幕間1 聖櫃教
聖騎士団からの渡り廊下を抜け、大聖堂への扉を開く。
姿勢を正した衛士へ軽く目礼をすると、老練の騎士は礼装を翻して足早に歩を進めた。
礼拝者用の正門から祭壇まで敷かれた絨毯を横切って、大伽藍の反対を目指す。
騎士団側の扉とは打って変わって警備が厳重な、地下への階段の前で足を止めた。
「教皇デセオ・アンビシオン猊下より召致を受けている。通行の許可をもらいたい」
「三頂騎士、ウーム様! 伺っております! どうぞお通りください!」
六人の衛士たちが道を開け、矍鑠たる老騎士は確かな足取りで地下への入り口をくぐった。
騎士が十人以上横に並べるほど広い階段は、長く緩い勾配で続いている。
途中何度も直角に折れ曲がる通路が、地上の大聖堂を囲うようにループしながら下降していくのだ。
すれ違う騎士たちはウームが通りかかるたびに姿勢を正して敬礼のまま見送った。
階段を下り終わり、礼拝堂の真下までくると、地上の祭壇の方角に向かって大回廊が伸びている。そこから更にいくつかの区画を超えた先に、聖櫃教の中枢とも呼ぶべき地下祭壇があるのだが、呼び出されているそこまでたどり着くのには、あまりにも距離が長い。
ウームは以前、教皇デセオに対し、もっと上層へ聖櫃を移設するよう要請したが却下された。信徒たちの技能の更新を手軽にし、教国から与えられる恩恵を身近なものにしてこそ信仰が得られると説いたものの、他の国家や魔王などから聖櫃を防衛するために、現在の安置場所は譲れないとのことだった。
ウームは教皇の用心深さを嫌ってはいない。
自らの責任に対して警戒を怠らないことは、軍の一翼を預かるウームとしても大いに共感できる。しかし、聖櫃教と周辺国の関係は現在実に良好であり、魔王に至ってはここ数十年現れていない。遠方の暴食都市ガシュトロノモなどは積極的に民衆への技能付与および更新を行っており、目を見張るほどの発展と戦力の増強を果たしている。教会も聖櫃の扱いを、儀式色よりも実利へと色を強めるべきではないか、と考えてしまうのだ。
大回廊を抜け、その先の研究区も後にし、王器陵を降りた先にその扉はあった。
「ずいぶんとお待ちしましたぞ、ウーム殿」
「それがしの持ち場は地上にありましてな。研究区から目と鼻の先の貴殿と同様に考えないで頂かこうか、ハス・アプレノン卿」
扉の前に痩躯の男が立っていた。
目元にクマが浮き出たくぼんだ眼窩に、口元には軽薄な笑みをたたえている。
ハスはウームと同じく三頂騎士の称号を得てはいる。しかし、実質研究職にあり技能を使わねば聖騎士団の見習いにも勝てないだろう。申し訳程度の短剣を佩いて騎士を名乗るこの男が、ウームはあまり好きではなかった。
肩をすくめて扉の片側に立つハスに倣い、ウームももう片側に立つ。
重く閉じられた扉が徐々に開き始める。
この扉がどういった原理で動いているかをウームは知らない。
おそらく聖櫃が何らかの作用を及ぼして開閉しているのだろうが、信徒を守る剣である自分にはどうでもいいことだった。
ただ、この扉の開閉において、三頂騎士は全員そろわないと解放しない決まりとなっている。
操作自体は聖櫃の管理者であるデセオが可能であるから、たんに最高戦力を単騎で招き入れることによる謀反を恐れてのことだろう。ウームもハスも騎士道や研究に没頭する方が性に合っているため煩わしい教皇職などごめん被るのだが、なかなかにデセオの猜疑心は深い。
二人で祭壇の間へと進入し、それぞれ床に描かれた三角形の頂点で片膝を折る。
「ウーム、ハス、面をあげよ」
壇上より、小量の、しかし良く通る声が掛けられた。
名を呼ばれてようやく視界に入れたその人物こそ、二人を聖櫃の間へと呼び出した張本人、教皇デセオであった。
小柄な体躯に柔和な表情、白い礼装こそ立派だが好々爺に見えて親しみやすい。だが、当然それは見せかけで計算高い知恵者であることを、ウームは知っている。
