉さえ出せなかった。
藤崎は、コンビニを出ると直ぐに袋に入った お菓子を取り出し食べながらアパートの方へと、うつむきながら歩いて行った。
歩きながら、ボリボリと貪り、空いた袋は、路面に そのまま放置していた。
扇駅から真っ直ぐに歩く藤崎あいり 県道を走る車のクラクションさえも気にしない様子で路地に入っていく
アパートのわきの細い通りからアパート玄関前のコンクリートの通りに入り、自分の部屋へ行く途中 一〇三号室の扉が突然開いた。
ドン!
隣に住む一〇三号室の船津道忠と接触してしまい藤崎は尻餅を着き買ってきた買い物袋が破けて扉前に散乱してしまった。
「っち、マジかよ。汚すなよ。ビッチが」船津は舌打ちをし汚い言葉を投げかけた。
すると、藤崎は睨み返して「あぁぁぁぁぁ…!!!!」と大声をあげた。
「な、なんだよ」
藤崎は立ち上がり落ちた荷物を拾いもせずに自分の部屋まで走り、私物の手持ちバックから部屋の鍵を出そうと躍起になっていた。
「おい、どうするんだよ。この菓子!」
藤崎は鍵で玄関を開けながら「差し上げます!」と言い、急いで部屋に入り施錠したのだった。
船津は「ラッキー」と言いながら菓子を拾い始めたのであった。
部屋へ戻った藤崎はベットに顔を埋めて
「何故、私はあんな事をしたの?誰?私じゃない!絶対に私じゃない!狂ってる!狂ってる!」
あぁぁぁぁ…と泣き崩れるのであった。
◆
五月十日 ゴールデンウイークも開け、まだ、世間は休み気分のころ
駅員の男は不思議がっていた。
数日前から、駅ホームの線路にカラスが大量に下りてくるのだ。
もちろん、電車が入れば離れ、追い払ってもカラスの群れが線路上に下りるの繰り返しであった。
しかも何かを突いている感じだ。
駅にチャイムが鳴り響き、アナウンスが流れる。
《間もなく、二番線通勤快速、古宿行きがまいります。危ないので黄色い線の内側までお下がりください》
そして、駅員は、先ほどまで、乗客でいっぱいだった駅ホームの違和感に気づいた。
「なんだ?」最後尾の方には誰もいない。ピークの通勤時間は過ぎたといっても最後尾周辺だけ人が居ないのは、この時間帯では不自然であった。
駅員は、ホームの後ろの方へと歩いて行くと何とも言えない空間の中に居る気がしたのだろう、あたりをきょろきょろと見まわしたのだ。少し離れたところに人がいるはずなのに、人の存在感を感じないという不思議な空間、肌寒い。
二、三歩そのまま歩くと、ホームの端に先ほどまで居なかったはずの人影があった。藤崎あいり である。
ブツブツと呟く女を見て、駅員の男は、嫌な予感しかしてなかった。
ホーム線路上には、十数羽のカラスが、まだ、群がっている。
また駅にチャイムが鳴り響き、アナウンスが流れる。
《間もなく、二番線通勤快速、古宿行きがまいります。危ないので黄色い線の内側までお下がりください》
河川鉄道橋の方面から、電車が予定通り見えてきた。
カラスの群れが舞い上がった。
「お客様、あぶないので もう少しお下がりください」駅員の声に藤崎は振り向き、
「ああぁぁぁぁぁぁぁ!!!!」と、目を見開き、何日も磨いてないような、汚れた歯をむき出しにして叫んだ。
思わず、駅員の男は退きたじろいだ。
そして、藤崎は「あはははは!」笑い そのまま線路に飛び降りたのだった。
電車が来る時は、多くの人が一度は電車が来る方を向くだろう。
だが、藤崎が電車に轢かれるまで、当たるその時まで、肉が飛び散るまで、その空間に居た駅員以外、誰も気づかなかったのである。そっちを向いていたにもかかわらず。
ギャギャギャキィィィィー
つぎの瞬間、急ブレーキの車輪と線路との摩擦音、ホームに響く悲鳴、異変に気付く人、一番線に停車してる電車や二番線ホームに血肉が飛び散る。
大急ぎで駆け寄る他の駅員たち
カラスの群れが、電線から肉を見ていた。
駆けつけた駅員が現場を見て嘔吐した。
異常であった。
飛び散り砕け断裂された肉片が、まるで先ほどまで、何かに突かれたかのように食い荒らされた遺体であったのだ。
周りでは人が逃げ、叫び、倒れた。
そして、人身事故の一報が指令所に送られた。
◆
船津道忠は、まったくと言っていいほど自室アパート一〇三号室から外に出ない。
デイトレードをやっており、収入も月四十万ほど稼いでいるが、あまり金に執着がない。
働くのも嫌いだから、デイトレーダーをしている程度だ。そして食事もデリバリーばかりだ。
ほぼ毎日、EJ3のライブでデイドレードや今人気のオンラインゲーム「Release・Red」(リリース・レッド)《通称ダブルR》をしている様子を一日を垂れ流ししている。最近はお菓子を食べながら配信している。
◆
六月十八日 関東地方が梅雨入りをした。
船津道忠は、百万円以上するモニターの付いたゲーム専用の椅子に座り盗聴器受信機で隣の部屋一〇二号室の様子をワイヤレスイヤホンで伺っていた。
しとしとと、小雨が降る中、一〇二号室の部屋を片付けているのは、中村謙二と黒瀬優だった。
二人は、先月 飛び込み自殺をした藤崎あいりの部屋を相澤不動産店の相澤春樹に依頼され清掃作業に訪れていた。
一昨日まで、藤崎の母親が実家から娘の身辺整理の為アパートに泊まっており、そして母親は娘の荷物の一部だけを持って帰郷した。
「全部、処分していいって言われましたが、結構、お金になりそうなのありますね」黒瀬は、手際よくアニメのDVDやノベル小説などの箱入れ作業をしていた。
「そうだね。今回はラッキーだね。普通は、金になるものは処分している場合がほとんどか、金にならない物ばかりだからね」と中村が段ボールを抱えながら答えた。
「これ、どうします?」ハンガーに掛かっている服を指さした。
「あー、コスプレの衣装か…処分だな。市販されている物なら売っても大丈夫だが、個人制作の物は出所がわかったら問題になるからね」
「…ですよね。もったいないな。人気のあるゲームキャラクター《ダブルR》の衣装なのに」
「何だい、ダブルRってバイクかい?」
「???逆にバイクってなんですか?SPSⅣ(スーパープレイステーションフォース)のオンラインゲーム「Release・Red」の略ですよ。攻略などの動画を上げているユアチューバーや、EJ3でライブ中継している人も多いですよ」
「…なんだか、わからないけど凄い人気のゲームなんだね。黒瀬君も、たまにゲーム配信してるよね。それ?」
「残念ながら、僕のは、ホラーチャンネルなので、ホラーゲーム以外はしません」
「そ、そうなんだ。…えっと黒瀬君、雨が小康状態だから荷物運ぶか」
「了解です」
黒瀬がアパートのドアを開けて、渡り廊下にでた時、隣の一〇三号室の扉も開いた。
出てきたのは隣の住人 船津道忠である。
「あ、あ、あの…すみません」小さい声で黒瀬に声をかけた。
「何ですか?」
「あ、あ、あの、処分するのがあったら、ゆ、譲ってくれませんか?」
「はぁ?」
「お願いいたします」
「どうしたの?」部屋の中から中村の声がした
「隣の人が、荷物譲って欲しいみたいですが」
玄関にまで来た中村が暫く船津を見て言った。
「ちょっと、上がりなよ」と船津を部屋に招いた。
「黒瀬君、ちょっと、荷物運んでて」
黒瀬は返事もしないで、船津を睨み付けながら段ボール箱を抱えて駐車場に止めてあるトラックに向かった。
黒瀬が三、四往復ぐらい後、また荷物を取りに向かうと、一〇二号室から大きなビニール袋を抱えた船津が自分の部屋である一〇三号室に入るのを見かけた。
「何なんですかアイツ しかも臭いし」
「彼氏なんだってさ」
「はぁ?…な訳ないじゃないですか」
「事情のある形見分けだよ。売れない下着類と あのコスプレ衣装。はい、これ」と一万円札を黒瀬に渡した。
「臨時収入だよ。黒瀬君」と人差し指を口にあてながら中村が言った。
「はぁ、いったい、いくら踏んだくったのですか?」
船津は、部屋に戻ると下着類には目もくれず、急いで袋から衣装を取り出した。
「この衣装に間違い。EJ3でアダルト配信していた。ダブルRのコスチュームだ」
何故、船津が知ってるのか。船津は、藤崎が越して来てからから、藤崎が居ない時間帯に何度か玄関が開いているか確認した事があった。そして、たまたま玄関の鍵を閉め忘れた日、船津に盗聴器を設置されてしまったのだ。
「先月、EJ3のアダルトライブでダブルRコスのエロ配信見たら、隣のあいり だったから弱み握ったと思ったのに、死んじゃったんだもんな。…どうせ死ぬなら、やらせてくれればよかったのに、やっぱりビッチだったんだな。早くこのコスをバックにしてゲーム配信したいな…そうだ!マネキン買わないと」 船津はHAMAZOONの通販サイトでマネキンをお菓子を食べながら探し始めたのだった。
◆
六月二十日
≪部屋変わりましたね。≫と無機質な機械ボイスが流れた。
EJ3のダブルRのライブ配信をしながら
「気付いたかね」とコントローラを動かし口にお菓子を頬張りながらモゴモゴと答える船津
先日、HAMAZOONで購入したマネキンに藤崎が制作したコスプレ衣装を着せて新しくカメラ位置などを配置換えした部屋になっていた。
ゲーム画面の下側に視聴者のコメント欄があり、視聴者がコメントを入れると自動的に機械ボイスで数秒遅れてコメントの言葉が流れるのだった。
≪ダブルRのコスだ≫とコメントが入った。船津はゲームの視線をコメント欄に向け、機械ボイスが≪だぶるあーるのこすだ≫とながれる
「レアなコスですよ。EJ3の住人のはわかるんじゃないですかな。」
≪わからないよ≫
≪教えて≫
≪くれ≫
≪誰か着てたのか?≫
「先月の…」
≪わかった≫
≪わかった≫
≪なに?教えて≫
≪おせえて≫
≪お菓子を食べてた子だ≫
ニヤリと船津は微笑み とコントローラを置いて、新しいお菓子を取り口に頬張りながら正解と言おうとしたところヘンな声を出してしまった。
「へいかい」
≪へいかいわら≫
≪わらわらわらわら≫
≪正解≫
不機嫌になった船津は、コントローラを持とうと思ったがお菓子を持った右手がおかしいのに気がついた。
