10話 絆
周囲から合流してきたゴブリンたちを加え、集落への道を歩く。
翼を広げ、魔力で滞空しながら長の後ろを付いていくと、ゴブリンたちは興味津々でこちらを見上げてくる。後ろにピタリと付いているムシウを警戒して直接触れては来ないものの、見やすい位置を争うように押し合っている。
ゴブリンたちにとって、自分たち以外の種族は、獲物か勝ち目のない強敵だ。
仕留めることも逃げることもしない異種族というものが珍しいのだろう。
――ものの数分も進むと視界が大きく開けて集落が見えてきた。
言うのは失礼だが、木々の根元にあばら家が建っている。
細い枝を一列に並べてどうにか壁という体裁をとっているが、隙間から家屋の中が丸見えだ。屋根をかろうじて枝葉で覆っているような状況で、ゴブリンたちの木材加工技術はお世辞にも高いとは言えない。
大きな嵐でも来れば吹き飛ぶであろう家々を縫って中央の広間に案内された。
「皆ご苦労! 客人の邪魔とならないよう作業に戻れ!」
長が連れ帰ったゴブリンたちに指示を出す。
だが、簡易的な腰掛が用意され、長と差し向って座り、対談を始めようという段になっても、ゴブリンたちは誰一人としてその場を離れない。
それどころか皆押し合い圧し合いとにかく見えやすい位置で事の推移を見守ろうとしている。
これまでゴブリンたちが集落に客人を迎えたことなどまずあるまい。好奇心からこのレアイベントを見逃すまいと躍起なのだ。
もはや何を言っても無駄なのだと長はあきらめ顔で頭を下げた。
「集落の者たちが申し訳ない。手や口は出させませぬので見物はご容赦くだされ」
「好意的に迎え入れて頂けているようで幸いです。どうかそのままで」
ユイが公開での対話を了承するとゴブリンたちから歓声があがる。
上位種であるがゆえにどうにか身につけたであろう長の言葉と比べ、《翻訳》を介したユイの言葉は、より明瞭にゴブリンたちに伝わっているはずだ。
あくまで対等に、どちらかというと長の顔を立てて施してもらう体裁をとったのに、ユイの意が長を介さずゴブリンたちを一喜一憂させては逆に面目をつぶしてしまう。
「長よ、対話を円滑に行うために、《翻訳》を受け取っていただけないだろうか。此度ご教授いただくための報酬の先払いと思っていただきたい」
もちろんこれはこじつけだ。
二者の対話自体は、ユイが《翻訳》を所持しているため、何の問題はない。だが、技能によって完全な意思疎通をする魔王は、集落のゴブリンたちにとって、長より話の通じる話し手となるだろう。魔王からの言葉の方が、明瞭に理解が可能とあっては、長のお株を奪うことになりかねない。
ゴブリンの団結のゆるみは、集落を丸々眷属に置きたい身としては回避したいのだ。
「――よろしいのですか?」
「私の方からお願いしたことです」
当然、長も求心力の低下は避けたいところだ。
ユイがその意図をもって技能の受領を勧めていることを理解してくれた。
「是非、頂戴いたします」
「私の魔核はここです。――下腹の、紋様に触れてください」
腰掛から浮き上がりガウンの前合わせを開いた。
衆人環視の中、純白の下着が丸見えになる。
必用な事とは言え、これはとても恥ずかしい。
これが男の身体だったら話は簡単だった。たとえ誇れるような肉体美はなくとも、魔王としての責務に意識を集中できたのだから。
けれど今生において、ユイの身体は美女で幼女で痴女である。
唯一救いなのは、技能を賜るという行為を、ゴブリンたちが神聖視していることだ。
恥ずかしがっているのは自分だけ。もはやそういう儀式だと開き直るしかないのだが、どうしても前世の倫理観が、火が出そうなほど顔面をほてらせる。
ユイの下腹に触れようと、長の顔が近い。褐色の肌が少しでも赤面を誤魔化してくれているのを祈るばかりだ。
「失礼、致します……!」
長が足元に跪き恭しく腕を伸ばす。
分厚い皮に覆われた指が、へその下の柔らかい肉に僅かに沈み込んだ。
《ゆーいちがはずかしがると、まりょくがおいしい。……ん、つながった。すきる《ほんやく》をふよする?》
(サチの薄情者! するよ! この羞恥プレイをさっさと終わらせてよ……! 誰だよこんなところに淫紋描いたやつは! ……僕だよ!)