そして祭壇の上、デセオの背後で輝いている掌サイズの立方体は聖櫃教の根幹。かつて傲慢の魔王より摘出され、聖櫃と名付けられたキューブ・スペルビアだ。何万もの信徒の生活を技能で支え、何百万もの魔物のキューブを融合させたアドラシオン教国の中枢。聖櫃の管理を行うということは、これに連なる何万もの信徒の命を握るのと同義である。野心を抱くには恐れ多く、猜疑を抱きながらもこれを成し遂げているデセオに、ウームは敬服していた。
「多忙な身であるところ、よくぞ召致に応じてくれた。内々にそなたたちに知らせておかねばならぬ事ができたのでな」
言われてみて、この聖櫃の間に教皇と二人の騎士しかいないことに気づく。
普段は神官なり文官なりが常駐しているというのに、この処置は異例である。
ハスに視線を送っても、困惑した様子しか見てとれない。
「猊下、何やらただならぬ事情がおありとお見受けします。一体如何様な事態が起きたのですか?」
「うむ、うむ……! 儂の代で斯様な幸運に恵まれるとは、我が在位における絶頂はまだ訪れていなかった!」
ますます困惑する騎士たちを尻目に、教皇は喜びを噛みしめている。
――よもやついに物忘れの気が出てしまったのか。
当然口に出しはしなかったが、それほどまでに、二人にはまったく思い当たる節が無かったのだ。
ただただ首をひねる騎士たちを満足そうに眺めると、教皇は二人の背後を指さした。
「久方ぶりに、三つの頂点が揃う」
聖櫃の間に描かれた三角形。
そのうち二つの頂点にウームとハスが座し、一辺を描いている。
そして二人の背後にある三つ目の頂点、これを合わせて三頂騎士と呼ぶのだが、そこは久しく空位であった。
二人はしばらくデセオの指さす三つ目の頂点を眺めていたが、跳び上がるように顔を見合わせて教皇へと問い詰めた。
「ま、まさか……!」
「新しい魔王が誕生したのですか!?」
最高幹部たちが大慌てで騒ぎ立てる様をしたり顔で見届けた教皇は、鷹揚に頷いた。
「その通りじゃ! 先だって、聖櫃が魔王の進化に伴う魔力の波動を検知した。反応から見て、その時点での居場所は我らが領内で間違いあるまい。疾く撃ち滅ぼし、魔王核を回収したい! 原初技能の復元が適えば四角騎士にも五角騎士にもできる! 当然、聖櫃に莫大な魔力も供給できる! 魔王器は骨董品にしかならんが、まぁ討伐の象徴くらいにはなるじゃろう。死体は役にたたんから捨ておくとして、眷属どもはわが国の新しい信徒にしてやってもいい!」
「いえいえ、とんでもございませんぞ猊下! 遺体はこのハスめにお預けください。必ずや研究し尽くしてごらんに入れましょう! 魔王に捨てるところなし、ですぞ!」
権力欲と研究欲にはしゃぎ立てる二人を横目に、ウームは冷静に思考を巡らせていた。
まずもって、毛皮を得るには獣を狩ることが大前提である。
既に一段階進化をしているとすれば、これ以上力を付ける前に討たなければ、二大迷宮のように手が出せないほどの脅威となる。
「猊下。昨今までの空席は憤怒、嫉妬、色欲でございました。此度の魔王がこのいずれかであれば、定例どおり生まれた直後周囲に甚大な被害を及ぼしたはずです。その報告がないままに一段階目の進化にこぎつけたとするならば――」
「ふむ、近傍の未踏の地……、無辺樹海のいずこかであろうな。比較的人の領域に近い場所である可能性が高いのう」
魔王は冠する二つ名に則した行動を好む。
とりわけ先述の三種は他者を嬲る傾向にあり、発見が容易い割に成長が遅い。
長い魔王との戦いの歴史の中で、この三者の入れ替わりが激しい理由はそのためだ。
「出来れば見分けるのが容易な色欲であってほしいの。魔王の姿は千差万別じゃが、その中で色欲だけは姿形が決まっておる」
「ワタクシとしては、色欲は遠慮したいですなぁ。巨大な醜女など好んで切り刻みたくなどありませんからな」
三種のなかでは色欲がもっとも兵に被害が出やすい。
兵を率いる立場にあるウームとしても、出来れば色欲でない方がありがたいのだが、どの名を冠していようと魔王を討つことに変わりはない。実働を担う者として聖騎士の立場を弱めるような発言をするつもりはなかった。