自分の意思とは違って勝手にお菓子を口に運んでくる。
どんどん、どんどん。
「や、やめろ」
≪どした?≫
≪お菓子食べ過ぎ≫
≪とりあえず、袋からだせ わら≫
すると、体が右の方に傾いて自由が効きづらくなっていた。
船津の右側が硬直を始めたのだ。
≪?≫
≪体突った?≫
≪お≫
≪て≫
≪つ≫
≪何かへん≫
≪だ≫
≪大丈夫≫
「う、ううう、ぐ、く、苦、痛い」
≪食べ過ぎ≫
≪はよ、トイレいけ≫
≪わら≫
≪い≫
船津が配信している部屋にはデイトレ用のモニターやゲーム用のモニターが複数台あり
そのどれもが、車の中からカメラで正面を映しているドライブレコーダーの映像に変わった。
≪なんだ?≫
≪画面変わった≫
≪ゲームはよ。≫
≪ドライブ配信わら≫
などと、無機質な言葉が船津の部屋に響いた。
船津は、体の異常に絶えられなく携帯を取ろうにも右腕の自由が効かずに、椅子から床に倒れ込んでしまったよ。
≪なんか、ガタガタ音がする。≫
≪通報するか?≫
視聴者には相変わらず、車席からの映像が流れていて、音声は船津の部屋の音声が流れているようだ。
「た、助けて…」
≪お≫
≪マジ≫
≪て≫
≪声した≫
≪つ≫
船津が床に伏せていると、目の前に足があった、女性の足だ。
船津は、動く左手を伸ばし、必死に、その足にしがみつこうとした。
「お願いです…きゅ、救急車を呼んで下さい。」
≪どうやって?≫
≪だい≫
≪マジやば?≫
船津は、ゴロンっと仰向けになり部屋に居るはずのない女性の方に顔を上げた。
女性は目を見開き、口を開け、船津を見下ろしていた。
船津は、悲鳴を上げて、玄関の方へ体を引きずり逃げ出したのだ。
「うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁ。ごめんなさい、ごめんなさい!」
≪どうした≫
≪おわった?≫
≪芝居か?≫
床に伏せている船津が助けを求めたのは、死んだはずの藤崎あいりだった。
必死に玄関に逃げる船津を振り向きながら見つめる藤崎
藤崎は、船津を指さして言った。 「お前も、み・・・」
船津は、必死に立ち上がり慣れない左手で玄関を開け、外へ出たのだった。
≪女≫
≪誰かいた?≫
≪女だわら≫
≪ドアのような音した≫
≪画像はよ≫
≪それな≫
外へ逃げ出した船津は、どんどん自分の体が右へ傾いて行く異常を感じながら駅の方へ向かった。
≪音しなくなった。≫
≪画像は動いている≫
≪ここどこ?≫
すると、画面にいきなり船津が現れて、自動車と接触した映像が流れた。
≪うわ≫
≪マジ≫
≪事故≫
≪なんで≫
≪ヤバい≫
「あはははははは…」
≪誰≫
≪こわ≫
部屋の画面には、船津と接触して円形にわれたフロントガラスと運転手と思われる人が車から降りてきた映像が流れて、音声は女性の笑い声が流れていた。
◆
小峰由香子は、大石巡査部長とバイクでのパトロール中に事故の報告を無線で受けた。
後輩の高乃は、自転車で二人の後を追っていた。
事故現場は自分達が勤務する交番のすぐ近所との連絡。
交番へと戻る途中だったが、交番を通り過ぎ事故現場へと向かった。
バイクを止め状況を確認した。
倒れている人の周りには人が何人いたが。誰も介抱や声かけをしてる人はいない。
小峰は、被害者はダメみたいだなと悟った。
「大丈夫ですか?」と声をかけながら、車両の前に倒れ込んでいる船津を除きこんだ。
やはり、船津は事切れていた。しかし、小峰は死亡している船津を見て違和感を感じたのだ。
振り向くと少し遅れた高乃が困惑した表情をしていた。
「高乃君は、運転手の方お願いします」
すると、救急車と応援のパトカーが到着した。
「あ、はい」と答えながら高乃は道路脇に地べたに座り伏せている運転手らしき人物の方へ行った。
大石と一緒に応援の警察官も交通の誘導を始め、救急隊員が小峰に駆け寄ってきた。
「ケガ人は?」
「残念ながら」隊員の声に小峰は答えた
「…この方、今 事故にあわれたのですよね?」
「そのはずです。私も無線で聞いて駆けつけて、まだ五分足らずです」
「おかしいですよ。死後硬直してます」と隊員は小峰に小声で言った。
ストレッチャーを持った別の隊員も表情を曇らせた。
「先輩、その人…」運転手の話を聞いているはずの高乃が声をかけてきた。
「高乃君どうした?運転手の方は?」
「すみません。でも、報告が…俺、この人知ってます」
「え!本当?」
◆
三人は事故現場の処理が終わったので、直ぐ傍の船津のアパートに向かってみることにした。
事故現場から路地裏を通っていけばすぐアパートなのだが、バイクと自転車を置いていく訳にもいかずかなり遠回りしながらアパートへと向かわなければならなかった。
高乃が先頭を必死に走り、事故現場の県道を暫く走り左折、住宅地の中を左折右折をして突き当たる。袋小路だ。
突き当たりが駐車場、右側がアパートになっている。
駐車場は狭いが八台ほど置ける駐車場で、2tトラックが一台止まっていた。トラックには、中村ハウスクリーニングの文字があった。
「ここ?」小峰はアパートを見上げながら念のために高乃に聞いた。
「はい。自分が警察寮に入る前まで住んでいて、その隣の住人なので、間違いないです」アパートの方へ歩きながら答えた。
アパート横の細い路地を駅方向に200mほど行くと事故現場がある。そして、自動車がアパートに来るためには、広い通りから入らないと行けないので、事故現場からは距離にして400m以上迂回しなければならず左折右折があるので距離以上に時間がかかる。駐車場は近隣住民の抜け道にもなっていて、車は無理だが、自転車やバイクはお構いなしに通過してるようだった。
大石は、アパートわきの路地裏を眺めていた。
「…路地裏って言うより、住人の生活道路だな。」
「そうなんですよ。でも、駅に行くには近道ですし、自転車も通れないですが、ここを通ると自転車と変わらないで駅に着きますし。ここのアパートの住人と、数件しか使う家しかありませんので、住んでないとわからないですよ。しかも、この先は行き止まりですから」
「ほんと、知らなかった」交番勤務が長い小峰も驚いていた。
「そして、この狭い通りに面した部屋が事故被害者の部屋です」
大石は、一通り辺りを見渡して、船津の部屋をノックした。
《コンコン コンコン》
耳をすますと、テレビなのかかすかに音声は聞こえるが人の気配はしなかった。
「すみません。いらっしゃいますか?」再びノックをするが、 あえて警察官を名乗らない大石であった。
高乃に指差して表札の方に指を向け声に出さないで『名前?』と聞いた。
「船津です」と小声で答えた。
「船津さん、いらっしゃいますか?」
「…やはり、事故被害者なのかもな。今のところ、事件性もないようなので、一度、交番に戻ろう」
「はい」と小峰、高木が返事した。
「ところで、高乃君は、どの部屋だった?」と小峰の問に
「隣です」
「ふーん。付き合いあったの?」
「まったく無いですよ。間違って荷物が俺の部屋に届いたのでそれを、届けた時に名前を知ったぐらいで、相手は、きっと俺の名前も知らないと思いますよ」
続けて高乃は、
「あぁ〜、早く寮を出て一人ぐらししたい!先輩は、いいよな〜女性寮ないから一人暮らしで羨ましいですよ」
「早く、彼女と結婚して寮出てけば?」
「それ、一人暮らしじゃないっす」
駐車場に戻ると、ふと小峰は大石巡査部長が向ける視線に気付いた。その視線を追うとアパートの二階を見ていた。
そこには、アパートの住人であろう小学三、四年生ぐらいの女の子が お菓子か何かを食べながら、こちらを見つめていたのだった。
大石は、「これ以上、なにもなければいいが…」と ぼそりつぶやいた。
◆
金谷清彦は、都内にプログラミングをする孫受け会社に勤務する、ただただ真面目な男性で出社前に最寄駅で栄養ドリンクを二本買い、一本は、その場で飲み もう一本は夕方残業手前で飲む。いわゆるブラック企業に努めている社畜と呼ばれる従業員である。アパートから会社を往復する生活をかれこれ十年続けている。
◆
七月十九日 例年通り梅雨が明け、真夏日の暑い日
西区警察署は普段とは違う 忙しい一日になった。
夜勤明けで、非番となる小峰 由香子は、更衣室で制服から私服へ着替えを終えスマホでランチをする お店を検索していた。
すると、着信音をミュートにしている携帯が震え始めた。同僚で恋人でもある捜査第一課に在籍している門口 淳からの電話だった。
「はい、どうしたの?勤務中でしょ?」付き合っていることを公けにしてないので、小峰は少し辺りを気にして小声で電話にでた。
「由香子、まだ、署にいるか?…田中が見つかった」向うも署に居るのだろう。少し小声だった。
一瞬で小峰の眉間に皺がよる
続けて門口は、「昼過ぎには、こちらに到着するみたいだ。詳しい事は、また後で話す」と言うと電話が切れた。
「…ありがとう。淳」 ふぅ、と大きく息吐き、気持ちを落ち着かせようとする小峰だった。
一本の無線連絡から、西区警察署は慌ただしくなっていた。
『扇ハイツ死体遺棄事件』(通称【蛹事件】)の容疑者の田中芳子が見つかったのだった。
都内の繁華街で『田中に似た人がいる』との通報を受け、警察官が調べたところ田中芳子本人と確定し逮捕に至った。
田中は、事件を起こしたアパートから電車で三十分ほどしか離れてない場所に住み生活していたのだった。
小峰は、田中が連行されてくるであろう入口近くの通路に居た。周りの同僚達は慌ただしく動いていたが、小峰の心情を知ってるので誰も声をかけずにいた。
この時期一番気温が上がる十三時過ぎ容疑者 田中芳子を乗せた覆面パトカーが西区警察署に到着した。地元テレビ局の報道カメラが一番乗りをしていた。
数人の刑事に囲まれて署に入って来た田中は、髪や肌にツヤがあり若々しく、とても指名手配中とは思えない風采をしていた。
小峰は、田中を見て押さえ切れない感情が溢れてしまった。
「どうして、あんな事ができた!!!」
