26話 根回し
早めの夕食は口少なに終わり、日が落ちてしばらくすると就寝の準備が整ってしまった。
エミスの《浄化》で身を清めたアウラは、寝床を張った枝が重量に耐えられないために鎧を脱いでいる。華奢な腕が掛布を抱きしめたままじいっと視線を向けてくる様は実に愛くるしい。共に包まれと目が訴えているが、その魅力的な誘いに乗るわけにはいかない。
今宵の不寝番をユイとエミスが請け負うにことになっている。
先手はエミスに任せろと雇い主のお達しであるが、ユイは待たせている眷属たちへ接触しなければならない。彼らが暴発するリスクを抑えるために不寝番の先手を引き受けると、事情を知っているはずのエミスですら愕然とした表情を浮かべた。
「知りませんっ! 一晩中外に居てくださいっ!」
掛布に包まってふて寝を始めたアウラは完全に機嫌を損ねたようだ。
エミスへ御機嫌取りをするよう視線で命じると、なぜかそっぽを向かれてしまう。目が笑っていない従者は背後の丸まった布に何事か囁きかけた。
意気揚々と掛布へ入っていくエミスに疎外感を感じ、そそくさと外へ出る。寝床の木の天辺へ逃げるように昇り、小さい満月を目で追いながら居心地の悪い時間を過ごす羽目になった。
アウラの魔力が睡眠状態に落ち着いたのを見計らって夜空へ舞い上がる。
時間をかけずに眷属たちと言葉を交わさねばならず、可能の限り急いで暗闇の樹海を飛ぶ。
寝床から十分に離れたところで、見張りのエルフと一角聖獣への根回しが終わったメールが合流していた。
「すまない。連れの人間が眠りにつくのに時間がかかった」
「……あれはユイ様が悪いですな」
「ユイ様が悪いッスね」
「乙女心をもてあそぶとかサイテーです」
《ゆーいちさいてー》
森の中での会話はエルフに筒抜けだったようだ。
眷属たちが、なぜ部外者であるはずのアウラの肩を持つのか。重要な案件を優先させたのに、全方位からの顰蹙は予想外だった。もはや言い訳は逆効果だと諦めるしかない。
「あとで必ず謝る。メール、一角聖獣は何と?」
「は。ユイ様方から仕掛けぬ限りは話し合いに終始して頂けるそうです。それに際して初対面を演じるのも請け負うと」
期待はしていたものの、上位者である湖の主にしては全面的とも言っていいほどこちらの要求を呑んでくれた。だが、もともと色欲一門とは無条件に何かを融通をし合う仲ではない。
「――条件を付けられた?」
「……は。人界の娘を背に乗せろと」
予想通りの答えに頭を抱えた。
一角聖獣は聖獣と名がつく通り、基本的に争いを好まない性質をしている。
気性の大人しい隣人を持てたのは『桜の要塞』にとって幸運だったが、一つだけ力を持つ人格者にあるまじき欲求を持っている。
事あるごとに、性交渉の経験がない女性を背に乗せたがるのだ。
こだわりがあるらしく、男や経験のある女性には基本塩対応だ。しかし、お眼鏡にかなえば、恋人がいようと容認できるらしい。そこに年齢や種族は関係ないらしく、淫魔で幼女のユイや尼僧の如く独り身を通したメールなども含まれる。
「もう見境ないな、あの御仁は」
「先ほど、不肖私めも騎乗させられました」
羞恥に肩を震わせるメールなどめったに見られるものではないが、触れずにおいてやらねばなるまい。
変質的な価値観を持つ御仁ではあるが、清々(すがすが)しいまでに拘りが一貫しているために逆に信用できるのもまた事実だ。
「メール、ご苦労だったね」
「恐れ多い事でございます」
労に報いるために低く手を持ち上げて招けば、たおやかなハイエルフは静々と進み出てユイの小さな身体を抱きしめてきた。
若草の香りとひと月離れている間にメールが蓄積していた魔力に包まれる。羨ましそうにしている周囲のエルフたちも手を招いて誘う。
「寝床へ乱れた姿で行くわけにはいかないから、もみくちゃにするのはやめてくれな」
「はっ、では失礼して……」
一番近くにいた男のエルフだけが近寄ってきて、そっと頬に触れた。
ユイの言葉を聞き入れてか、我先に手を伸ばすいつもの雰囲気ではない。
「ん、遠慮してるのか? 怪しまれないようにしたいだけでいつもみたいに同時に触れていいんだぞ?」
「ユイ様、我々があなた様の事で遠慮することなどありません」
悪だくみをするときの能面のような笑顔で女のエルフが告げる。
嫌な予感がして問いただそうとした直後、頬に触れていた男のエルフが一歩下がり、頭を下げると 同時に駆けだした。闇夜など歯牙にかけず、男は『桜の要塞』の方角へ姿を消す。
「あっ、まさか」
「ふふ、事はユイ様にかかわります。公平にせねば不和が生まれるというもの。なに、しかとお申し付けを守り素早く済ませましょうとも」
女エルフが左手を取り、その甲をやさしく撫でまわす。
メールへ視線で助けを求めても、するりと身を引いた忠臣は頭を下げて、視線を合わせようともしない。
「御身が大望を果たされ、再び我らの地へとお越しいただける日を、一日千秋お待ち申し上げております」
「うぅ……、苦労大儀。必ず戻ると約束する」
