17話 エミスフェール
頭を押さえて蹲る元弓ゴブリンの傍らに小さなゴブリンがいた。
「いてぇっす……」
「まったく、お前のせっかちはなおらんな!」
メールにしては珍しく憤慨している。
折角魔王分の摂取にこぎつけたところを無遠慮に邪魔立てされては、その怒りも尤もであろう。欲望全開なムシウとは違い、慎ましいメールにとって、自然な流れで雰囲気を作る手順こそが肝要なのだ。
悔しがるメールには後で埋め合わせをする事にして、いまは主賓を放置するわけにはいかない。部屋の入り口から、こっそりとこちらを見ている小さなゴブリンへとゆっくりと近づく。
「君がアルクの妹かい?」
問いかけと同時に視線が合うと、ゴブリンは小さな体をビクリと震わせ、戸口の陰に隠れてしまった。やや距離を空けた上でなるべく優しく語りかけたつもりだったが、ずいぶんと人見知りをする性格のようだ。
「あー、そいつ、別に魔王サマを嫌ってるわけじゃねぇんす。俺やオヤジ達以外には皆そんな感じなんすよ」
不貞腐れてしまったメールから逃げて来たアルクが戸口の向こうへ消える。二三言葉が交わされた後、戻って来たアルクの腕に抱かれる妹コブリンは、兄の袖をすっぽりとかぶって頭を隠してしまっていた。
「怒らねぇでやってくだせぇ。こいつは小さくて体もそう強くはねぇんです。若けぇやつらで見合わせたときも気に掛けるやつがいながっ、いだだだ! わがった、噛みつくなって! こいつ自身、所帯に興味がねぇみてぇでしてね。集落の作業は普通に参加するんですが、それ以上は皆と関わらねんですわ」
兄の説明を聞いてから、メールを伺う。
聡く、集落全体をよく把握する長は、ユイに向かって頷いて見せた。
アルクの妹にとって、ゴブリンの集落は生存が許されるギリギリの環境だったのだろう。種族として底辺のゴブリンが、集団をつくるのは互助のためだ。そこにおいては、力のない者、協調しないものから落伍していく。厳しいようだが、そもそも集団となったところで余裕などない。全体が生き残るために、残念ながら一部の犠牲は免れないはずだ。
そして集落を率いるのは上位のゴブリンであったメールだ。
かつてムシウをユイの餌にと差し向けたように、時にメールは冷酷ともとれる判断を迷いなく下す。クレバーな長がアルクの妹を切り捨てなかったのは、たまたまその判断を必要とする場面がなかっただけだろう。逆に言えば、僅かな余裕の範囲においては多様な在り方を許容するメールの統治は、そこに込められた長としての愛を強く感じさせるものでもある。
ならば、とユイはアルクの組んだ腕に顔を近づける。
ここは統率の師の方針を引き継ぎ、新生するこの恵まれた集落において、この変わり者をこそ、良しとするべきだ。
袖をかぶったまま押し黙る妹ゴブリンへ、できうる限り優しく問いかけた。
「君、僕の側付きにならないかい?」
アルクの袖がビクリと震える。
そろそろと顔を出してきた妹ゴブリンは、ユイと視線が合うとまたすぐに袖を被ってしまった。それでも、表情こそわからないが、袖口をつかむ小さな腕は力んでいない。
無視しているわけでも、拒絶しているわけでもなく、今、必死に思考を巡らせ、考えをまとめているのが見て取れる。
――しばらくして、ゆっくりと袖口が捲られて、つぶらな瞳がユイを見返してきた。
ゴブリンがよく見せる、意志を込めた視線。
「――ユイ様の側付きになったら、雄とつがいにならなくてもいい?」
思わず反応したアルクに揺られても、妹ゴブリンは真剣な眼差しをそらさなかった。
アルクが傍らのムシウに視線を送る。
妹ゴブリンとの視線を外さないまま、背後へと伸ばした尾の先端でメールに触れた。メールが触れ返してきたことにより、《翻訳》によって意思疎通が成立した。
「――ああ、構わない。いくつかこちらかも条件を出すけど、それが受け入れられれば君が誰かと結婚する必要はない」