通路から響く大声に周り全体がざわついた。
田中は、小峰を見ると「はぁ? 何? あんた誰?」
見かけと違う言葉使いが更に小峰を怒らせた。
「凜ちゃん を あんな凜ちゃん を一番先に見つけたのは私だ!お前は母親だろがぁぁ!!!」今にも殴りかかりそうなほどの大声を上げる小峰に対して、田中を保護しようとする刑事達
田中は、少し笑いながら 「知るか、バーカ!」と言い放った。
田中を囲っていた刑事も「もう、やめとけ!」の言葉だったが、小峰は田中の方へ拳を握り近づいた。
しかし、その行動を静止させたのが、パトロール中の大石だった。
大石も無線などで、田中が任意同行される事を聞き、駆けつけたのであろう。
大石を見た小峰は、その場で、怒りを押さえながら声も出さずにいっぱいの涙を目に溜めていた。
田中は、大きく腕を上げながら震えた中指を立て、警察署の奥に消えていったのだった。
夜になると、西区警察署の前には、各放送局が陣を張っていた。
AD「中継入ります。」
記者「はい、死体遺棄で指名手配中の容疑者 田中芳子が先ほど都内で発見され逮捕されました。現在、身柄が拘束されております。西区警察署前にいます」
MC「警察からの発表は、ありましたでしょうか?」
記者「はい、警察の発表によりますと、現在、田中芳子は殺害に対しては否定しておりますが、死体遺棄については認めたもようです。 警察の方は、殺人の方向も視野に入れるとのことです」
SNSなどで事件を知った者達が、警察署周りに集まり報道陣を撮影して、またSNSに上げていた。
小峰は、まだ署に居た。きっと署を出てしまえば普段の空気に触れてしまい元の警察官に戻ってしまうのであろう。
「今は、教えることが何もないぞ。何も食べてないんだろう?」
そう言って通路ベンチに座る小峰に砂糖無しミルク多めのコーヒーを差し出したのは、門口だった。
「ありがとう。うん、忘れてた。抜け出して仕事大丈夫なの?」
「ん?大丈夫だろ。仕事は他の同僚でもできるが、由香子のフォローは俺しかできないからね」
「あー、はいはい。ありがとうございます」
「明日、週休だろ。一段落したら部屋に行こうか?」
「ん、大丈夫。明日 淳と会ったら事件のこと沢山聞いて、また怒りが込み上げると思うし、きっとテレビも見ない。だから大丈夫」
「…わかった。無理するなよ」
「了解。さ、早く戻って、ばれちゃうよ」
「連絡いれる」
「ん、ありがとう」
◆
真辺輝雄は、苦学生であった。二浪の末、本命の大学には入れず、格下の大学に入り、卒業したものの就職にもつけず学生時代からしている駅前のコンビニのバイトと、自転車で食べ物の宅配サービスのバイトもしながら就職活動をしている。
◆
八月二十二日
連日猛暑が続き、夕方になっても気温が三十度を超えていた。
今夜も熱帯夜になるだろう。
扇駅前のコンビニのバックヤードから声がする。
「橘田さん、 橘田さん。まだいる?」
橘田栄子はバイトが終わりちょうど帰る矢先だった。
「はい、なんですか?店長」
「橘田さん、ごめんなさい。悪いけど これ真辺君に持っていってもらえる?深夜明けの朝、渡したはずなのに…まだ、あるのよね」と渡されたのは真辺の財布だった。
「えぇ〜、次来る時でいいじゃないですか?」
「でも、もう一週間以上お財布置いていってるのよ。だから、彼女に お願いしようと思って」
「スマホあれば大丈夫かと…あ、それじゃ、店長シフトについてお願いしたいことが」
「あら、何?どんな要件?」
「私、真辺君と別れようと思っているので、シフト被らないようにお願いできますか?」
「え、嘘?本当に?」
「はい、終わりにしようかと。…なので、バイトが被ると嫌なので、お願いします」
財布を受け取り帰りながら橘田は、言葉を追加した。
「店長、私 就職先が決まりそうですし、卒業ですから今さらバイト変えられないのでよろしくお願いいたします」と頭を下げバイト先を出ていった。
「…困ったわね」
橘田は、駅前から、県道を渡り、細い路地を通っていた。
「ここを通るのも、今日で最後ね」心の声が出ていた。
アパートが近づいて来ると橘田は変な違和感を感じた。
「え?なに、これ?…寒い」
アパートへ着くと より一層違和感が増した。
人の気配が無く、雑音さえしないのだった。
部屋への鉄階段を一段ずつ ゆっくり上って行く。
二階の渡り通路に出たとき、一番奥に背を向け駐車場方向を見ている少女がいるのに気付いた。
橘田は子供とはいえ、人が居るのに少し安堵した。
真辺の部屋は、二階の二〇二号室だ。
橘田は部屋の前に着くと、深呼吸をしてからノックをした。
コンコン。
「輝雄君。私です」
再びノックしようとした時、ドアが開いた。
ドアの隙間から見えた真辺は生気が無く淀んでいた。
「大丈夫?これ、店長が忘れて物持っていってくれって」と財布を見せた。
「真辺君、少し時間ある?話できるかなぁ?」
すると扉が閉まり少しして、宅配サービスの保温バックを背負った真辺が出てきた。
「…ごめん、仕事入った?」
真辺は、首を横に小さく振ると、アパートの階段を降りてアパート横の駐車場側から通りの方へと歩いて行った。それに、橘田も着いて行った。
橘田は、違和感あるアパートの方へ目をむけると、二階の渡り通路から こちらを見る少女と目が合ってしまった。
「っひ」と慌てて目線をそらす橘田であった。
アパートから十分ほど歩くと河川敷にでる。二人は土手の上から橋梁方向へと歩いていた。
橘田は相変わらず違和感を全身で感じ取っていた。土手の上からだから余計に分かるのだろう。二人を中心に人の気配が無い。離れた場所に人は見えるのだが、まるで別の空間にいるようで、音なども聞こえない。汗は出てるのに。暑さを感じないで、むしろ寒さを感じているのであった。
橋梁に来たとき、橘田は沈黙やこの空間に堪えきれなくなり真辺に声をかけた。
「なんか、周りが変だね。もしかしたら、私が変なのかな?これから話すことで緊張してるのかな?…真辺君気づいてたよね。何となく雰囲気出してたし、でもね。別れようと思ったのは最近なんだ。嫌いになったわけじゃないよ。…んとね。私、卒業したら実家の方で就職しよう思っているの… お盆休みに実家へ帰った時、兄から仕事を紹介してもらえそうなんだ。…だからね。卒業間際でサヨナラは嫌だから、今のうちがいいなかって、まだ、お互いバイトもあるでしょう?気まずいのは嫌だから、友達に戻ろうって」と歩きながら話していると、川の真上にさしかかった時、見覚えのある自転車があった。
それを横目に通り過ぎた後、「あれ、これって真辺君の自転車だよね?」と自転車のあるほうに振り向いた。
すると、橋梁の上から川に身を投げる真辺の姿があった。
「きゃぁぁぁぁぁ」との悲鳴と共に、橘田の周辺に橋梁を渡る自動車が溢れ、人の気配、音、暑さが戻ってきたのであった。
◆
大石、小峰、高乃は、交番勤務中に上治橋から人が飛び降りたとの一報を受けパトカーで現場にサイレンを響かせ向かっていた。交番と現場は目と鼻の先だが、車内で大石は、「橋入口の土手で車を一端、止めるぞ。そこから高乃巡査は、橋下にいって飛び降りたと思われる人物がいるかどうか探してくれ。女性もいるとの事だから小峰巡査長は私と一緒に橋の上へ行く」と手早く指示していた。
橋梁の上治橋は荒川を渡る長い橋で片側二車線道路、その脇に歩道と自転車の専用道が設けられている。
周囲には、現場に向かってくるであろう、パトカーと救急車、消防車などのサイレンがけたたましく近づいてくるのであった。
「ここです」と通報したと思われるロードバイクの服装をした男が手を振っていた。
高乃を降ろした大石と小峰は、パトカーを停めて、ガードレールを跨ぎ歩道側に入った。
そこには、うずくまって泣きじゃくる女性と周囲を囲む人たちで橋の自転車道はごった返していた。
「はい、すみません。関係の無い方は離れていてください」大石の声に少しだけ下がる野次馬達
小峰は、「大丈夫ですか?ケガとかありますか?」と橘田に声をかけた。
暫くすると、橘田は少し落ち着いたのであろう。小峰に話しかけた。
「私が悪いのです。真辺君に別れ話をしたから…」
大石は、通報した男性に話を聞いていた。男は、「いや、飛び降りたところは、見てないですね。女の方が自転車脇で泣いていたから、ケガでもしたのかなぁって思ったのですが、彼氏が飛び降りたって言って、大変だとおもって110番しました」
橋上は一車線を規制して複数台のパトカーが、橋下の河川敷には、パトカー、救急車、消防車が複数台集まっていた。
橋の自動車道は上り、下りとも、夕方の帰宅ラッシュと重なり見物渋滞が発生していた。
その中に、中村と黒瀬のトラックの姿もあった。
「なんだよ事故か?」反対車線の回転灯を見た中村が言った。
「待ってくださいね。今、調べます」
慣れた手つきでスマホを片手でし始める黒瀬
「…飛び降りした人がいるみたいですね」
「マジで?すげーな、この高さからかよ」
「この付近の住人で一人暮らしなら、また依頼があるかもしれないですね」
「ほんとだよ、最近忙しいもんな。そしたら、黒瀬君のチャンネルも潤うかな?」
「飛び降りじゃ無理ですね。事故物件じゃないので…でも、いいな。橋から飛び降りたらどうなるのか調べて配信してみるのも」」
「黒瀬くんのチャンネルかなり賑わってきたよね。夏々ちゃんのおかげかな?…付き合ってるの?」
「マジで勘弁して下さいよ。大変なんですよ。配信の手伝いをしてくれるのは正直助かってますが、付き合ってもいないのに彼女顔やプロデューサー気分ですよ。相澤さんの姪っ子だから我慢してますが」
「そうなんだ。いい子そうだけどね」
「僕は、ユーザーと死人しか興味がないんです!」
◆
上治橋の現場では、無線を使って上と下で連携をとっていた。
確かに、橋の上から飛び降りたであろうと思われる痕があったのだ。
高乃は、先に川辺に来ていたので、捜索を開始した誰よりも先に川下へ来ていた。
