27話 いざ一角聖獣の領域へ
春の無辺樹海は、昼夜の寒暖差が激しい。
明け方には豊富な水が朝霧となって辺りに立ち込め、茂った枝葉は地表への朝日を遮る。ゆえに空が明るんだ後も、朝霧が晴れるまでは冷気が肌を刺すのだ。
「ユイ様~、もうお日様が昇ってぽかぽか陽気ですよ。これ以上はお寝坊さんですよ~」
エミスが上機嫌に覗き込んでくるのを眠気眼で見返した。
寝がえりで投げ出された手足が、寝床に残る冷気で少し悴む。互いの温もりで暖をとっていたはずのアウラの姿はすでになかった。
「おはようございますっ。朝ご飯、もうすぐできますよ」
「おはよう……。すぐ行くよ」
すぐさま頭は冴えていくものの、昨晩の活動もあって睡眠は足りていない。
本当は寝床でゆっくりしたいところだが、既に二人が活動を始めている手前それもできない。装いを正して外に出ると、先に降りていたエミスが火の番をしているアウラと話に花を咲かせていた。
「おはよう。朝食の支度をしてもらってすまないね」
「おはようございます。ユイには快適な寝床を作ってもらっています。それに、毎朝ユイの寝顔を見る楽しみがなくなってしまいますから気にしないでください」
ぺろと舌を出すアウラは昨日の鬱屈など嘘のように朗らかだ。
それ自体はよい事だが、明らかにエミスの悪影響を受けている。
主人の体質に味を占めた眷属たちは、あえて起こさずにユイの寝顔を観察する楽しみを見出してしまった。悪習撤廃の声をあげても、よく出来た従僕たちは主人の睡眠時間を自発的に確保し、提案を棄却してしまうのだ。
恐るべきことに、その悪しき伝統が色欲一門の外にも広がってしまったのだ。
「なんかこう、寝ている時のユイって、ずっとそのまま飾っておきたくなってしまいます」
「わかります。意識の無いユイ様って角や翼のせいで無理やり姿勢を取らされているように見えてイケナイ気持ちに、げふんげふん、興ふ、んんっ、放っておけなくなりますよね」
硬く手を握り合う配下と友人がかなり怖い。
顔をしかめていると、調理を代わり寄って来たアウラが強張った頬にふれてきた。淫魔の玉の肌とは違う、ざらざらとした皮の厚い指先が気遣うように撫でるので、むくれた口元が緩む。炊事で熱を持った指先が、寝起きの冷えた肌に心地よかった。
熱冷ましに使われるがままでは癪なので、こちらも指を重ねて暖を取る。双方の体温が程よく混ざった頃、アウラは苦笑しながら顔を寄せてきた。
「うーん、ユイはやっぱりお嬢様ですね。相手を無条件に信じすぎるというか……、自分が可愛い事を分かっていて武器にしていますよね。飼い猫が、自分に伸ばされた手は撫でてくれるためだと解っているような……」
「さすがの御慧眼です、アウラ様」
「酷い言われ様なんだけど。最低限、相手が害意を持っているかくらいは判断しているつもりなんだけどぉ!」
何もユイとて望んで姫プレイをしているわけではない。
恵まれた容姿も、周囲の人物が全員自身より有能なのも、すべては不可抗力だ。これはやむを得ない生存戦略であり、本来ならエルフたちやアウラに良い様にされたくなどない。淫魔の美貌に胡坐をかいて、奉仕を要求していると受け取られるのは心外である。
「二人とも、イチャイチャするのは終わりです。朝食を済ませてしまいましょう」
「そうですね。ユイ、私がとってあげますね。……はい、どうぞ」
睦み合いを否定してほしいユイを完全に無視して、焼いた肉が盛りつけられる。
憮然とするも、よく火の通った肉のいい匂いには抗えない。せめてもの抵抗と表情を殺して口へと運んだ肉をかぶりつくのだが、空腹のために勢い込んで食べる様を二人の視線は無遠慮に見つめてきた。
「あぁっ、いい食べっぷりですねぇ! 無心に肉を頬張るユイ様でご飯が美味しい……!」
「ええ、少しだけ豪華にした甲斐があったというものです」
普段から食事は獲って来た魔物の肉と乾飯等を、現地調達の石器で調理して軽く済ませるのだが、今朝に限っては保存食の割合が目に見えて多い。大事の景気づけと言う意味合いもあるが、往復に必要な日数が確定したため余剰分を消費しておきたかったのだ。