格式ばった物言いで身を案じられては無下に反発するわけにもいかず、相手を思いとどまらせる機会を逸してしまった。
面を上げたメールはやはりというか、悪戯が成功した子供のような顔でユイを見つめていた。
気風の良い長はすぐさま身を翻し、『桜の要塞』へと去っていく。
そちらから押し寄せる無数の影とにじり寄る者たちに圧倒されながらも、万事整えてくれた一の臣下に感謝をするより他になかった。
ユイが解放されたのは、きっちりエミスと見張りを交代する直前だった。
『桜の要塞』にいたころのような乱暴さはなかったが、隊列を組んで順繰りに身体へと触れてくる集団にはやはり精神が摩耗する。眷属から魔力を献上される儀式のはずが、なぜかこちらが捕食されたような気がするのにはどうしても納得がいかない。
目立たぬよう無言で見送るエルフたちに背を向け、へとへとになりながらも寝床のある場所へと辿り着く。エミスが寝床の昇降口をかき分けて外に出てくるのを確認して見張りを交代した。
「アウラ様から大分愚痴を聞きましたよ~。床を辞す時に起こしてしまいましたから、ちゃんとご機嫌撮ってくださいね」
「わかってるよ。言い訳はしない、……というかできないよね」
出ていくときは仕事と家庭の板挟みに合う夫状態だったが、帰ってきたときは浮気を疑われた旦那のそれになっていた。アウラの疑いそのものに疚しいところはないものの、社外秘を打ち明けるわけにはいかない苦しい立場だ。
「ただいま~……」
無言での帰宅は後ろめたく、平静を装うようにかすれた声が口を吐く。
寝床の中心の膨らみに反応はないが、魔力の状態が明らかに眠ってはいない。拒絶するように丸まって、内に入れまいとする掛布の端に手を掛けようとした瞬間、逆に突き出てきた手のひらに掴まれてユイの身体は宙を舞った。
鮮やかな手前。普段の魔力による飛行ではない、体術で制御された投げ技で、呆気なく布張りの床に組み伏せられる。
ギシと枝が撓る音。二人分の体重を受けて布地が沈み込み、身を翻す余地もない。
身体を支えるために突き出した掌を押さえつけられ、完全に褥へと縫い留められた。
「あっ」
自重で圧迫された肺から吸気が押し出されて、いやに湿った高音となる。ぐるりと巡った視界に、思わず瞑っていた瞼を恐る恐る開いた。
鼻が触れあうほど近くにあるアウラの顔。見開いた銀の瞳が間近でのぞき込んでいて、喉まで出かかった悲鳴を慌てて飲みこむ。
「あ、アウラ? そうか、眼鏡してないもんね。でももう少し離れてくれると……」
「いっぱい臭いがついています。……何? 草っぽい臭い」
今度こそ喉の奥からか細い悲鳴が絞り出される。組み伏せた力は緩めないまま、首筋や胸元を嗅ぎまわったアウラは、まさに恋人の浮気を疑っているかのようだ。
魔力を受領のための接触で付いたエルフたちの香りであろうが、当然彼らの存在を明かす事はできない。
「ちょ、ちょっと遠出して……、茂みとかで付いたかも……。魔物が全然いなくて、危ないことはして……、ごめん」
ユイの両手を封じたまま、身を起こしたアウラの両目に魔力が宿る。
また何らかの魔力視であろうが、情報を読み取られるわけにはいかず、《隠遁》の出力を上げて視線を弾く。同時に両手や組み敷かれている下半身の力を抜いて無抵抗を示し、その上で視線だけは逸らさずに少女騎士の銀の瞳を見据えた。
しばらく見つめあっているとアウラの瞳の魔力が消えて、押さえつけられていた両手も解放された。
「……わかっていますよ。誰しも秘密があるんだって」
横たわってきた小さな体を受け止める。力の篭っていない身体は思った以上に華奢で、壊れてしまいそうな不安にかられて腕の力を弱めた。
先ほどと立場が逆だ。疑われても後ろめたくないと胸を張ったユイに対して、アウラは我が儘に振る舞った己を恥じた。
「何も言えなくてごめん。……明日、きっと良くなるから。アウラが望んでた事が叶うから……」
「えっ?」
それ以上は何も話さず、思わず身を起こしたアウラを傍らに横たえた。
「休もう。これ以上は明日に障るよ」
「……はい」
疑問は尽きないだろうに、それでもアウラは従った。
ユイが何かしらの手を回してくれた事を信じてくれたのだろう。
目を閉じたその顔は安らかだった。
「おやすみ、アウラ」
応えは触れた指をわずかに握り返しただけで、すぐに静かな寝息が聞こえてきた。
夜目に映る年相応の寝顔を眺めながら明日の事を考える。
ああは言ったものの、一角聖獣がアウラの妹を助けてくれるとは限らない。
だが幸いにもというべきか、かの偏屈が好む条件にアウラは含まれている。強く長く生きている魔物は、それだけでこの世界の理に精通しているものだ。直接手は貸さずとも、何らかの方法を教えてもらえる可能性は高い。
明日の目論見を繰るうちに、頭の奥にちりちりと眠気が苛む感覚に襲ってきた。これ以上案じてももはや詮無いと、もう一度だけ、アウラの安らかな寝顔を瞳に焼き付ける。瞼を閉じて、規則正しい呼吸の音を子守唄がわりに、ユイの意識は沈んでいった。