「無線によると、若い男性で、背中にバックを背負っていたと…すると、多分浮力があるから直ぐに浮いて来るんじゃないかなぁ」と根拠も無いことを口にしながら川沿いを注意深く歩いていた。
橋より川下へ600m程行くと電車の鉄橋がある。そこで高乃は宅配サービスロゴが入ったバックらしきものが浮いているのを遠目に見つけた。
「やっぱり、思った通りだ」と高乃が走って浮いているのを確かめ行った。
見つけた高乃は、「ひぃ」と小さく悲鳴を上げたのだった。
小峰は、橘田のケアをしながらも高乃から無線が入ったのを注意深く聞いていた。
《こちら○○○ 飛び降りたと思われる男性らしき遺体を発見しました》
《こちら○○○ 了解しました。直ちに向かいます》
《特徴は連絡を受けたのと同じなのですが…》
《どうぞ》
《遺体が腐敗しブヨブヨに膨らんで、とても先ほど飛び降りたと思えないのですが》
《…現場の指示に従ってください。》
《…了解しました。》
◆
八月二十三日
翌日、大石と小峰は調査の為、アパート脇の駐車場に止めてある中村ハウスクリーニングと書かれたトラックの横にバイクを止めてアパートを管理している相澤不動産の相澤春樹を待っていた。
「大石部長、まさか、このアパートだったなんて…」
「…そうだな」
発見された腐乱遺体は、検死が終わっておらず真辺と確認できていない為、昨日夕方に飛び降りたと思われる。真辺輝雄の安否確認が必要となり 管理会社立ち合いの元、鍵を開ける必要が出てくる恐れがあったのだ。
事実上、真辺輝雄は まだ発見されていないことになっていて、高乃は今日も朝から河川敷の捜索にあたっていたのだった。
アパート脇の駐車場に黒い国産高級車が入って来た。駐車場二台分を使いドアを開けて出てきたのは、相澤不動産の相澤春樹であった。
「いやぁ、おはようございます。早いですね。それにしても、暑い…あれ?暑くない?…それにしても、まったく、このアパートどうしてしまったのかな?立て続けに人が亡くなるなんて」
大石も、小峰も 相澤の言葉に何も言えなかった。今年に入って三人、解剖の結果が真辺であったら、四人になるのだから。
そして違和感の増したアパートに不安を感じながらも、平然を装っていた。
小峰は駐車場からアパートの階段に向かう途中で二階を見上げると、少女が お菓子を食べながらこちらを見ていた。
少女は、自分の方を見る お巡りさん に対して手を振った。小峰も合わせて手を振ったのである。
二階に上がると、少女は自分の部屋であろう扉の前辺りにいた。
「おまわりさん、なにしてるの?」
小峰は、真辺の部屋と少女の部屋の間ぐらいで立ち止まり、両手を膝にあて目線を下げて少女に言った。
「隣のお兄さんが、元気にしてるかなって、見に来たのよ。 あなたは、ここの子?お名前は?」
「わたし、早坂日葵 お母さんと ここにくらしているの。でも、今 おじさんが、ねてる」
「そうなんだ、ちょっと、そこにいてね」小峰は、田中凜を思い出したのか、少し切ない表情をした。
そして振り向くと、大石とアイコンタクトをした。
「真辺さん、いらっしゃいますか? 西区警察署の大石と申します」ノックをしながら中の様子を伺う。
「真辺さん。いらっしゃいますか?…相澤さん お願いできますか?」
「はいはい、ちょっと待ってくださいね。・・・・えーと、これだ」と二〇二と札のついた合鍵をドアに差し込んだ時 相澤は、「あれ、ドア開いてますよ」
「!」小峰は、念のため相澤を、ドアの死角の方に相澤を異動させ、大石と共に玄関ドアをゆっくりと開けたのだった。
ドアを開けた玄関には、サンダルと床に落ちている財布が目に入った。
すると、今まで覆っていた違和感が突然なくなったのだ。暑さと音、匂いが戻ってきたのである。
「くさい!」日葵は、鼻を覆った。
大石、小峰、相澤も、強烈な腐った匂いにむせ、鼻を手でふさいだ。
「…ここじゃない。隣だ!」大石は、視線を階段を上った最初の部屋の方に向けると、
扉の下から、何とも言えない液体が滲み出てきたのだ。
ただ事ではないと、感じた大石、小峰だった。
「相澤さん、ここの鍵もありますか?」ハンカチで口を新たに塞いだ大石がこもった声で聞いた。
「は、はい」鍵の束をそのまま、小峰に渡した。
小峰は、束から、二〇三と書かれた札のついた鍵を見つけると、大石に手渡した。
大石は、液体が流れる玄関の前に靴が汚れるのも気にせずに立ち、扉に何か抵抗を感じたのか、ゆっくりとドアを開けたのだった。
ドアが少し開くと、その隙間から、人の腕が出てきた。それも腐って蛆が湧き、大量のハエが外に出てきた。
小峰は、ドアが開く時、日葵から見えないように後ろ向きにし、「日葵ちゃん、部屋に戻れるかな?お巡りさん、少し忙しくなりそうなの?」
日葵は、口を押さえながら無言で うなずき部屋へと戻った。
相澤は、腐った腕を見て、慌てふためいた
「なんなんだ!も、もうダメだ!」
狭い通路、大石の後ろを無理やり通り、階段を駆け下りていった。
「小峰、追いかけて!」無線で応援を呼びながら、大石が叫ぶ
「はい!失礼します」小峰は、立ち上がり大石の後ろを急いで通りすぎた。
「相澤さん、待って下さい!」階段を降り、駐車場の方を向いた時、相澤は、なぜか一〇一号室のドアを叩いていた。
ドンドンドンドン、「夏々ちゃん、いるんだろ?もう、ダメだ。叔父さんが、場所探してあげるから、引越そう」
「相澤さん?」
小峰の声に耳を貸さずに、相澤は、ドアを叩き続けた。
ドンドンドン、「な、夏々ちゃん。最近、仕事にも行ってないみたいじゃないか?こ、ここにいたら、死んでしまう」
「相澤さん!落ち着いて、どうしたのですか?」事情を知らない小峰は、相澤を静止させようとした。
「お巡りさん、ここに姪っ子が住んでいるんです。さっき渡した鍵を早く」
「え?」
すると、一〇一号室のドアが中から勢いよく開いたのだ。
「叔父さん、ここにいたら死んでしまうってどういうこと?教えて?」ボサボサ頭の相澤 夏々が出てきた
「夏々ちゃん? 早くここを出よう」美容師の夏々を見てきた相澤 春樹は少しビックリしていた。
「そんなことより、また誰か死んだの?」叔父の春樹に詰め寄る。
「いやぁ、上は大変なことになってますね」突然、声をかけてきたのは、中村謙二だった。
「中村さん!」夏々の表情がゆるんだ。
「あなたは?」小峰は、後ろから声をかけてきた人物に警戒をした。
「あ、私、ハウスクリーニング…特殊清掃業をしてます。中村謙二と申します。俺がいて、この匂いに気づかないなんてね」中村は上に目線を向けて言った。
「中村君、からも言ってやって。このアパートは危ないって」必死に、味方につけようとする相澤
「ねぇ、叔父さん、何があったの?」必死に事情をしりたがる夏々
「夏々ちゃん、死体が出たよ。たぶん、入口ドアノブにネクタイか何かかけて、首を吊ったんだろうね」中村は目線はまだ、二階の部屋を向いている
「! 春叔父さん、クロスさん に連絡して! お願い!」さらに必死さを増した。
「もう、無理だって、やめとこう。ね、夏々ちゃん」
「どういうことですか?何の話をしてるのですか?」まったく話しが見えない小峰
「春叔父さん、お願い!これが終わったら、引っ越しでも、仕事でも何でもやるから、クロスさんに依頼して!お願い!」
「相澤さん、俺からもお願いしますよ。夏々ちゃん、大好きな黒瀬くんの力になりたいだけなんですから…それに、よどんだ空気もなくなったようですから、きっと大丈夫ですよ」
「ちょっと、いいですか?くろす?黒瀬って誰ですか?」
「ちゃんと、後で説明しますね。お巡りさん」
「…わかった。最後だぞ。これが終わったら夏々、言うことを聞きなさい」
「ありがとう!春叔父さん!」
「やった!お兄ちゃんがくるんだ!」
その場にいた誰もが驚いた。
まさか、二階にいるはずの日葵がここにいたのだ。
◆
「ただいま」そう言って小峰は鍵の開いている自宅アパートの扉を開けた。
「お帰り、大変だったね」そう言って出迎えてくれたのは、恋人の門口だった。
「うん」靴を脱ぎ、台所で手を洗いうがいをした。
「あー、お腹減った。淳、ご飯なに?」
「由香子の好きな肉汁うどん。しかも俺の手打ち」
「ほんと!うれしいー」
「週休だからね。久しぶりに打ったよ」
「いただきます」ズルズル…「うん。美味しい。最高」
食事も終わり、二人はベットにもたれながらノンアルコールビールを飲んでいた。
「淳、鑑定結果の知っているでしょ?」
「…あぁ、真辺輝雄だったよ。それから、隣の遺体は、やっぱり住人の金谷清彦」
「…」
「鑑識の結果 真辺輝雄は死後、一週間 金谷清彦は約一か月ほどだとのことだ」
「おかしくない?だって飛び降りたって通報を受けたのが一昨日だよ。それに、この真夏にあれだけ腐っていて一か月も気づかないなんて、おかしすぎる!」
「…そうだけど、真辺輝雄の場合飛び降りたのを見たのは、彼女の橘田栄子だけだろ。もしかしたら、実際に別れ話をして飛び込んだのが一週間前だとしたら?自転車だって放置されてたらしいし、橘田栄子が嘘を言っているのかも」
「まさか?」
「ただ、ひっかかるのが、あの配達用の大きな保温バックを背負ったなら浮力が強すぎて溺死しないかもしれない…まぁ落ちた時に気絶したかもしれないし、それに…」
「それに?」
「そのバックの中身なんだ、気になるのは」
「中身?…まさか!お菓子の袋?」
「うん。由香子から聞いてなければ、気にも止めなかったよ」
小峰は門口にアパートの件を自分が見た範囲で細かく話していたのだ。
五月に亡くなった、藤崎あいりの時は、朝の立番が終わろうとした時に駅の異常に気付き、ホームへと向かった。そこで見た光景は、おびただしい血と貪られたような肉片、そして、彼女の手荷物から出たと思われる散乱したお菓子
六月に亡くなった、船津道忠は、硬直した右手の中にしっかりとお菓子が握られてたこと、勢いよく道路に飛び出たドライブレコーダーの画像は、必死の形相だった。そんな人間がお菓子を握りながら走るのだろうか?