転生したとか、魔王に生まれかわったとか、そのあたりはまだ極低確率だが偶然で済みそうなことだ。しかし、自分が創作したキャラクターの似姿となるのはさすがに誰かの悪意を感じざるを得ない。
なぜこの姿になったのか、いずれ探ってみるのもいいかもしれない。
だが、それが誰かの意思であるならば、その者と相対するためにもやはり力は必要だ。
「これが、これが技能! おい、お前たち、私の言葉がわかるか!?」
魔王の懊悩などいざ知らず、《翻訳》を得た長は周囲のゴブリンたちに語りかける。
――長! 長! われらの導き手! 庇護者! 統率者! 栄えある者!
ゴブリンたちが口々に言葉を返す。
それらはすべて長を表わす言葉だったが、それまでユイが《翻訳》を使って聞き取ったものには含まれていなかった。
長が自身の《翻訳》を以って配下の者たち問うた結果、各々が抱く長への感情がそのふさわしい呼び名へと《翻訳》されたのだ。
その中に長を悪し様に呼ぶ物は一つとしてない。
「お、お、お……、お前たち……!」
出会ってから、いかなる場面においても取り乱さなかったその声が上ずっている。
節くれだった指で目頭を押さえているが、皺だらけの頬を伝う涙を抑えられていない。
長はずっと不安だったのだ。
クレバーに集落を率いてきたものの、ムシウに犠牲を強いたように、庇護すべき対象へ、時に命の選別をし、切り捨てるような行為を何度も繰り返してきたのだろう。
その決断がなければ集落の存続が危ぶまれる事態も多々あったに違いない。
けれどその行いが配下の者たちにどう思われているかを長は知ることができなかった。
言葉を操れるのは自分だけ。態度や鳴き声で大まかな気持ちを知ることはできても、人間と変わらない知能を持つゴブリンが胸中を隠そうと思えば容易いだろう。
ならば畏怖される存在として君臨し、集落の存続という一点に恥じることだけはすまいと行ってきたそれを、命を預けていたゴブリンたちは理解してくれていた。
――長! 長! 長!
敬愛する統率者がむせぶ間、喚声はなりやまない。
その光景を見ながら、ユイの胸中もまた複雑だった。
みずからが投じた一石で、こうも激しい感情の発露に居合わせるとは、気後れさえ覚えていた。
彼らが存続のために尊い決断を共有してきたように、ユイ自身も魔王としての運命から逃れるためにゴブリン集落のエルフ化を目論んでいる。
だが、そんなエゴを貫くには目の前の光景は眩しすぎるのだ。
彼らがその脆弱な命を最大限に使って寄り添い築き上げた共同体を、自己の安寧を得るという目的のために壊して良いものか。
情報を得た後、請われなければ無理強いなどせず、集落を離れたほうが良いかもしれない。そんな迷いさえ生まれてしまうほど、目の前のありさまは冒しがたいものに見えたのだ。
「ええい、静まれ! お客人のご前である!」
気持ちが沈んで黙り込んでいると、長が周囲の喧騒を制止した。
《翻訳》を使った一喝は、的確に意図するところを伝え、讃えながらも囃し立てる声がぴたりと止まる。
「お見苦しい所をご覧に入れました。……まずは、無二の感謝を。かつて遠目に憧れるだけであった技能を授かり、配下の者どもに達意がかなうなど、夢想だにしておりませんでした」
「気に入っていただけて何よりです。私も……、あなた方の固い団結を拝見し、貴重な経験をさせて頂きました。……急かしてしまい申し訳ありませんが、どうかこの世界の知識をお与えください。ここより旅立った後も命をつなげるように」
むやみに割って入れない結束を前に、気持ちは全く浮かない。
それを誤魔化すように本来の目的であるこの世界についての教授を乞う。
長は涙をぬぐうと居住まいを正し、こちらを見据える。
