第74話 鼻の利く男
イノはゆっくりと覚醒した。
頭がガンガンと痛み、視界が揺れる。
重い瞼を開け、ぼんやりとした視界をなんとか焦点を合わせてはっきりさせた。
イノは暗い部屋にいた。
部屋には窓が一つもなく、ひどくじめじめしてカビ臭い。
低い天井から雑に吊るされた電球に虫が集っている。
意識が正常に戻っても、ここがなんなのかを理解することができなかった。
「おい」
すると、どこからか急に声をかけられる。
イノが目を凝らして声の主を探すと、散らつく電球に照らされて男の顔が映った。
そこには、髪の毛を橙色にして、奇妙な形にしている男が立っていた。
黒フードをかぶっていなくてもすぐに分かった。
テーリヒェンと交渉し、イノがカメラをつけていた男を殺害した————
あの、悪魔のような笑い声の人間だ。
「あ……あんた」
イノは反射的に立ち上がって距離を取ろうとする。
脊髄が筋肉に命令を下していた。
しかし、体が動かない。
その時初めて、イノは自分の体が椅子に縛られていることに気づく。
鉄製の冷たい椅子に、胴体と足首を太い縄で巻き付けられていた。
「な、なんだこれ!?」
イノは拘束を解こうともがくが、簡単には解けない。
椅子自体が床に固定されていて、反動をつけて倒れたりすることもできなかった。
今のイノには、すぐにこの拘束から逃れる術を持っていない。
どうしてこんなことになっている……?
俺は何を……?
イノは記憶を遡って考える。
確か、歓楽街で行われていた奴隷オークションの調査をしていた。
そして、そこでターゲットの男が目の前のこの男に銃で撃ち殺されて————
そこしれない恐怖を感じた。
それから、入り組んだ裏道を突き進んで、そこで————
その後の記憶がない。
気づいたら、頭が割れそうな痛みとともにここにいた。
あの光景を夢だと考えるのはただの現実逃避だ。
そうなると、イノが見ず知らずのこの場所にいる説明がつかない。
確かにイノは男が銃殺されたがところを見た。
信じたくはないが、見てしまったのである。
そして、それが理由なのか、イノは裏路地で誰かに襲われた。
患部を見る術がないが、誰かに後頭部を殴られたのか、それで気を失ってここに運ばれた。
そう考えるのが妥当だ。
だとしたら、俺を襲った人物は————
「ヒッヒッヒッヒ!」
目の前の派手髪の男が不気味な笑いを漏らした。
ぼんやりと男の笑顔が映し出されている。
「下手に騒がず、下手に動かず————」
男はゆっくりとイノに近寄っていく。
室内の照明が男の肩に当たり、点滅がより一層強くなった。
「ただ思考を働かせて状況の整理に努める……いいねえ、頭のいいやつは嫌いじゃねえ!」
「……!」
十分にイノに近づいたことで、男の姿がはっきりと見える。
派手髪の男は、歓楽街の時の黒ずくめではなく、上半身に何も着ていないという野蛮な格好をしていた。
着痩せしていたのか、岩のような筋肉がゴツゴツと体についており、体格はイノよりもはるかに大きい。
屈強な体には、竜の模様の刺青が施されていた。
「お前は……誰だ?」
「おいおい、今更分からねえってことはねえよなぁ」
派手髪の男は、挑戦的な目つきでこちらを窺っている。
こちらを見透かそうとしてくるその目は癪に障るが、確かに答えは明らかだ。
イノは思いついた答えを口にする。
「フラッド……カンパニー……!」
「せいか〜〜い!」
派手髪の男は、陽気な調子でイノに拍手を送った。
『フラッド・カンパニー』
『アルディア』北部を牛耳る、現在、最も勢力の大きい闇組織。
麻薬密売、恐喝、強盗、そして、平気で殺人を犯す犯罪集団。
イノは図らずも目的地に辿り着いたのだ。
最悪の形で。
「お前、あそこにいただろ」
すると、派手髪の男がイノの近く、息がかかるほどの距離まで接近してきた。
男のギラギラと光る、蛇のような赤い目にイノが映る。
「あのスラム街の店だ。あの時、俺達の客に無礼を働いた奴がいてなあ。顔のきったねえおっさんだった」
数日前のあの日。
イノがテーリヒェンの不祥事を掴もうと、『アルディア』北部のスラム街、テーリヒェンの行きつけの店で潜入調査をした。
おそらく、あの時の話だ。
イノはその店でちょっとした騒ぎを起こしてしまい、からがら逃げてきたという経緯がある。
もちろん、この男はその様子も見ていたということになるだろう。
「だけどなあ、少し妙だと思ったんだよ。そのおっさんからは、あの年齢特有の加齢臭も、家なし特有のゴミみてえな匂いもしなかったのさ」
派手髪の男はニヤニヤと笑みを浮かべながら話し続ける。
「それで今日、お前に会ってみたらよぉ、あの時のおっさんと同じ匂いがすんのさ。ハハァッ!」
暗い部屋の中、狂気じみた笑い声を上げる男。
イノはスラム街でも歓楽街でも、この男と接触していない。
すれ違っただけだ。
そんなに近くを通ったわけでもない。
————だというのに、たったそれだけで人一人の体臭を嗅ぎ分けたっていうのか。
とんでもない嗅覚だ。