そして今回、飛び降りた真辺輝雄は配達バックの中にお菓子
「どうした?由香子?」
「ん。あのアパート、今年に入って五人亡くなってる」
「え?四人だろ」
「二月に生活保護を受けてた中年の女性が孤独死してる。たぶん関係ないとは思うけど、なんだろ、もやもやする」
「おいおい、勘弁してくれよ。確かに六部屋しかないアパートで立て続けに五人死んだのは異常だけどさ、偶然だって」
確かに冷静に考えれば、偶然なのだろう。二月の孤独死、五月の人身事故、六月の交通事故、七月の首吊り、八月の身投げ…
ただ、小峰には大石部長の、『これ以上、なにもなければいいが』の言葉が頭をよぎる。
◆
八月二十五日
週休の小峰は、ヘルメットをかぶりナンバーのついた電動キックボードで、あのアパートにジャージ姿で朝早く向かっていた。金谷清彦の部屋をクリーニングするとのことを昨日、中村から連絡を貰ったからだ。
「こんな姿、仲間に見られたら怒られるだろうけど、違反はしてない。この朝から暑いのに自転車なぞ乗れるか!」そう言って法定速度ギリギリで走っていた。
勝手知る自分の管轄、小峰はアパートへの近道の路地裏入口にキックボードを止めて折りたたみ路地に入っていった。
舗装されていない生活道路の路地に自転車を押して歩くスペースはない。折りたたみキックボードを背負い「これからのパトロール、キックボードがイイね」と小峰は呟いた。
アパートが近づいてくる。先日の寒さは感じない。
路地裏を出て二〇三号室前で一旦止まり上を見上げた。人の気配はない。駐車場の方を見ると、中村ハウスクリーニングのトラックが止まっていた。
一〇一号室前の階段を上りはじめると、少しあの臭いがしてきた。ポケットからハンカチを出して鼻を覆った。
二〇三号室の扉には、消毒中の為関係者以外立入禁止の紙が貼られていた。
仕方ないので、小峰は駐車場のトラック付近で待つこととした。
三十分ほどたったとき、一〇一号室から相澤夏々が出てきた。
夏々は駐車場にいる女性に気付いた。小峰は会釈をした。夏々はきょとんとしていたが、暫くすると、一昨日の警察官だとわかった。
「あ〜、この前の婦警さんだ。ジャージだったからわかりませんでしたよ」
小峰が待つ、駐車場に小走りで寄った。
二、三歩、夏々に近づき「おはようございます。改めまして、西区警察の小峰です。先日はありがとうございました」と挨拶した。
「こちらこそ、先日は取り乱して申し訳ありません。あ〜 恥ずかしい」
一昨日の夏々は、ぼさぼさの頭で、短パン、タンクトップの姿だったが、今日は薄化粧に一つにまとめた綺麗な髪、そして動きやすい恰好をしていた。
「どうしたのですか、婦警さん。しかも私服で?まさか、刑事さんだったのですか?」
「ま、まさか。今日はお休みなのですが、中村さんに仕事を見せてもらおうかと」
「そうなんですね。でも、さっき清掃をはじめたばかりだから、まだ時間がかかりますよ。一度始めたら『あの』処理が終わるまで防護服脱げませんから」
「そうですか」
「おねーちゃん!」アパートから声がした。
「日葵ちゃん」アパート二階に向かって手を振る夏々
日葵も手を振り返して、走ってこっちに向かってきた。
「おねえちゃん。おはよ。今日、おてつだい?」
「うん。そうだよ。クロスお兄ちゃんの手伝い」
「日葵も、おてつだいしたい」
「そうだね。クロスお兄ちゃんに相談しようね」
「あの、黒須さんって、どのような方なのですか?」
「え!婦警さん。クロスさん知らないのですか?今、人気急上昇中のユアチューバーのクロスさんですよ」
「す、すみません。ユアチューブあまり見ないもので」
「教えてあげますね。クロスさんって…」
それから、長い夏々の熱弁が始まった。
どのくらい時間がたっただろう。
「あ、ありがとうございました。帰ったらクロスチャンネル見てみます」
「登録よろしくお願いいたします」と夏々は笑顔で頭を下げた。
暇を持て余してしいる日葵が大きなビニールで梱包された板を二人で前と後に持ちながら階段を降りてくるのに気付いた。
「あ、お兄ちゃんとおじさんだ。」
中村と黒瀬は板を抱えたまま、駐車場に来た。
「はい、通るよ。危ないよ。」後ろ側を支えている中村が声をかけた。
「飲み物取ってきます」そう言うと夏々と日葵は一〇一号室へと走っていった。
「黒須くん、休憩しようや」
「はい」
「失礼します。中村さん、昨日はご連絡ありがとうございました」小峰は頭を下げて挨拶をした。
「いやぁ、わざわざ来てもらって悪いね。」
「いえ、中村さん、黒瀬さんをご紹介いだたいてもよろしいでしょうか。」
「あぁ、はいはい。こちら、バイト兼、ホラーユアチューバーの黒瀬君 朝、言ったお巡りさんの…えっと」
「小峰と申します。よろしくお願いいたします」
小峰は名刺を二人に渡した。中村もトラックの中から名称を取り出し小峰に渡した。
アパートから夏々と日葵が戻ってきた。
「はい。お兄ちゃん」
日葵が渡したのは、よく冷えたジャスミンティーだった。
「ありがとう。日葵ちゃん」
中村と黒瀬は飲み物とおしぼりをもらい汗だくの防護服を脱ぎ、新しい作業着に着替え始めた。
小峰は、後ろを向いた。
「お巡りさん、仕事見たいって言ってたけど、今日のはもう普通の掃除になるよ」タバコに火を付けて中村が聞いてきた
「はい、お手伝いさせてください」小峰は、部屋の様子を自分で感じたかったのだ。
「それにしても、今日、いつもより仕事早くないですか?」そう聞くのは夏々だった。
「いやぁ、金谷さんだっけ?あの部屋の住人 言っちゃ悪いけど、いい場所で自殺してくれたよ。玄関の扉だからさ、床はコンクリートの清掃除菌だし、傷んだのは玄関の枠と今、外して下してきた このドアを変えるだけ後は部屋の掃除をしてリホーム屋と交代…」
「ちょっと、中村さん、子供が聞いてます」焦る小峰
「お巡りさん 日葵なら大丈夫だよ。いつも、おじさんの話をきくし、ナナおねえちゃんにお兄ちゃんのユアチューブ見せてもらっているから」あっけらかんと答えた日葵であった。
「よし、休憩おわり。続き始めるよ」灰皿にタバコを入れて腰をあげた。
二〇三号室の玄関があった場所には簡易的にビニールでのれんが作られていた。
ゴム手袋に工業用マスク、ゴーグルをつけた中村と小峰が散らかったゴミをまとめ、黒瀬が二階から一階に下して、夏々と日葵がトラックに運ぶ流れ方式をとった。
小峰は、衛生上窓も開けられずエアコンも着けられない部屋の片付けに「大変な仕事ですね」と声をかけた。
「いや、今日は楽な方ですよ。普段なら半日以上は防護服を着たままの状態がほとんどですからね。お風呂なんて最悪ですよ。湯船に、そのまま残ってますからね。死体の体液が…あ、失礼。…お巡りさん、なんで手伝いをしようなんて思ったの?」中村は前かがみで清掃をする小峰の後ろ姿のお尻に視線を向けていた。
「いえ、私の管轄内ですし、しかも続けて亡くなるなんて…少し怖くて」
「怖い?怖かったら、普通来ないでしょ」
「…実は、依然 別のアパートで腐乱死体を…私が見つけまして」
「そうなんだ。最初に見てしまうと、正直残るよね」
「…」小峰は言葉が出なかった。
「お巡りさん」
「はい」
「相澤社長からアパートの鍵を預かっているのだけどさ、隣の部屋も見てみる?明日は、そっちの清掃なんだ」
「本当ですか。ぜひ!」振り向くと目の前にいる中村に小峰はたじろいた。
三時休憩に小峰は、中村から二〇二号室の鍵を借りて一人、部屋に入った。
二〇三号室と左右の違いはあるが、同じ作りだ。
開けるとコンクリートのむき出しの玄関、右にキッチン、左に脱衣所の無い浴室、隣にトイレ
狭いダイニングの曇りガラスの引き戸を開くと六畳の部屋、その部屋の襖を開けると、また六畳の部屋と縦長となってる。真ん中の部屋に押し入れが一つある。
さっき居た部屋は、奥の部屋に押し入れが配置されていた。左右の間取りの違いからだ。
壁に窓がないせいか余計薄暗くかんじる部屋、当たりを見渡すと
「また、あった」小峰が見つけたのは、スーパーやドラックストアなどで売られているビスケットにチョコが塗ってある空の袋やまだ入っているお菓子だった。
一〇二号室の藤崎あいりのバックに入っていたお菓子
一〇三号室の船津道忠が握っていたお菓子
二〇二号室の真辺輝雄の配達用のバックに入ったお菓子
さっきまで清掃していた二〇三号室の金谷清彦の部屋にも同じお菓子があった。
「ど、どういうこと?」恐怖が顔に出てくる
「おまわりさん」
いつの間にか、日葵が部屋の中の玄関辺りに立っていた。
「ど、どうしたの?」驚きを隠せない。なぜならドアが開いたことに気づかなかったからだ。
「みんなが、お茶しませんか?だって」
「うん、今行くね」
玄関を出ると、まだまだ眩しい日差しが照りつけた。
「はい、おまわりさん」日葵は小峰の手に何かを渡した。
小峰は、それを見て恐怖が増した。
日葵が渡したのはビスケットにチョコレートが付いた、そのお菓子だった。
しかも、暑さのせいなのか、日葵が握っていてそうなったのかは分からないが、
袋の中のお菓子は、ボロボロに砕け溶けていて、小峰が見たお菓子は、まるで『蛹』のようだった。
◆
早坂恵美は自分が分からなくなっていた。貧しくても娘がいれば幸せだった。贅沢はできなくても、娘には手料理をいっぱい食べさせていた。初夏の頃だろうか、よくアパートに来る業者の中村と いつの間にか男女の関係に落ちていた。それから恵美は、娘中心の生活が徐々に変わっていくのを感じていた。
◆
九月二十三日
小峰由香子は、昼食の休憩時間を利用して交番近くのお寺に供養に来ていた。
事件発覚から一年 故 田中凜が無縁仏として眠っている
来月から母親 田中芳子の裁判が始まる報告に来たのだった。
念仏を唱えながらも小峰由香子は雑念が入っていた。
その原因は黒瀬優のクロスチャンネルを見たせいだ。
相澤夏々に教えてもらった黒瀬優の動画配信は小峰の感情を逆なでするものだった。
配信始めの頃は、ホラー映画の紹介や、無許可での霊場巡りものなどが多かったが、数年前からの事故物件動画がじわじわと人気を集めていた。
そして、一年ほど前に配信した一つの動画が現在 再生回数50万を軽く超えていたのだ。
その動画が『蛹事件』の現場アパートでのライブ配信だった。
事件後、八戸玄作が所有する扇ハイツ二〇一号室の清掃を中村ハウスクリーニングが依頼を受けた。中村謙二は相澤不動産店の相澤春樹に仲介を頼み八戸に黒瀬を紹介したのだった。八戸は自分の所有するアパートがニュースなどで報道されていて最初は断っていたが、相澤が『黒瀬が泊まれば、家賃を上げても借りる人は出てくる』その言葉に八戸は渋々了承したのだ。実際に黒瀬の配信の後、二〇一号室を借りたいと申し込む電話が何十件も来たのだった。普通なら、このような事件が起こった物件は家賃を下げても中々借り手は現れないが、黒瀬のような発信者がいる場合は逆のようだ。その部屋は20,000円ほど値上げしても、次に入りたいと言う人が数件待っているぐらいだった。
