5話 色欲
沈黙は長く続かなかった。
隣の木から覗き見る悠一が逃げないと見るや、ゴブリンもどきが手振りを交えてギィギィと鳴き声を上げはじめた。
その姿は話しかけてきているように見えなくもない。
だが、油断などできようはずがない。話す知恵があるという事は、騙す知恵もあるという事なのだから。
無害を装って接近を許し、そのまま飛び掛かられたら、赤子の筋力では太刀打ちできない。《操作》を使えば動きを止められるかもしれないが、代わりに赤子の身体を上手く動かせなくてはその後が続かない。
(――攻撃のための技能を取るときかもしれない)
とはいえ、どんな攻撃手段をとればよいというのか。
《授乳》を取得したばかりの今となっては、ゴブリンもどきを軽々撃退できるほど強力な技能は望めない。
そして、前世の悠一は平和な人間社会に生まれた一般人で、直接奪ったことのある命など小さな虫がせいぜいだ。どの程度で人型の生物が絶命するかなど考えたこともない。
その上、相手は異形とはいえ明らかに一定の知性を持っている。
そんなものを絶命させたり、その過程での苦悶の姿を見たりする覚悟が、今の悠一にはない。
無論、襲われてからでは遅いのは理解している。
だが、不用意に刺激すればより苛烈に反撃を受ける状況であるのも間違いない。
手札は決定打に欠けるなけなしの技能だけ。
(お包みさえ取り返せたら逃げてもいいんだが……)
ともに生まれ落ちた相棒はできれば手元に置いておきたい。
けれど、こと目の前にこちらを害せる相手がいる状況で、王より飛車をかわいがることなどできはしない。
――不意にゴブリンもどきの声が止む。
(あ、しまった)
さすがに悠一も、己の失敗を直感した。
お包みを凝視しすぎたのだ。
言葉はわからずとも、相手はお包みが惜しくて逃げないのだと理解しただろう。
翼に魔力を注ぎ込む。
次の相手の行動に即座に対応しなくては命かお包みか、あるいはその両方を失うことになる。
一瞬の間。
いくつもの事態の悪化――お包みが破られたり捨てられたり、何かを投げられたりを想定したが、次に起こったのはそのどれとも違った。
ゴブリンもどきはお包みをハンモックの上へ手放したのだ。
意図を掴みかねる。
好意的に解釈すれば、大事なものと知って返してくれた。
深読みするならば、間合いにおびき寄せるための餌。
当然、飛びつくわけにはいかない。
仮に餌だった場合、相手はこちらを害するための予備動作をするはずである。
――ところが、ゴブリンもどきは悠一の凝視を受けると幹に身を預けながら無防備に両手をあげた。
(害意はない? それともまだ優位であるという確信か?)
予備動作の放棄に見えるそれは、順当に考えれば敵対の意思を持たないという事だ。
けれど、悠一が前世で見たアニメには白旗が徹底抗戦と受け取られたり、握手が決闘の申し込みだったりした例もある。
ひとつのミスも許されない状態では己の常識すら疑わなくてはならない。
(どういうつもりなのか聞ければ一番早いんだけど喚き声にしか聞こえないからな……)
ゴブリンもどきは両手をあげたまま動かない。
よく見れば見ずぼらしい石の剣も腰に帯びたまま抜いていない。
完全に敵意がないように見える。
相手の立場からすれば、もしこちらが何らかの攻撃手段を持っていた場合、手傷か落下による負傷を警戒しなくてはならないはずだ。それでもなお、無防備に見えるその姿を維持するならば、それは力づく以外の何かを求めている可能性は高い。
(次に取る技能、決まったかもしれない)
それは攻撃のためのものではない。
最悪、何もかも捨てて逃げられるという保険は残っている。
その技能に賭ける、覚悟ができた。
《翻訳を取得しますか?》
一もニも無く了承する。