「せっかく具材を多く使うのですから、少しばかり味にも拘りました」
「うん、薬味が効いてて普段よりずっと美味しい」
樹海に自生している薬草を使った味付けは、『桜の要塞』の生活において定番だった、いわば故郷の味だ。腕を振るってくれたことへの謝意に対し、満面の笑みを浮かべるエミスに毒気を抜かれた。
時にその介意が煩わしくとも、真剣にこちらを喜ばせようと労を厭わない姿勢は好ましい。不出来な主ではあるが、少しずつ肩を並べられるよう精進しようと意欲が湧くというものだ。
「ついでにユイ様が小さなお口を精一杯広げる姿が見たくて、切り分けるのは最低限にしまし、あぁんっ」
褒めたそばから欲望を垂れ流す口に、尾を撓らせてムチを入れる。恍惚に身震いする不出来な従者を下から睨めつけても、湿った吐息を吐くだけだ。もはや処置無しと会話を打ち切れば、黙々と食べ続ける姿さえ観賞されてしまう。
そんなやり取りの横から、くつくつと笑い声が漏れてきた。何事かと顔を上げれば、目を細めたアウラが手を振っている。
「いえ、失礼しました。これから強大な魔物と相対するというのに、お二人は気負わないのだなと。恥ずかしながら、ここにきて少し怖気づいていたのです」
先ほどまで羽目を外していたのは緊張を誤魔化すためだったのか。
アウラは根が真面目なので、そうそう弱音を吐くことはない。それでも、どう転ぶかわからない難局を前に構えるなと言う方が酷である。ホームグラウンドなうえに、根回しが終わって安全が担保されていることを知るユイたちとは違うのだ。
「……そんなことないよ。エミスに甘えられるから緊張感がないだけさ」
今回のお膳立ても、ユイ一人では不可能だった。
いつでも他者に頼り切りなのが実に不甲斐ない。
「ユイ様にはもっと甘えてほしいんですけどね~。あまり甘やかすと族長に怒られるので按排が難しいです……」
「エミスさんが甘やかしてくれたおかげで助力が得られたのですから、感謝しないといけませんね」
アウラの軽口に、目を瞬いたエミスが胸を張る。
一見すれば吹っ切れたように見えなくもない。虚勢を心配する視線に気づいたアウラが申し訳なさそうに笑いかけてきた。
「大丈夫ですよ、ユイ。一角聖獣に会うためにここまで来たのです。後には引けません。食べたらいよいよ出発しましょう」
ずぼらなユイとは違って、アウラはやるべきことを後回しにしない性分だ。
怖気づいて見せたのも、ユイやエミスの反応を見て、決行するか否かの決断をしたかったのかもしれない。
その後、朝食を黙々と続けた。偽装のボロを出さないよう雄弁を振るう自信がなかったのだ。妥協の末に黙ったこちらを眺めて食欲を増進させている二人が業腹であったが、二人のコミュ強に太刀打ちできる自信が微塵もない。藪蛇にならないよう、素直におかずの一品として見世物に成り下がるしかできなかった。
それから食事の後始末を終え、身支度をして出発の準備が整うまで一時間を要した。
一晩を過ごした寝床は《裁縫》で変換を繰り返し、生分解性の素材の粒まで縮小させた上で、諸々の生ごみと一緒に地に埋めた。魔王器によって素材に困らないのは実に便利だ。
「ユイの布を操る技能は便利ですよね。ここ十日の睡眠が余りに快適すぎたせいで、従来の野営の仕方がもはや覚束ないところです」
寝床の撤去を始終見入っていたアウラが呆れたようにこぼした。
ユイ自身この技能がある以上、いまさら一般的な野宿などできそうにない。今後も旅の道連れには遠慮なく快適な休養を振る舞って野営の腕前を落としていただく事に決めた。
「それだけじゃないです。ユイ様はご自分の配下に衣服を下さるんですよ。正式な場所ではその服を着るのがユイ様麾下の格付けとなっているんです」
「それは……、素直に羨ましい。着飾ったエミスさんも嘸かし美しいのでしょう。……たしかにユイの旅装束は翼や尾の動きを阻害せず、保護もしやすい形状ですね。ご自分で作らねば高くつく……。これを考案できるなら、衣服の下賜は大いに求心を得ることでしょう」