清掃を終えて表向きの契約をとった黒瀬は、即日そのアパートで『明日、緊急ライブを午後八時より配信します。あの蛹事件アパートからのライブです』との情報をSNSなどで配信した。当たり前の行動だった。当時ニュースで騒がれている事件、話題が熱いうちに配信しないと、全くもって意味がないのだった。黒瀬の読みは大きく当たった。一時間ほどのライブ配信であったが、マスコミが報道している内容をふまえて、自分が見た清掃前の現場の説明や映せる範囲の写真や清掃時の音声なども公開した。終了間際になると、黒瀬は、自分が用意したテーブルに座り込んで亡くなった田中凜の供養らしきものを配信し始めたのだ。『凜ちゃん。お腹減ったよね。寂しかったよね。痛かったよね。苦しかったよね』などと涙を流しながら、生前 田中凜が食べたかったであろう お菓子をや甘い飲み物を食べていた。そして、最後は黒瀬の事故物件配信で決まったセリフを言う。
『このような、寂しい思いをしながら亡くなってしまった凜ちゃん。僕は、これからも同じ人たちがいたら配信をして社会に対して疑問をぶつけて、一人でも助かって欲しいと心から思っている。僕は、このように亡くなってしまった悲しい人たちの代弁者のつもりはない。家族だと思って配信します。』
そう言ってチャンネル登録のお願いを促してライブを終えるのだった。賛同する人、罵る人、様々であったが、コメント欄は炎上して肯定派、否定派の攻防が繰り広げられていた。
この配信後暫くして、クロスチャンネルの登録数も現在では六万ほどとなり、動画視聴件数が飛躍的に伸びていた。
◆
九月二十七日
小峰と高乃は、非番で西区警察署から出たすぐ近くのファーストフード店で遅い昼食を一緒にとっていた。
「あぁ!本当にイライラする!」ハンバーガーを頬張りながら愚痴をこぼした。
「先輩、もう何日目ですか?そのイライラ」
「あぁ?高乃は何とも思わないの?あの動画見たでしょ?」
「見ましたし、先輩に無理矢理見せられたのもありますけど」
「あぁ?」
「あ、いや、そりゃ、ひどいなと思いました。しかも、あのアパートでも配信してたのですから」
「そうなんだよ。黒瀬は三月三日に、あのアパートから配信している。二月二十三日に一〇一号室の住人だった山島東子が遺体で発見された。心筋梗塞でアパートで倒れて、そのまま亡くなったんだ。黒瀬は、また亡くなった人の前で『僕は、家族です』って言ったのだぞ。信じられるか?大石さんと私も現場に行ったんだぞ。」
「すると、大石巡査部長と先輩は、あのアパートでの怪事件全てに携わっているのですね。…怖いな。」
「いいか高乃、それにな怖いって言ったら、凜ちゃんのアパートの配信前までは、黒瀬は、あの お菓子を食べてないんだ。そして、あのアパートでの配信まで、全てあの お菓子を食べてる。どう思う?」
「マジですか!やめてくださいよ。河川敷の遺体思い出してしまったじゃないですか」
「明日の配信…」
黒瀬は、明日 九月二十八日にライブ中継を八時から行うと予告していた。
「そうだ!高乃。明日の配信、私のアパートで一緒に見よう!」
「え!ちょ、ちょっと待ってくださいよ。まずいですって」
「何が、まずいんだ?」
「いえ、な、なんとなく。それに寮の門限とかもあるし」
「大丈夫。何とかしろ」
「マジですか?」
「よし、明日 十九時五十分 私のアパートに来てくれ。夕飯食べてこいよ」
「…了解です」
◆
九月二十八日
配信の準備が終わり、黒瀬は気分を落ち着かせていた。
「この配信を成功させて、登録者数を十万人にしたい。目指せ、100万回動画再生」
夏々との打ち合わせも完璧だ。二〇一号室を除いた全ての部屋が配信元となる。
日葵の母親にも、中村にも今日、ライブ配信でご迷惑をおかけしますとも伝えた。
各部屋に新しい固定カメラも設置した。
もうじき始まる。
自分のユアチューブの画面には配信を待ってユーザーが何千人と待機していた。
深呼吸をする黒瀬
時間となった。
「皆さん、お待たせしました。クロスチャンネルの時間です。今日はライブ配信で前代未聞のスペシャルな配信になると思います。ご期待ください。まず始めに、私が居る…」
配信が始まると観覧者から、どんどんとコメントが入ってきた。
黒瀬は、自分を映すライブ配信のできるハンディカメラに言葉と映像を乗せ、自分のスマホで視聴者のリアルなコメントと映像を確認しながらの配信をスタートさせたのだった。
≪待ってました≫
≪期待してます≫
≪今回は、どんな不幸な人なの?≫
「今回のアパートは、マジでヤバいです。六部屋ある築三十七年の、 このアパート。先に言いますが、実はこのアパート、今年だけで五名、亡くなってます」
≪マジ≫
≪どこ≫
≪やばくない≫
≪マジで≫
≪なんだそれ≫
≪うそだ≫
≪どんな事故物件だよ≫
≪もう、怖いのですが≫
「はい、事故物件に住んで配信する、このクロス!まずは先月、お亡くなりになった、金谷清彦さんのお部屋に、まずはお邪魔してます。金谷清彦さんは…」
金谷は派遣社員で、プログラムの仕事をしていた。孫請けの会社で、クライアントの要望で仕事内容が変わる事は日常茶飯事、元請の子会社が、仕事の依頼をし忘れていたため、納期までアパートに帰れない事もよくあった。ブラック企業だ。企業と言えば聞こえは良いのかもしれないが、実際は、社長のワンマン経営。去年から大学を卒業したばかりの息子が専務に付き、会社は益々横暴が激しくなった。金谷は、若いころ両親が他界していて親戚とも付き合いが無く、孤独だった。ただただ真面目に会社に通っていたが、春を過ぎた頃から体調がおかしくなり始め、七月に無理を言って初めての有休をとり病院に検査に行った。結果は癌だった。ちゃんと治療に専念すれば、癌の進行を遅らせることもできると言われた。金谷は、そのことを会社に伝えたが会社は金谷を解雇した。その日、金谷は自宅アパートの玄関の取っ手にネクタイをかけ自殺した。七月十九日のことであった。
全てを黒瀬は解ってはいないが、清掃時に出てきた診断書や、務め先の会社に電話をかけ金谷が辞めていることは把握していて自分で仮設を立てて配信していた。
「それから、金谷さんは、ゲイだったんですね。」黒瀬は、深いプライベートも暴露しはじめるようになっていた。
「あ、僕はジェンダーを大事にしてますから、大丈夫ですよ。だた、家族なので僕は遠慮しておきますが、あはは」などと中傷した。
さすがに、この内容は視聴者に不快な思いをさせた。
≪ひどい≫
≪そこまで、ばらさなくても≫
≪ゲイは恥ずかしいことなのか?≫
≪別に個人の自由恋愛だろ≫
≪俺なら、暴露された時点で氏ぬ≫
黒瀬は、そんなコメントも大歓迎だった。視聴者が集まれば、登録者数が集まれば…
突然、外から カン、カン、カン、カン、と勢いよく外階段を登る音がしてきた。
≪なに≫
黒瀬は冷静に「ライブ配信ですからね。住民の方ですかね。それとも…金谷さん?」
≪やだ≫
≪こわ≫
≪クレームじゃね≫
「さて、話の途中ですが、まだまだありますので場所を移ります。次の部屋は二〇二号室、それでは、移動を開始します。」
黒瀬は自分を映していたハンディカムを手に取り画面を自分ではなく、視聴者に視界が見渡せるように変更した。
画像が上下左右に乱れる。サンダルを履き扉を開け廊下に出て二〇二号室の方向へと向いた時、黒瀬は、廊下突き当たりに少女がいるのに気がついた。
「日葵ちゃん?」一瞬、子供が映ってしまったと思い、画像を見ると少女は映っていない。黒瀬は、びっくりして視線を廊下突き当たりに戻すと少女は消えていた。
「今、女の子いたよね?」視聴者に問いただしてみた。
≪何言ってる≫
≪怖いこというな≫
≪盛ってる盛ってる≫
≪演出下手≫
などのコメントが書かれた。
黒瀬は配信を戻した。
「見間違いかなぁ。…続いては二〇二号室です。隣の金谷さんの遺体は、この部屋の住人だった真辺輝雄の安否を確認する際に訪れた警察官によって偶然に発見されました。それでは、中に入りましょう」そう言って、相澤不動産店から借りている合鍵でドアを開けて中へと入って行った。暗い部屋 後日編集で使う固定カメラの赤いランプが光っていた。黒瀬は玄関でぐるりと部屋の様子を撮影し電気を付けた。
狭いダイニングが照らされ、奥の二部屋が薄暗くうつった。残りの部屋の電気を点けカメラを自撮りに変更した。
黒瀬は、まるで怪談百物語でも話すように、次の住人真辺輝雄の話を始めた。
「苦学生な真辺くん、就職で人生全てが決まるって話は、もう古いよ。僕と会っていれば…」と言い始め真辺のバイト先の店長に伺った話もした。
「…橋の上から飛び降りた真辺くん その日は、よく覚えています。なんと私、その時間帯にトラックで通過していたのです。」
≪うそだ≫
≪ダウト≫
≪ほんとですか≫
≪すげー偶然≫
「いや、いや、ほんとなんですよ。ほら、以前 『人間が橋から飛び降りたらどうなっちゃうの?』って配信は真辺くんのおかげです。まさか、このような形でこの事故を紹介するとは思っていませんでした。真辺くん 出演料払いますよ。あはは」
≪いくら≫
≪不謹慎≫
≪俺にもコメント料金くれ≫
「それにしても、不思議なんですよね。警察の発表によると、真辺くんが、死亡したのは十五日ごろとなっており、私が現場を通ったのが二十二日だったので、バイト先…おっと、スミマセン。清掃時に真辺くんのバイト先が分かってしまったので、そこのバイト先の店長に少し話を伺ってみたのですが、なんと『昨日も、真辺は出勤してました』との事だったんだよね。ビックリだよ。マジ鳥肌が出た。それから、真辺くんは学生のころ、あることをし」
ドン! 壁を叩く大きな音がした。隣の二〇一号室からだろう。
「おっ、興奮して声が大きくなっちゃったかな?まだ、以前のライブ配信のように、お隣さんが訪問してきたら困るね。あはは、少し予定は早いけど、下の階に行ってみようと思います。続きは下の部屋で」
そう言ってカメラを自撮りから、正面撮影へと操作した。黒瀬の顔には不満が出ていた。撮影をするから協力してくれってお願いしたのに、何故邪魔をした…そんな表情だった。
黒瀬はサンダルを履こうと玄関にきた時、横に何かがあるのに気がついた。
「なんだ?あ、財布だ」黒瀬の動きが止まった。見覚えのある財布だった。橘田が真辺に持ってきた財布だ。
「なんで?清掃の時処分したのに…」
≪え?なに?なに?≫
≪財布?≫
≪真辺が出演料くれってw≫
≪うまい≫
黒瀬は、また考えてしまった。中村さん?夏々の演出?