ハッキリと言い聞かせると、妹ゴブリンは初お目見えからようやく笑顔を浮かべた。
安堵するその表情を見て、ユイも驚嘆を隠せない。
何せ一見弱々しいこの小さな娘は、今この瞬間まで男とつがう事への忌避感を隠し通して見せたのだ。
理由はどうあれ、ゴブリンの集落で人口維持に協力できない個体は、間引く順番の上位に挙げられてしまうだろう。そんなメールの厳格さを理解したうえで、この小さな知恵者は“人付き合いが苦手な変わり者”という慈悲がかけられるギリギリの妥協点を装い続けた。
「謀られたわ。昔ならいざ知らず、ユイ様に連なり余裕の出た今となっては、子を残さぬことを直ちに排斥の原因とするわけにはゆかぬ」
妹ゴブリンはアルクの腕の中で、目玉をくりくりと動かしておどけて見せた。
得意げな表情が兄のそれとよく似ている。
「ま、まぁまぁ。正直アレを預けるなら所帯を持ちたがらない者の方が向いていると思うし……」
「故に今更罰せられないのが業腹ですな。うむむ……、兄妹そろって手を焼かせてくれる」
いそいそと兄の衣服を伝って床に降りた妹ゴブリンは、もはや物おじせずにユイを見上げている。厳格な長に命を危ぶまれる可能性がなくなり、人見知りの仮面は脱ぎ去っていた。
魔王であるユイから言質を取った以上、メールにその決定を覆すことはできない。
だが、それは同時に、妹ゴブリンの責任をユイが預かることでもある。
主義と命を両取りするために集落の方針を掻い潜った型破りを見事御して、エルフたちの役に立てるようメールに示して見せねばならない。
「君の眷属化に際し、一覧から選ぶ技能はこちらで指定させてもらう」
妹ゴブリンは即座に頷いた。
折角、メールを交渉の席から除外できたのだ。ここで魔王の機嫌を損ねてご破算にすることはあり得ない。
「君に選んでもらいたい技能は、……と。ムシウ、アルク、悪いが二人とも席を外してくれ」
「――かしこまりました」
主の腹が絡まないかぎり有能なムシウは、組織における機密事項の何たるかを即座に理解してくれた。聞きたがりのアルクがごねかけたところをすかさず腕をつかんで共に退室していった。
妹ゴブリンに預けるのは、当然《触手》の技能だ。
公言できない技能だからこそ、所有者には同時に守秘義務を与えたうえで手元に置くのであって、その効果は勿論、名称すら知る人数は少ないほうがいい。
秘密の片棒を担げると気づいたか、破天荒な妹ゴブリンは目を輝かせている。どんな技能を授けてもらえるのかと心躍らせているが、言ってしまえば彼女にしてもらうのはサチの仕出かしたことの尻拭いだ。
女の子にとっては嫌悪の対象となる技能を押し付けることになり、実質原初技能を持たない眷属になってもらうと言っても過言ではない。
「あー……、期待してもらっているところ悪いんだけど、君に受け持ってもらいたい技能は……、《触手》っていうんだ」
「――なんて?」
妹ゴブリンのつぶらな瞳が数瞬宙をさまようと、いぶかし気に問いただしてきた。
《翻訳》でこちらの意図は正確に伝わったはずだが、それでも当然であろう。
眷属化とはゴブリンにとっての希望だ。
強靭な肉体と絶大な魔力を手に入れて魔物界隈の底辺から脱することができる。
加えて付属するたった一つの原初技能は存命する魔王に仕える者としての誇りでもある。しかし、それが醜悪極る肉バ○ブを生み出すものと聞いては非道な仕打ちと謗られても否定できない。
だが、結局はこの技能は誰かに受け持ってもらう必要がある。
魔王ユイの身から出た錆ではあるのだが、今後色欲に連なる者たちの安寧を確立するためにも、偽りとはいえ清純派を気取らねばならないのだ。
「突然のことで混乱していると思う。冷遇されたと不満もあるだろう。だが側において決して無下にしないと――」
「いぃよっしゃあああああああああああああぁっ!!」
項垂れて震える身を案じた、言い訳がましい言葉の羅列は、突如張り上げられた雄叫びに遮られた。
