22話 異世界の人間
川岸の岩に腰を掛け、手持無沙汰に尾を揺らして無聊を慰める。
もともと素足で水面に映る雲を散らしていたのだが、眼下が次第に赤に染まっていく様子に辟易し、膝を抱えて時が過ぎるのを待っていた。
旅立ちを見送られてから既に一週間。
旅そのものは快適であったが、度重なる魔物の襲撃で何度も足止めを受けていた。
「ユイ様~? ちゃんと見張りをしてくださいねぇ? あと尻尾で誘われると集中できないんですけど」
「みてるみてる。周囲に他の魔物の脅威なし。尻尾は……、あとで好きなだけ触っていいから解体急いで」
むせかえる血の臭い。
血抜きの成果が川へと流れ込み、もはやそこに足を漬ける気はなれなかった。
エミスの振るう大鉈が骨を断つ生々しい音をたてていて、耳をふさいで顔を背ける。周囲の警戒を魔力視に頼ることによってどうにかでどうにか見張りの面目を保てていた。
「うっひょ~! 言質とりましたからね! 今日もくっついたままユイ様の尻尾に巻かれて寝ますから!」
思わぬ褒美に高揚したエミスが、五割増しの速度で魔物の亡骸をバラしていく。
わかっている事だが、暴虐に振る舞う従来の魔王のごとき威厳は、ユイにはない。
血で卒倒するという異世界でデメリットしかない性分のおかげで、狩猟種族の主としてのユイの威信は地に落ちている。主人の弱みに付け込み嬉々として介添えする眷属たちの慰み物となることで、ユイはこの一年を乗り越えてきた。旅立った今、ユイの生存を預かるエミスに身売りまがいの譲歩で報いるしか己の不出来を補う術を持たないのだった。
「っしゃー、解体おわり! 《触手》空間にポイ! 《浄化》完了! ユ、イ、さまぁ! 頑張ったエミスめに喫ユイ様をさせてください! ほら、ほら!」
「ハ、ハグまでだよ」
「尻尾は?」
「……口に入れなければ許す」
従者は血濡れを瞬時に技能で清めると、餌を許された猛犬のように飛び掛かって来た。逃がさぬとばかりに抱きすくめ、尻尾に手を伸ばすふりをして二つのふくらみを押し付けているのはわざとに違いない。
魔性の柔らかさに浸っていたい誘惑を振り払い、エミスに尾を差し出す。
ユイの背後に回ったしなやかな手が、鱗に覆われた尾をやさしく撫でまわした。緩やかに揉み解す指が白尾を成す肉の感触を楽しむ。尻の付け根に伝わる甘い刺激に思わずくぐもった吐息を吐くと、従者は獲物を締め上げる蛇のように柔らかな身体を密着させてきた。
「うぅ、ちょっと進むとすぐ足止めを喰らうんだけど?」
「人間の形をしてれば食えると思ってるんですかね~。人間社会のお目こぼしで生きながらえている連中が、奥地に住まう我々に勝てるはずないんですけどね」
抱き合ったまましばらく、従者との抱擁を堪能してしまった。それを恥じて話題を振るも、真っ当な受け答えとは裏腹に抱き留める腕は緩まない。
「一体いつまで抱いているんだよ」
「ユイ様がいやだと仰るまで」
「いやじゃないけどもう終わり! 別の魔物が襲ってくる前に少しでも進もう」
「続きは寝るときに、ですね。……いふぁいれす」
低反発の拘束から抜けだして、調子に乗る従者の頬を軽くつねる。
そのまま感触を確かめたくなる衝動を押し殺して身を翻した。
「あぁん、待ってくださいよ」
媚びた声で制止する従者を放置して飛びあがる。
ゆっくりと下流へと飛翔していると、すぐさまエミスが追いついてきた。
「も~う、いけずなんですから! それじゃあ、先導しますねっ。ちゅっ♡」
満面の笑みを浮かべたまま、エミスは両手で投げキッスをして抜き去っていく。
過剰ではあるが、慕われているのは解っているのでどうしても憎めないのが泣き所だ。
軽くため息を吐いて、川縁の林を往くエミスの後ろを遅れないように追いかけた。
◇
「……ん、待ってください。あそこの地形、変です」
進行を再開してしばらく、先導していたエミスが立ち止まり身を伏せる。
それに倣ってユイも従者の隣へ着地し、その視線の先を窺った。
二人の道程は既に川の本流へと入っている。
水量を増した川幅は大きく広がり、渡河をするなら空を飛べるユイはともかく、身体能力に優れたエミスでも危険なほどだ。その川岸、本来なら岸辺に上がってすぐ樹海となるはずの場所が、ぽっかりと開けている。
「この辺りの魔物が森を拓くとは考えづらいね。人間の開拓村でもできたのかな」
「アパレイさんたちの報告では、最初の人間の集落はここよりもずっと下流にあるはずなんですが」