玄関を開け二〇三号室前にある階段に目をやったとき、階段を降りる人影が見えた。
カン、カン、カンと鉄階段の甲高い音が下っていった。
「チッ」舌打ちをし、予定にない出来事に黒瀬はイラだっていた。
自分の放送をスマホで確認してみると
≪ナイス≫
≪いい≫
≪音だけだけど、コワ≫
≪え?なになに?≫
と、好印象なコメントが入っていた。
黒瀬は、階段の中腹で、夏々の部屋 一〇一号室の扉が閉まるようすが見えた気がした。
少し、鼻を膨らませ息を吐き、考えを変えたのだった。
「皆さん、下の階について少し説明をしますね。」
一階に着いた黒瀬は、建物をバックに自撮りに設定し直した。
「えー、僕の後ろに映っているアパートの左手一〇三号室の住人は六月に交通事故で亡くなり、中央の一〇二号室の住人は五月に電車の人身事故で亡くなりました。どちらも飛び込みです。そして、右側の一〇一号室…以前からの視聴者の皆さんはご存知でしょう。僕が二月に配信した家族『孤独死の山島東子』の部屋です。もう、マジ恐怖で興奮してます」
≪うそwwww≫
≪その配信見た≫
≪怖い≫
≪知ってまーす≫
≪よかった≫
≪鳥肌≫
≪やめろ≫
「それぞれの部屋を訪問してから最後に一〇一号室に、お邪魔して全体の話を振り返えようと思ったのですが、先に今日、お手伝いをしてくれている一〇一号室の相澤夏々さん を紹介したいと思います。」
≪アシスタント≫
≪かわいい?≫
≪お、≫
≪期待≫
黒瀬は、夏々が勝手に配信を盛り上げようと怖がらせているに違いないと思っていた。
配信前の打ち合わせでは、素直に頷いていただけに、腹立たしかった。
黒瀬は、配信で怖がらせる事も重要だと思ってはいるが、やらせをし過ぎてアパートのアピールができなくなるのは困る。そこで、先に夏々を紹介して動きを封印しようと思ったのだ。
この配信が成功すれば、二〇一号室以外の部屋が全て黒瀬の紹介となる。黒瀬は、相澤春樹に配信を依頼されたとき、アパートの家賃が上がる見返りとして報酬を貰う約束をしていたのだ。これからは、僕が不動産店からお金を貰って配信をするスタイルに変えていく。死は金を生む。だから、どうしても配信を成功させなくてはならなかった。不可解なことは、後日配信の各部屋に設置した固定カメラで編集すればどうにでもなると考えていた。
黒瀬は、ハンディカムで自分の映像や周囲の映像を交互に映して臨場感を出した。
「はい、それでは、ノックしますね」
コン、コン、「夏々さん クロスです。紹介が早まりました。開けますよ」
黒瀬は丸いノブに手をかけ回した。
ガチャ、玄関を開けた黒瀬は、驚きを隠せなかった。
「な、なにこれ」
≪うわ≫
≪スゲ≫
≪わら≫
≪wwwwwww≫
≪ここまでやる?≫
≪草≫
≪ここでキタ≫
≪お菓子、お菓子、お菓子≫
≪食べ物は大事にしましょう≫
狭いダイニングの床には、一面お菓子の袋が散乱していた。
「夏々さん、どういうことですか?夏々さん」
返事はない。
「上がりますよ」
黒瀬は靴を脱いだその足で、お菓子の袋を掻き分け部屋へと上がった。
ダイニングから見える奥の部屋の電気は消えており、黒瀬はダイニング中央でカメラを一周させると真ん中の部屋の電気を付けた。
「うわっ」
低いテーブルに化粧台などの生活空間、部屋からの明かりで奥の部屋もぼんやりと照らされて、ベットや、ハンガーラックが見えていた。
だが、やはりこの部屋もお菓子が散乱しており、どうみても汚部屋にしか見えなかった。
≪きたな≫
≪やば≫
≪引くわ≫
などのコメントが多かったが、何故か女性の部屋に入ると言ったせいだろうか、観覧数が増えていた。
「夏々さん」
夏々は見当たらない。
「別の部屋に行ってるのかなぁ」そう言いダイニングに戻ると、さっきまで点いていなかった風呂場の電気が点いていた。黒瀬は、誰が点けた?と辺りを見渡したが、やはり誰もいない。
ダイニングから直接入るタイプの古い設計、風呂の扉はアクリル板の曇り扉だ。淡い光が風呂場から漏れている。水などが流れている音はしない。黒瀬は扉の前に立ち声をかけた。
「夏々さん、いますか?いい加減にしましょう。僕の配信の流れが変わってしまって困ります。勝手に動かないでください。夏々さんの事は後半に紹介するっていう打ち合わせしましたよね。」
≪やらせか?≫
≪女のせいにしてるw≫
≪開けろ≫
≪風呂配信wwwww≫
「夏々さん、開けますよ」
黒瀬は扉の中央を手で押した。
扉は谷折りに曲がり風呂場の画像が映し出された。
「うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ…」
そこに映ってしまったのは、首から大量の血を流した相澤夏々だった。
コメント欄には無数の言葉が並び観覧数が上下していた。
◆
小峰と高乃は、小峰が住むアパートでテレビにスマホをミラーリンクさせクロスチャンネルを見ていた。
夏々の死体が映った配信を見た二人は、息を合わせたように床から立ち上がり行動を始めた。
「高乃!アパート行くぞ!」
「はい!」
「スクーターの後ろに乗せてくれ。あー、署に連絡しないと」小峰はスマホから電話をかけようと操作したが、画面が変わらないのであった。何度も何度も指で画面をスライドさせるのだが、黒瀬の配信動画から変わらなかった。
「高乃、お前のスマホから署に連絡できるか?」
「ちょ、ちょっと待ってください。」高乃は自分のスマホをいじり始めたが、応答しなかった。黒い画面のままで、電源が切れているような状態だった。
「おかしいです。さっきまで使えていたのに」焦る高乃
「とりあえず、急いでアパートに行こう」そう言って部屋に置いてある電動キックボードに掛け
てある半キャップを手にとり鍵もかけずにアパートを飛び出したのだ。
原付二種のナンバーを付けたスクーターに二人乗りすると、高乃はアクセルを思いっきり回した。
後ろに乗った小峰は、操作できないスマホを片手で画面を触りながら黒瀬の配信を見ていた。
「やばい」後ろから聞こえる小峰の言葉に高乃は唾を飲んだ。
◆
「な、何なんだよ。ほ、本当に死んでる」黒瀬は死体を見たことは無かったが、今までの経験から夏々は生きてないと確信していた。
視聴者の反応も凄まじく混乱していた。しかしながら黒瀬には、それを確認する余裕など無かった。
≪みちゃった≫
≪うわぁぁ≫
≪ヤバくね≫
≪ガチ?≫
≪お兄ちゃん≫
≪通報しないと≫
≪オレ、フォローやめる≫
≪お手伝い≫
≪バン≫
≪?≫
黒瀬は風呂場から後ずさりしながら呟いた。
「マジやめてくれよ。僕のチャンネルだぞ。どうしてくれるんだよ。何が手伝うんだよ。壊しているじゃんか、終わった。もうダメだ。」
後ずさりした黒瀬の足が何かにぶつかった。
振り向いた黒瀬の後ろには、この世の者ではない存在がいた。
再び悲鳴を上げる黒瀬は手に持っていたカメラをその者に投げつけたが、そのままカメラは、その者をすり抜け壁に当たり床に落ちた。偶然にもカメラは黒瀬を捉えていた。画像は横向きだが尻餅をついた黒瀬が映っており、アングル的に一緒に映っているはずの その者は映ってなかった。だが黒瀬の前には、確実に その者は居た。
≪どうした≫
≪また事故?≫
≪投げた≫
≪お兄ちゃん≫
≪もう、やめな≫
≪楽しくない≫
≪マジ、怖い≫
≪見たら呪われる≫
≪誰?さっきから、お兄ちゃんって?≫
「お兄ちゃん」
≪!≫
≪エッ?≫
≪声した≫
≪聞こえた≫
≪なになに!≫
≪映ってないよ≫
≪神回≫
「お兄ちゃん」
「あ、あああ、」恐怖で固まる黒瀬
黒瀬が見ている者は、この世の者では無かった。無造作に暴れた長い髪、ボロボロに汚れたTシャツにスカート、手足は腐り、だだれ、見上げた黒瀬が見た顔は、目がくぼみ、鼻が落ち、口から液体を垂れ流している少女だった。
◆
もうじき、アパートに通じる路地裏の細い通りに着くころ、小峰は高乃に指示を出した。
「私は路地入口からアパートに向かうから、高乃は、そのまま交番まで行って大石巡査部長に応援を求めてくれ。」
「一人で大丈夫ですか?」
「大丈夫じゃない!だから、早く応援を呼んで来てくれ」
「わかりました」
操作できないスマホの画面からは、黒瀬が怯え「お兄ちゃん」と謎の声が聞こえていた。
キ、キキィィィィー 高乃がブレーキを掛ける。小峰は素早くスクーターから降り、二人は何も言わずにそれぞれの場所に向かった。
◆
ガチガチと歯が鳴っていた。
少しでも、この少女から離れようと黒瀬は、震える体を無理矢理、尻餅をついた状態で逃げようとしていた。皮肉なことに、風呂場から遠ざかろうとしていたのに、今度は風呂場の方に逃げて行く破目になった。
「く、来るな」逃げようとする黒瀬
「どうして?」一歩近づく崩れた少女
「なんなんだよ」混乱する黒瀬
「お兄ちゃん?」手を差し伸べる溶けた少女
「ひ、ひぃぃぃ」頭を抱えて怯える黒瀬
「…家族って言ったのに…」窪んだ目で見つめる少女
「か、家族?何言っている。ば、化け物」必死に抵抗する黒瀬
「…も、もういい。お兄ちゃんなんて要らない。お姉ちゃんにあげる」そう言って血を流した少女は黒瀬から離れ始めた。
そして黒瀬の目から消えた。
◆
視聴者の画面には黒瀬以外は映っていなかったが、路地裏を懸命に走る小峰には、床に転がるお菓子の袋が不自然に潰れるのを見逃さなかった。まるで、誰かが黒瀬に近づき、そして遠ざかるように見えた。本当に音声のようにそこに少女がいるのを確信したのだった。
路地裏を抜け、アパート渡り廊下を走り一〇一号室の扉を思いっきり開けようと、開けた瞬間、内側から扉が引っ張られて再び閉じてしまった。
ガチャガチャ、力任せに引っ張るが、扉はびくともしなかった。
ドンドンドン!扉を叩き大声を出した。
「黒瀬!開けろ!開けろ!」
ガチャガチャ、ドンドンドン、ノブを回したり叩く行動を小峰は繰り返した。
黒瀬は、ドアが叩かれる音さえもう耳には届いてなかった。もう、壊れていた。
画像には映らないが、黒瀬の後ろに人の姿が現れた。
「クロスさん、戻って来たね。これで、一緒の家族になれる」