しきりに頷くアウラに、誇らしさと同時に安堵の念も沸き上がった。
魔王器を素材とした衣服の下賜は、無条件で好意を抱いてくれる眷属たちにどうにか報いることができないかと考案したものだ。そんなことは知らないアウラに対して、なぜエミスのような有能な人材が手のかかるユイを主と仰いでいるか、その疑念の払拭に一役買ってくれたに違いない。
「ですです。アレを身に纏ってると、私はこの方のモノなんだなぁと身が引き締まるんですよね~」
「ぐ、それは少し……、いえ、かなり見てみたいです。失礼ながら闊達なエミスさんが厳粛にしているところは想像できませんし。それを可能にするユイの意匠というのも実に興味があります」
無遠慮なアウラに頬を膨らませたエミスはそっぽを向いてしまったが、すぐに直ると意地悪そうな笑みを浮かべた。
「そんなに見たいなら、アウラ様もユイ様の配下になればいいんですよ~。きっと素晴らしい服を作ってくれますよ」
「――ありがたいお誘いですが、それは出来ません。妹の命をつなぐため、私が受けた数多くの恩を反故にしては道義にもとる」
表情が抜けた断言はアウラの本心なのだろう。
それでも、まだ十代半ばにも届いていないアウラが幾つもの大きな責任を負って奔走する様は、国家の在り方として歪に見えてしまう。
「アウラ、もし君に課せられるものが背負いきれないものだったとしたら、君はそれを降ろしてもいいんだよ。どうにもならなくなったら、僕のところに来ればいい。もちろん、妹さんと一緒にね」
「ありがとう、ユイは優しいですね。……ですが、きっと貴女たちを頼ることはありません。私が負っているものは、とても降ろせないほど大きなものですから。……行きましょう、好き勝手を許されているうちに妹を治す手立てを手に入れなければ」
悲しそうに笑ったのは一瞬、アウラは傍らの荷物を取って立ち上がった。
歩き出す背中へかけられる言葉などない。
一角聖獣の領域へと踏み込むまで、ただ小さな騎士の後ろ姿を追いかけた。
ユイの眷属となったエルフたち。その版図である『桜の要塞』とその周囲の森は広大で、一角聖獣の領域である湖を半ば囲うように広がっている。
だが縄張りとは強い者が定めるのが常であり、エルフと一角聖獣の関係もその多分に漏れない。湖を湛える窪地の縁、ぐるりと周囲をめぐる低い丘から内側が一角聖獣の領域だ。
「寒気が……」
先頭を歩いていたアウラが境界を越えてすぐ足を止めた。
「湖の冷気もあるのだろうけど、それ以上に魔力が高い密度で立ち込めているよ」
「肌を刺すほどの威圧感ですか。これがすべて一体の魔物のものなのだとしたら、確かに戦うのは無理ですね」
人間の領域で見かける魔物の最上位は魔王であるから、それ以上の魔物は想像しづらいのだろう。現物に触れる事で、魔王など所詮人間と互換性のあるイージーモードのボスであることを理解してもらいたい。
「いきなり襲って来やしないでしょうか」
「怖いなら帰りますか~?」
何の事情も知らずにこの魔力に当てられたら決心も揺らぐというものだ。
だがユイ達は知っている。これは単に、かの獣殿がはしゃいでいるだけに過ぎない。その突飛な価値観にゲンナリしたくなるものだが、おくびにも出さずにアウラの手を取った。
「ちゃんと守るから、行こう。ね?」
「なぜでしょう、普段は可愛いユイが時々かっこよく見えるのですが」
頬を赤らめたアウラの嘆息が耳を打つ。
何故かアウラの好感度が上がっているように見えなくもないが、ユイとしてはこの状況を利用してアウラを二重に騙す気にはなれない。アウラと手をつないだま黙ってなだらかな下りを降りていく。
「あっ、もう。私の方が騎士なのに! わかりましたから、男の人みたいに言って悪かったですから! ユイ、私に前へ出させてください!」
何かもう色々と勘違いしているアウラにいちいち訂正も出来ず、奮起した少女騎士に逆に手を引かれるまま、水辺へと誘われることとなった。