明らかな人為的異常を前に、エミスが視線を送ってきた。
その強い意志を込めた眼差しの意味は理解できる。このまま奥地への開拓を許せば、エルフたちが居住する痕跡を見つけられるかもしれない。
メールの原初技能である《隠遁》も、技能を使った探索では破られる可能性がある。ユイたちが先んじて異常を発見できたのは幸運でしかなく、これらの情報を即座に持ち帰るべきなのだ。
当然それはユイの旅の出鼻をくじかれることであり、その後の中断はおろか中止もあり得る。かと言って、目の前の異常を無視して旅を続ければ、何も知らぬエルフたちを危険にさらすかもしれない。
「大丈夫。もう少しこっそり調べてから一度『桜の要塞』へ帰ろう」
「――、はい。英断だと思います」
エルフの一族はこの新世界において、まぎれもなくユイが最後の頼みとする集団だ。
彼らの安全に対して僅かでも懸念があるならば、その恩恵にあずかる主人としてこれを見逃すわけにはゆかない。
「木を切り出した以上、どこか集めた場所があるはずだそこを探す」
「大木を楽に運ぶなら川に流すのが手っ取り早いです。きっと拠点を決めて、その上流で伐採を始めたんでしょう」
であるならば、探すべきは目の前の開けた場所より下流の川沿いだ。
当然、馬鹿正直に川沿いを移動したりなどしない。
人間たちを鉢合わせしないよう、伐採場や川岸を遠く森の中から望むように回り込む。
「このまま一度川から離れよう」
「――! 待ってください、人間ですっ」
エミスの警告に、起こしかけた身を再び伏せる。
ユイの肉眼は生前よりよほど視力が良いが木々に隠れたその先は見通せない。魔の視覚を併用しても、見つかるのは森の中に潜む魔物の気配だけだった。
「僕には見えないから、きっと魔力は持っていない」
「はい。身体に魔物の特徴もありません。大人が一人、……と子供が二人? 子連れで伐採なんて、駐屯地の類ではなくて本当に開拓村かもしれませんね」
エミスの情報から推測しているうちに、人間たちが川縁を曲がって姿を現した。
倒木に身をひそめながら、三人の様子を観察する。
一人は大人、筋骨隆々の大男だ。くすんだ金髪につぎはぎだらけの服。しかし身につけた道具や肩に担いだ鉞はよく手入れがされていて、熟練者の様相が見て取れる。
子どものうち一人は、大男と同じ髪の色をした少年で、おそらく息子なのだろう。見習いなのか、身体に帯びている道具も男とほぼ変わらない。
もう一人の子供は、少年よりもわずかに幼い少女だった。薪を集めるための背負子を背負っており、二人にしきりに話しかけている。編んでいるお下げ髪が濃い茶色なので母親似なのか、あるいは別の家庭の子供なのかもしれない。
「どう見ても役割分担を受けた格好だね。他の人員が別の仕事をしてないと、樹海で暮らせるわけがない」
「やはり下流に集落があるんでしょうね。見つからないように回り込みましょう」
三人は和気あいあいとした様子で、拓いた土手に荷物を置いて仕事にとりかかろうとしている。注意を向けられる前にそっと身を引こうとした直後、僅かな地響きを感じ取った。
ユイたちは、この地響きを知っている。
即座にその場を飛びのくと最寄りの樹木へ、飛翔と跳躍の異なる手段で登り枝葉へと身を隠す。
「鎧猪……!」
「ユイ様、あちらです!」
『桜の要塞』周辺では平均的な魔物。
眷属となったエルフたちによって積極的に狩られる存在となったが、人間社会に近いこの辺りでは手を焼く存在だろう。厄介なのは甲殻による防御力に任せた突進だ。並みの攻撃力ではびくともせず、突進を躱しながら目や足の関節を的確に攻撃しなくては倒せない。樹上へ逃げられる色欲一門は遠くから矢を射ることで比較的簡単に狩ることができるが、地面から離れられない人間や他の魔物にとって、並みの障害では足止めにもならない突進は脅威だ。
伐採場の方から悲鳴が上がる。
鎧猪が仕掛けたのは、ユイたちにではなかった。
そもそも樹海のここよりも奥で《隠遁》生活をしているユイたちは、そうそう先手を取られるようなヘマはしない。鎧猪に見とがめられたのは、開けた地形へ不用意に身を晒した人間たちだけ。
「よかった、こっちには気づいてませんね。ユイ様、今のうちに……、ユイ様?」
――こちらが狙われなかったのは僥倖だ。
もちろん狙われたところで、二人のうち何方か一方でもアレを撃退するのは造作もない。だが、逃げるにしろ倒すにしろ、人間たちに自分たちの存在を知られることは避けられなかっただろう。