(ずいぶんとあっさり取れたな)
半ば技能の希求は沈黙で返されるかもしれないと思っていた。
《授乳》で魔力チャージを使い果たしてから大した飛行をしていないにもかかわらず取得できたのは、使用に大きなエネルギー変化を伴わない技能は取得が容易なのかもしれない。
準備は整った。
このまま語りかければ自動的に互いの言葉の意味を汲み取れるはずである。
――しかし、少しだけ声を発するのを躊躇った。
攻撃を受けても、言葉が通じなければ相手はただの猛獣だが、言葉が通じたらそれはもはや悪意を持った人間だ。未知の悪意に触れるのが少し怖い。
(いや、違う。これは相手を悪者にしたい僕のエゴだ)
ゴブリンもどきは無防備な姿勢のままこちらの反応を待っている。
それが相手のできる最大の譲歩なら、こちらもできることはしなくては対等にすら並べない。
「聞こえるか」
シンプルに語りかける。
ゴブリンなどと呼んで蔑称と受け取られるのは避けたいところだ。
当のゴブリンもどきは赤子が言葉を話すとは思っていなかったのだろう。目を白黒(瞳が赤いので白黒ではないが)させている。
「言葉の意味は通じているな? 夜分に寝所に押し入るとは如何な用向きか」
妙に物々しい口調での意思伝達になってしまったが、自分を奮い立たせる意味もある。
それで大物感が出せれば安いものだ。
技能の効果は覿面だったようで、こちらの意思が通じたコブリンもどきはお手上げの姿勢から即座に両膝を折り、面を伏せた。
「ハ、ハハーッ!! ご生誕なされたばかりで英邁に富むとは露知らず、ご無礼のほど、平に、平にご容赦を!!」
――絶対にそんな難しい言葉で喋ってはいないだろうと直感した。
だが、きっとこれが《翻訳》の効果なのだ。
伝えたいことを、相手に伝わる言葉で伝えてしまう技能。おそらくだが伝えたい情報を明確に意識して制限しないと、内心で思っているニュアンスが翻訳されて相手に伝わってしまう。
よほど上手く使わなくては嘘がつけないと思ったほうがいい。
よほど上手く取り繕われなければ相手の嘘を見抜けるとも言えるが。
どちらにせよ、ゴブリンもどきの言葉には害意のかけらも潜んでいなかった。
「かまわん。が、生まれて間もないゆえに世上には疎い。お前が接触してきた理由、お前の知ることすべて話してもらいたい」
偉そうな口調を直す機会を逸しかけているが、情報収集のためにはやむなしである。
相手が本心から遜っているのが窺えるので、その理由がわかるまではこのノリは続けるべきだ。
「はい。私めは御身の礎となりに参った次第。代わりにどうか我が集落の者たちはお目こぼしを……!」
ますます話がつかめない。
なぜかこのゴブリンもどきの中では、淫魔の赤子が一族郎党を抹殺するような恐ろしい存在とでも捉えているようだ。
「待て。ぼ……、私は好き好んで犠牲を出すつもりはない。そもそもお前たちにとって私が脅威に思われている理由がわからない。もっと根本的な話が聞きたいんだが」
「か、かしこまりました。それでは貴方様の身の上から申し上げさせていただきます」
二人称が変わったのは決死の覚悟が和らいだからか。
少なくとも即座に刃傷沙汰にはならないと判断し、寝床へと舞い戻る。
お包みを敷布代わりにハンモックへ腰を下ろすと、ゴブリンもどきは一段低い枝に降りて跪いた。
「貴方様は、『色欲の魔王核』を持って生まれた、新たな魔王でございます。…………魔王様?」
生まれた見た目から何となく日陰者であることは察していたが、その陰は薄暗いどころではなく真っ暗だった。大体『色欲の魔王核』とは何か。技能を使うときの熱の正体か? そんなところに埋まっているから色欲なのだろうか。そんな物が埋まっているから淫魔の姿で生まれたのだろうか。