「して、三人目の選定はいかがなさるおつもりか。魔王が此度の進化まで何年掛けたかはわかりかねますが、次の進化まで十年二十年と放置はできますまい」
「ホホ、実もう決めておる。ウームよ、そなたのもとに適任者がおるじゃろう」
一瞬、誰を指しているかがわからなかった。
騎士を名乗らせる以上、当然戦闘能力に特化したものが好ましい。
その観点から言えば、特に最精鋭であるウームの部隊が注目されてもおかしくはない。
しかし当然魔王の出現など寝耳に水で、三人目に足るとデセオの眼鏡にかなう人材などいないはずだが。
「……まさか。なりませんぞ! あの者は我が後継として育てている騎士です! それを――」
「なんとまぁ! ウーム殿が育て上げた騎士ならば《断罪》の騎士として申し分ありませんな!」
横から抗議を遮るように口を出してきたハスをにらみつけるが、こちらの怒りなどどこ吹く風と、飄々とした態度を続けている。
ハスの魂胆など解りきっている。
ウームの聖騎士団とハスの研究部はお世辞にも仲が良いとは言えない。
信徒に対して武力の象徴として見栄えのいい聖騎士団に対して、裏方の研究部はどうしても活躍が人の目にとまりづらいのだ。内情をよく知るウームにとっては研究部の貢献にも頭が下がる思いでいるのだが、上層部以外からの評価において研究部は聖騎士団に一歩譲る。
――だが、ここでもし、聖騎士団の力を殺ぐことができればどうか。
共に教国を支える柱としてウームは、己が統括する聖騎士団を盤石なものとして万事に備えていたのだ。
その一つが後継者である。
いまはまだ、騎士団の誰と手合わせしても負けることはないウームも、十年後は違う。
老いは誰にでも訪れるものだから、信頼のおける後継者を用意しておくのもまた、集団を預かるものとしての責務である。
事実、数年後にはウームの後継者は三頂騎士を継ぐのに申し分のない実力を持っているだろう。仮に《断罪》の騎士を襲名しても、教国の象徴として十全の働きをするに違いない。だが、後継者を失ったウームの派閥は確実に弱体する。
ハスは相対的に優位に立つため、政敵の栄転を勧めているのだ。
「ウームよ、数年のうちに《断罪》を名乗るに相応しい者が他におるのか?」
魔王は討てるうちに討たなくてはならない。
二大迷宮の主たちのように、原初技能のレベルが一定を超えれば、もはや人には対処の仕様が無くなる。ゆえに、たとえ聖騎士団が弱体化しようと、たとえ《断罪》の騎士が名誉と美談にまみれて使い捨てになろうと、相応しいものがその任に就かなくてはならない。
(せめて、私があと十年若ければ……)
――今の自分の地位をさっさと後継に譲り、《断罪》を引っ提げて捨て駒となることもできただろう。だが、今のウームはまだ負けぬとはいえ全盛期には程遠い。
魔王の討伐は、それを確実に成し得る者が成さねばならない。
見栄を張ってできませんでした、では許されないのだ。
全ては、間が悪かった。
「……おりませぬ。本人へは私から打ち明ければよろしいですか?」
「いや、まだ魔王の誕生をどこにも悟られるわけにはゆかぬ。特にガシュトロノモの連中にはな。幸い魔王が無辺樹海にいるならば、進化の波動はかの地へと届いてはおるまい。怠惰迷宮には届いておるかもしれぬが、あそこの魔王は動かないことで有名じゃ。とにもかくにもまずは情報を集める。そなたの後継へはいずれここに来てもらうことになるじゃろう。この件はこの場以外では口外するでないぞ。よいな」
「はっ!」
「ハハーッ!」
デセオが聖櫃を操作し、背後の大扉が開く。
外で待機していた官吏たちが入場してくる。
もはやここでも、魔王の件を話すわけにはいかなくなった。
官吏とのやり取りを始めたデセオに一礼をし、踵を返す。
すでにハスへの怒りは失せていた。
ただ、いずれ必ず訪れる喪失への虚無感と、身を投げ出さなくてはならない愛弟子への哀愁だけが、胸中に渦巻いていた。
ぶっちゃけ人間の悪だくみを書いているときが一番筆がノッていました