森から現れた二人の手練れ。その意味するところは、どうしてもその情報を得た者達の間で議論となる。
まかり間違っても、色欲一門が森の中に拠点を構えている事を悟られてはならない。
――故に、こちらが狙われなかったのは僥倖だ。
このまま気取られぬようにそっと身を引き、森の中に溶け込む。
あると思しき開拓村は鎧猪への警戒を強めるだろうが、ユイたちならそれらを掻い潜って、気取られることなく相手の拠点を観察できる。
そのためにも、――ここであの三人を見殺しにするのが正解だ。
そう、エルフ種の主人としてならば。
「ユイ様、行きましょ。見ていて気持ちいいものじゃないですよ」
従者の言葉に、思考が晴れる。
子どもを見殺しにしたくはない。けれど配下を危険には晒せない。
ユイにはどうすべきかの答えは出せなかったが、どう在りたかったかの答えは最初から持っていた。エミスの言葉はそれを気づかせてくれたのだ。
――往々にして魔王が振る舞う愚挙に倣わない。また、エルフに奉仕するだけの機械にも成り下がらない。
困惑したようなエミスに向かって、済まなそうに笑みを返す。
「止めたら撃て」
「ユイ様!?」
制止の声を振り切って枝から飛び降りる。幹の中ほどまで落下し、視線を確保したところで翼に魔力を通して滞空。開けた視界で確認すると、鎧猪が振り下ろされた鉞ごと男を弾き飛ばし、腰を抜かした少女に襲い掛かっていた。
超重量が少女を押し潰すまで数秒。
エミスの《弓術》を乗せた射撃でも、ここに至ってはどこに当たろうと突進の勢いまでは殺せない。
少女が諦めて目を瞑るのと、ユイが腕を掲げるのは同時だった。
「――《積層》」
翳した掌の先、少女の身体を光が包み、多角形の平面が多層を成して魔物との間を遮る。
顕現した光の平面、その一枚一枚は薄く硝子の様に透き通っていた。
ともすれば冬の水辺に張った薄氷のように見えなくもない。事実、鎧猪にとっての既知もその程度だったのだろう。自慢の突進をもってすれば容易く突破できると踏んでか、速度を緩めることなく重量を乗せて突撃した。
パパパ――。
超重の猪突と《積層》が交錯した瞬間、やけに軽い破砕音が三つ。
同時に生き物がひしゃげる不快な音が響き、完全に勢いを殺された鎧猪が力なく崩れ落ちた。
続いて頭上に鳴弦。
風切り音を纏った矢が、二十重の枝葉と、そしてひび割れた甲殻の隙間を射抜いて魔物の身体に突き立つ。鎧猪は断末魔もあげられずに血を吐き、小さく震えて事切れた。
魔物に宿る魔力の消失を確認して《積層》を解除する。
目の前で起こったことが信じられない様子の少女へと少年が駆け寄り、震える身体をそっと抱いた。
子どもたちは完全に気を抜いていたが、大人の男はそうもいかない。鎧猪にはねのけられて痛む体を引きずりながら、矢の飛んできた射線を遮るように子供たちの前に立ちはだかった。
「どなたか判らないが感謝する! どうか姿を現してほしい!」
荒い息づかいを交えながら声を張り上げる男に敵意は感じられない。
逃げるでもなく、警戒と感謝の入り混じった様子でユイたちの出方を待っていた。
《積層》の展開と同時に着地して身を潜めたために姿は見られていないはずだ。だが、既に用心されている状態から気取られずにこの場から離れる手段をユイはもたない。人間社会に溶け込むならば、手を出した以上身の証を立てねば疑念を招いてしまうだろう。
観念してその場から立ち上がる。
茂みをかき分けて、三人の前に進み出た。
「危ないところでした。大事ありませんか?」
「こ、子供……? ――ああ、失礼。助かったよ。感謝する」
鎧猪と渡り合うほどの猛者が、少女の姿をしていた事は意外だったのだろう。
だが、この世界の人間は皆、元眷属の子孫なのだから、元となった魔物や眷属としての寿命によっ て、同じ見た目でも実年齢や肉体が持つポテンシャルは大きく異なる。
ユイが幼く見えても鎧猪を下す実力を持っていることに不思議はない。
むしろ、見た目の年齢と実力がおおむね比例するなどと言う先入観は、代の下った人間に重きを置く聖櫃教の教えに傾向している証である。
その不穏を察したのか、背後でエミスの魔力が揺らいだ。
暴発させまいと後ろ手に招くと、樹上から跳んだ従者がユイの隣に着地する。
「気にしないでください。人間として当然のことです。――僕はユイ。こちらは旅の連れでエミスフェールです」
「……エミスフェール。エミスでいいです」
仏頂面のエミスに、失言をあてこすられた男が気まずそうに笑った。