その目は、初めて顔を合わせたときの、集団を統べる鋭い目つきが戻っていた。
視線を合わせたまま、しかし長はなにも口より紡がず、こちらを伺うように見つめている。
――どうしたのだろうか。意図が掴めず声をあげようとしたところを手で制され、長の方から語りかけてきた。
「色欲の君、ユイ様。恥を忍んで申し上げます。どうか今ひとつ、聞き入れて頂きたいことがあるのです」
「――、それは?」
問いたい事がわからない。
けれど慇懃な物言いほど、長が畏まっていないのも伝わってくる。
茶目っ気を含んでの要求、そこまでしかわからず混乱が深まる。
「どうか、わたくしを眷属としていただけないでしょうか」
「――!?」
見透かされていた。
いや、頭の切れる長ならば、魔王がゴブリンの眷属化を狙っていることは早い段階で気づいていたことだろう。だがそれは双方にとって利のあることなのだから、先に申し出させ、「眷属になってやる」というスタンスを貫くことで利益の二重取りもできたはずなのだ。
それをなぜ、ここで自ら申し出るのか。
そう、見透かされていたのだ。――寄る辺のない、魔王の不安を。
集落総取りの目論見から始まり、《翻訳》を与えることで、結果的に長の不安は解消された。――これは、貴方の不安を解消する一助となりたいという、長なりの返礼なのだ。
しかし、だからこそ安請け合いなど出来るはずはない。
彼らなりに精一杯生きているその在り方を、そのほうが良いからと価値観を押し付けるのは冒涜的行為だ。
あくまで双方の合意であることを確認しなくてはならない。
無論、「今後私がトチ狂ってもあなたたちは反乱できませんがそれでもいいですか?」などとは聞けない。
どのように問いかければ相手への侮辱にならないのか。
戸惑っていると、再び長と目が合った。
期待を込めているその眼差しは語っていた。
――自分たちはすでにその儀礼を知っているのではないか、と。
――敵わない、と思った。
相手は言語の縛りのあるなかで何年、何十年と他者の命を預かって来た統治者だ。
そんな者に、前世の凡人の記憶を持つ肩書だけの赤子が張り合おうとはおこがましい。
「――お願い、できますか?」
「私から申し上げたことでございます」
差し出された、皮の固いひび割れたてのひらを握りしめる。
目覚めてからまだ二日、その間に何度も奇跡的な幸運に助けられた。
だが、このあり方を相互に肯定する出会こそが、その奇跡の中で最たるものだと確信できる。この差し出されたてのひらこそが、ユイがこの異世界で最も求めていたものなのだ。
目頭が熱くなる。
今後、魔王はこの手を離してはならない。
この信頼を裏切ってはならない。
この命を守っていかなくてはならない。
これを反故にすれば、魔王はもう悠一でいられない。
「うぅ、あぁあっ、あぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!」
喉から絞り出された嗚咽は止めようもなく、あふれ出た感情は慟哭となって吐き出された。言葉にもならない鳴き声だが、きっと《翻訳》によって胸中がぶちまけられているだろう。制御できない感情から、持って生まれた秘密がどれほど漏れ出てしまうかはわからない。
だが、そんなことはもうどうでもいい。
バレてしまったところで、この集落の者たちと生きていくためには些細なことだ。
泣く。
生まれたての赤子のように、ただただ感情を吐露し続けた。
――やがて泣き疲れ、脱力した身体を長がそっと支えてくれる。
間近に寄り添った巨躯からは乾いた草の匂いがした。
傍らに控えていたムシウが触れてくる。
心通じた者たちへ身体を預け、涙が止まるまで、しばらくそのままでいた。