ユイの未成熟な身体のさらに半分もない妹の、どこからそんな音量が出たのかと疑わんばかりの絶叫だ。
何事かと部屋の扉を開けはなったムシウたちを再び追い出し、喜悦に満ちた表情で拳を握る妹ゴブリンに向き直った。
「……よし、とは?」
「いや、ヨシッですよ! 眷属にしていただけて、その上ユイ様のような美しい方のお側付きに取り立ててもらえて、なおかつ触手チ○○まで頂けるなんて!」
最早最初の気弱キャラの面影はなく、妹ゴブリンは捲し立てる。
ムシウの例や集落の様子見ても、ゴブリンは元来ゴブリン顔に美しさを見出すのが常だ。しかし、彼女はゴブリンでありながら、ユイやエルフたちのような顔立ちを好むらしい。必然的に己を含めたゴブリンの顔は醜いものに映るようで、当然雄ゴブリンと番になるなど考えられるはずもない。
彼女にとって《触手》の技能による眷属化とは、理想の容姿に成れた上で美しい主人に仕えられ、欲望を果たすための手管も手に入れられるという、もろ手を挙げて宜うべき提案だったのだ。
「メール」
「はっ」
ゴブリンでありながら同胞とは異質な美的感覚を持っていた妹ゴブリンに対し、憐憫の余地はあると思う。だがそれと、眷属としての力を得た上で、欲望に任せて奔放に振る舞ってよいかと言えば当然否である。
「エルフの長としてこの娘に制約を課すことを許す」
「相手の同意なく、またその同意を第三者に認められることなく純潔を奪った場合は死罪とする」
「ヒェッ……」
先ほどの兄への百倍はあろう圧に当てられ、妹ゴブリンが竦みあがった。
――貞操は命と釣りあうのか。
異世界においてユイの前世の価値観は必ずしも通用しない。
しかし、そもそもにおいて色欲の魔王であるユイが貞操を死守したのである。ならばそれをみだりに軽んじることは、色欲一門の理念に反する行為と解釈できる。文明社会を築くうえで、守るべき秩序の一環として強姦を禁じるのは当然だ。その罰の範疇として死罪を含ませるのは、事の重大さを知らしめるために必要であろう。
「エルフの中から恥を晒すわけにはまいりませぬ。ゴブリンの頃より余裕が出たのであれば、その余裕を浪費せぬよう自戒すべきでございます。……ユイ様も何なりと申し付けたほうがよいかと」
「うーん……、一番キツいのはメールが言ってくれたからなぁ。じゃあ、君が得る原初技能は他言無用とさせてもらう。技能で出した触手を他人の目に触れさせることも禁止だ」
ある程度の制限はかけるが、使用そのものは禁止しない。
そもそも悪用すれば取り返しがつかないのはどんな技能も同じである。欲求は無くせないのだから、適切に制御する。各々がそのように振る舞えば、きっと集落全体の発展に寄与するはずだ。
――欲求と節度を均衡させている者を例に挙げようとしたところ、主の腹に異様な執着を見せるイケメンが脳裏にチラついて、背筋が粟立った。
「あのレベルがもう一人増えるのか……」
「ほほ、技能の取得はユイ様の落ち度ですぞ。そこが落としどころでございましょう」
そのように言われては反論ができない。結局のところ、欲望をユイ自身に向けさせた上で、全力で抗うしかないのだ。ここまで来ると、色欲の銘を受けた宿命なのかとも思ってしまう。
「というわけで、この二点、弁えてもらうがよいかな?」
「……はい。無理やりヤったら命はないということと、頂く技能は秘密にするということですね?」
ユイが頷くと、妹ゴブリンも跪き恭順の意を示した。
メールと視線を交わして頷きあう。
大事の決着から出そうになるため息を押し殺して、ムシウたちを呼び戻させた。
善は急いだほうがよい。本日の眷属化に割り込ませるため、その打ち合わせをしなくてはならない。通例に従い、妹ゴブリンはユイ付きの重要な人物となるため、眷属化はメールの大樹を囲う大木の一つを使用した。
その日、ユイの最たる近習、エミスフェールが誕生したのだった。