座り込んで口を開けたまま天井を見つめている黒瀬を優しく膝を突きそっと抱いたのは、体中が血まみれの夏々だった。
≪なに?≫
≪誰かが来た≫
≪通報した≫
≪この声怖い≫
≪凄いやらせ≫
≪趣向変えたか≫
≪今度は誰だ?≫
≪もう、怖い≫
≪草≫
≪やべ、オモロ≫
≪女の子は?≫
≪逮捕≫
≪もう、終わり?≫
≪クロス終わったw≫
≪バイバイ≫
≪氏ね≫
≪違う女?≫
≪ヤバすぎ≫
≪クロスさん≫
≪どこのアパート?≫
≪サヨナラ≫
≪ファンになった≫
≪グロい≫
≪おもしろくない≫
≪一緒≫
≪アホずら≫
≪画面見づら≫
≪じゃあ、見るなよ≫
≪バン決定≫
≪炎上w≫
≪消えろ≫
≪最高≫
≪これ、大丈夫?≫
≪うれし≫
「うれし」そう言う夏々
画面映る黒瀬の顔だけが、徐々に後ろに回っていく 夏々が黒瀬を無理矢理振り向かせているのだ。そしてそのまま黒瀬の首が折れた。黒瀬が最後に見た者は、血まみれで黒瀬に愛情を向ける夏々の顔と、その瞳に映る醜い自分だった。
ドンドンドン!「黒瀬!開けろ!」
ガチャっと再び扉のノブを回した時、今まで抵抗していた扉が開いたのだ。
「黒瀬!」部屋に入ろうとした時、小峰にぶつかる何かが通りすぎ外に出て行った。
「な、なに?く、黒瀬!」部屋を見た小峰は固まった。
黒瀬の姿は首が体と180度逆を向いていた。普通なら倒れている状態なのに、何かに支えられているように、その場に座していた。
「こ…」小峰の耳に女の声が入って来た。
「こ?」ハッと小峰はポケットにあるスマホを取り出した。まだ、クロスチャンネルが映っていたが。コメント欄にある言葉が連続で入って来ていた。
≪こども≫
≪こども≫
≪こども≫
≪こども≫
≪こども≫
≪たすけて≫
≪たすけて≫
≪こども≫
≪たすけて≫
≪こども≫
≪こども≫
≪こども≫
≪たすけて≫
≪たすけて≫
≪たすけて≫
≪たすけて≫
≪こども≫
≪たすけて≫
≪たすけて≫
他のコメントが入る要素も無く、≪こども≫≪たすけて≫と永遠に入りそうな勢いだ。
小峰は、一〇一号室を飛び出し、目の前の階段を駆け上がった。
「日葵ちゃん」と同時に下から声がした。
「先輩!」路地裏からでてきたのは高乃だ。
「高乃!」その後ろには、大石の姿も見えた。
「大丈夫ですか!」
「高乃!一〇一号室に入って黒瀬の配信を止めろ!」
「は、はい!」
小峰は、二階の渡り廊下を走り、二〇一号室の扉が開いているように願いながらノブを勢いよく回した。開いた。扉を開け、土足のまま上がり、素早く目線でリビングの状況を確認して六畳間へのガラス戸を開ける。…いない。奥の部屋への襖を開ける。部屋を見た小峰は叫んでしまった。
「あぁ、ああああああぁぁ!!!!!」
そこには、中村が血まみれで包丁を持ち床に伏せてるものを見て立っていた。
床に伏せているのは、包丁で、めったざしに刺され殺されていた日葵の母親だった。
だが、小峰が叫んでしまったのは、母親の後ろにある、ビニールに包まれ『蛹』のようにグルグルと巻かれたものだった。
叫びながら、小峰は放心状態の中村を突き飛ばした。中村は、その衝撃に我に返ったのか、「こ、こんなはずじゃ」と言い部屋から逃げ出した。
「な、何か切るものは…」見渡しても何も無い。探している時間もない。小峰は、自分の歯でビニールに切り込みを入れた。幸い工業用の薄い目張りするビニールだったので、簡単に引き裂くことが出来たが、それでも、重なったり、纏まったりすれば、なかなか破けない。ビニールを裂いては、巻かれたビニールを解く小峰。少しすると、日葵の顔が出てきた。顔が青い チアノーゼだ。息を確認する小峰、やはり日葵の呼吸は止まっていた。がむしゃらに日葵の上半身に巻かれたビニールを引っぺがす。胸辺りが出てきたので心音を確認する。急いで人工呼吸と心臓マッサージを交互に始める。子供の蘇生方法なので、小峰は訓練を思い出しながら的確に人工呼吸と心臓マッサージを行った。
「お願い、戻って、死なないで」必死に続ける 「お願い、お願い」
ハァー、ゴホ、ゴホ、ゴホ、日葵の呼吸が戻った。
「あ、あぁ」安堵した。少し冷静さを取り戻した小峰は、窓から回転灯の明かりを見た。応援が来ていたのだ。小峰は、立ち上がり助けを呼びに部屋を急いで出た。
玄関を開け、渡り廊下の手すりから下の仲間達に大声で叫んだ。
「要!救護者一名!」
叫びながら、小峰の目に入ってきたのは、すぐ下で大量の血を首から流してガクガクと震える大石と その傷口を手で押さえる高乃と救急隊員、少し離れた駐車場で中村を取り押さえている門口とその仲間
小峰は、その現状を目の前にして理解した『私が中村を取り押さえなかったから?』だが再び叫んだ。
「要!救護者一名!早く!!!」と泣きながら大声で叫んだ。
◆
エピローグ
10月某日
小峰由香子 は最近、男勝りな言葉使いがめっきり減った。
あの日の出来事にかなり参ってしまったのだ。
大石が殉職した。高乃が退職した。もう、以前の日々には戻れない。
駅前の派出所には居たくなかった。
小峰は、11月の署の調査書類に生活安全課に異動を希望するつもりだ。
田中の裁判も始まっており、小峰の中の刑事になる理由がなくなったのだ。
「すみません。突然、おじゃましまして」
「いえ、構いませんよ。来ていただいて嬉しく思います」
小峰は、児童養護施設に来ていた。
一週間前に病院を退院した日葵が暮らしているのだ。
入院中、何度か面会に行ったが、日葵は、ほぼ喋らなくなっていた。
無理も無かった。
日葵は入院中、か弱い笑顔を小峰に見せていた。
ただ、退院する時に小峰に言った言葉が頭から離れなかった。
『お巡りさん。私、お巡りさんのおかげで出て来れました。ありがとうございます』と
施設の食堂の椅子に腰掛け、お茶をいただきながら、施設院長と話をしていた。
「生活安全課の同期から聞いた話ですと日葵ちゃん、こちらに来てからすごく元気に生活してると伺いました。病院ではショックが大きかったせいか全く喋らなかったので、話を聞いた時は驚きましたが、こちらに来てよかったなと思ってます」
「えぇ、そうなんですよ。私どもも事件の話を耳にしていましたので心配をしておりましたが杞憂に終わりそうです。初日は緊張してましたが、すぐに他の児童とも打ち解けて元気に暮らしてますが…ただ」
「ただ?」
「お巡りさん。こんにちは」
笑顔で挨拶をしたのは日葵だった。小峰が施設院長と話している間に、他の施設員が日葵を連れて来てくれたのだ。
「日葵ちゃん、こんにちは、元気してた?」
顔色が良く、元気そうな日葵を見て小峰は安堵した。
日葵は、少しきょとんとした表情をして小峰を見た。
「うん。元気だよ。お巡りさん聞いて!ここ、すごいの!朝でしょ、昼でしょ、夜でしょ。3回もご飯が出るんだよ。それにね、おやつの時間もあるの!すごいよね。初めてだよ。こんなに ご飯が食べれるの それにね」
小峰は日葵が何を言っているのかが分からなかった。逮捕された中村の話によると、日葵の母親 早坂恵美は『貧しくとも日葵にはお腹いっぱい食べさせたい』と嬉しそうに話したと言う。そして、三人での食事は幸せそのもので、中村はそんな恵美に心轢かれ本気で一緒になろうと思っていたらしいが、八月終り頃からどういう訳か中村のDVが始まった。中村は前の妻と子供の暴力を振るい裁判所から配偶者暴力防止法に基づく接近禁止命令が出されていた。そんな状態で、また暴力を振るえば今度は逮捕されるのは分かっていたはずだ。そして中村は、どうして恵美に暴力を振るったのか自分では分からないと言う。
中村の事を庇うわけではないが、小峰が日葵を見る限り母親の虐待は感じられなかった。
そんな、過保護な母親に育てられた日葵がそんなことをどうして言うのか、小峰は背筋に寒気を感じた。
「だからね。ここに来てすごく嬉しいの」
「よかったね。日葵ちゃん」作り笑顔をした。
また、きょとんとする日葵、すると施設の台所から先ほどの施設員の声がした。
「リンちゃん、お手伝い頼んでいい?お巡りさんに お菓子持っていってくれるかな?お願い」
「わぁ 私も食べてもいい?」そう言って台所に駆けて行っく
「あ、あの…リンって?」小峰は恐る恐る施設院長に聞いた。
「そうなんです。ただ一点、いくら私どもが『日葵ちゃん』と声をかけても返事もしないのです。そこで『お名前は?』って聞いたところ『私、リンだよ。ひまりじゃないよ』と言うのです。先日、カウンセラーの先生に相談したところ、『もしかしたら脳に酸素が不足しての影響か、事故を思い出したく無いので無意識に自分を閉じ込めているのだろう』とのことで、長い目でみましょうと…そこで、私どもは、日葵ちゃんではなく リンちゃんと呼ぶことにしました」
「…そうですか」
「はい、お巡りさん。お菓子 どうぞ」リンと呼ばれる少女がお菓子を持ってきた。
「ありがとう」小峰は少女の顔を深く見てわかった。『日葵ちゃんなんだけど、日葵ちゃんじゃない』小峰は理解した。あの言葉は日葵ではなく、この少女だったのだ。そしてこの一連の不可解な事件も…
大人じゃなく子供 全く何も知らない子供 自分の目に見えるだけの行動範囲 誰かに注目されたい お手伝いをして喜ばれたい 大人に見てもらいたい 子供のわがまま 純粋な子供
「ねぇ、お巡りさん。私も一緒にお菓子食べてもいい?」
「うん。一緒に食べよ。凜ちゃん」
『蛹』 ~終~
トゥルルル、トゥルルル、ガチャ
「はい、お電話ありがとうございます。あなたの街のアドバイザー ハウスショップ扇西店の矢那瀬が承ります」
「アパートを借りたい」
「はい、ありがとうございます。お客様は、どのような物件をお探しですか?」
「〇〇アパートに住みたい」
「お、お客様。…ご理解の上でしょうか?」
「…」
「あ、あの、お調べいたしますので、お客様のお名前を頂戴してもよろしいでしょうか」
「高乃 慶介」
読んでいただき誠にありがとうございます。
以前投稿させていただいた『蛹』の一気読みとなります。
途中途中、編集をしてみました。
あらためて読み返すと誤字が多すぎましたw
少しでも楽しんでいただけたら幸いです。
2022/01/28 木尾方