思わず天を仰いでしまうとゴブリンもどきが心配そうに質してくるが、まずは前提となる情報を手に入れることが先決だ。
「――最後まで聞く。続けてくれ」
先を促すと、ゴブリンもどきは訥々(とつとつ)と語りだした。
――この世界では、魔王は自然発生するものらしい。
魔物は魔王の誕生を本能的に感じ取り接触を図るのだが、その理由は大きく二つに分けられるという。
まず、力のある魔物は、自分を魔王に売り込みに馳せ参ずる。
己を魔物たらしめる所以、体内にある『魔核』を献上し、眷属へと下る代わりに魔王からは技能を授かる。
魔物にとって利用価値のない魔核を、魔王は有効活用できるというわけだ。
(魔物は出資者兼社員で、魔王は社長のようなものか)
ただし魔王の会社には帳簿も監査もないため、出資した魔核は帰ってこないし、経営を咎めることもできない。
――とんだブラック企業である。
待遇改善を訴えれば、最悪物理的に首が飛ぶ。
それでも魔王の配下に加わろうとするものが後を絶たないのは、それだけ技能が魔物にとって魅力的だからだ。
地球の野生生物どころではない生存競争の中で、他種族に一歩も二歩も先んじられる技能は、微増のリスクで高いリターンが見込める垂涎の的だ。そしてコストは無用の長物だった臓器をひとつ捧げるだけ。
力を欲する魔物にとって、これに飛びつかない理由がない。
一方、魔王もいずれ強大な力を得るとしても、生まれたばかりはか弱い存在だ。
手軽に手勢が手に入り、しかも魔核を介して相手を下位の存在に置くことで叛逆もされない。使える魔物は大歓迎だ。
しかし、そのとき魅力的な技能を提示できなくては、命を預けるに能わずと最悪殺されてしまう。相手を納得させる品揃えを確保するためには、元手が必要不可欠だ。
どうやってか?
決まっている。使えない魔物から魔核を奪えばいい。
悠一が試行錯誤で技能を取った行程を、一般的に魔王は本能的に自分のための技能を取るのだという。
それを使って周囲の魔物を狩り、魔核を奪う。この時点で魔王に勝てない魔物は使えないというわけだ。
そして無作為に魔物を相手取れば、いずれ勝てない魔物に出会ってしまう。
魔物対魔物であれば弱い方が殺されて終わりだが、魔物対魔王では技能を餌に相手を配下とし、生き延びることができる。
弱い魔物から魔核を奪い、良質な技能を準備して強い魔物を待つ。それが生まれて間もない魔王の生存戦略なのだ。
「――カマキリのオスにでもなった気分だ。……だが、今の話を聞く限りでは、お前は何故私のところに来た? 争いを好むわけでも功名心に駆られたわけでもないのなら、私とは距離を置きたいのではないか?」
「それは先ほども申し上げました。我が集落の者たちのため、御身の礎となりに」
説明の間、少しだけ緩んでいた口調が再び引き締まる。
《翻訳》によってゴブリンが言外に含めた、彼自身の立場が伝わってきた。
「食われ役か」
「はい。我々ゴブリンは集落さえ滅びなければ、その存続に必要な頭数を維持できます。今日は私が、明日は弟が、御身の魔力の糧となります。いずれ屈強な配下を得て旅立たれるまで、我々は命を差し出し続けます」
――眩暈がする。
この世界におけるゴブリンは集落単位の生き物なのだ。個の命はさほど重要ではない。すでに目の前のゴブリンは死を受け入れている。
捕食者が獲物を血肉とすることに専念する間、集落に残った者たちは生き延びて数を増やす猶予を得られる。十日で十人食われるなら、十日で十一人産めばいい。
それは彼らにとって当然のことなのだ。
無抵抗の餌が供され続ける限り、弱い魔王もあえて生産者を襲うリスクは冒さない。
魔王の食指が群れへ向かないよう身を差し出すこと。
――それが、魔王に接触を図る魔物の、もう一つの理由だった。