第36話 聞かれたくなかったこと
雨の降りそうな曇り空はもうなくなっていた。
太陽はまだ高いところにあるが、周りの空はほんのり黄金に染まり始めている。
「ねえ!」
イノは地区『ダンテ』の道を早足で歩いていた。
日に照らされた黒い外套が、風を切って歩くイノの後ろではためいている。
風が冷たい季節が過ぎ、作業着の上にオーバーコートを着込むのは流石に暑いのかもしれない。
「ねえってば!!」
袖を掴まれて、歩みを止められる。
ルビアの方に振り向かざるを得なかった。
「さっきの話はなんだったんだ!? おじさんの最期の言葉を聞きに行くって!」
ルビアは必死の声で、イノに詰め寄る。
今の彼女にだけは、聞かせたくない話だったのだが。
イノはルビアの目を直視できなかった。
「盗み聞きとは……公爵家のお嬢様がすることかよ」
「はぐらかすな!」
ルビアはいつもの強気な性格に戻っていた。
さっきまでの軍服姿のお淑やかな女の子はどこへ行ったのやら。
盗み聞きと揶揄したが、彼女にはそういうつもりはなかったのだろう。
ルビアの優れすぎている聴覚が、イノとウラの会話を拾ってしまったのだ。
今のルビアは罪人を尋問にかけるかのような勢いでイノに詰め寄ってきており、このまま逃してくれそうにはなかった。
「イノ、答えて!」
イノは、ルビアにこの件を伝えるかどうかを迷っていた。
ウラと再会を果たして、ルビアも多少、元気を取り戻してくれた。
この話を聞いたところで、また彼女を悲しませる結果になってしまう。
しかし、そんな思いは知らず、ルビアは一向に引き下がる気配がない。
イノは観念して、ルビアに返答した。
「聞いた通りだよ。今から、彼の遺言を聞きにいくんだ」
イノの言葉を聞いて、ルビアは目を見開く。
クルトと劇的な別れをし、ウラと再会して話をしたことによってどうにか吹っ切ろうとしている時に、掘り返すように出てきたこの話。
ルビアは前のめりになって、イノに再度問いかける。
「どういうことだ!? もう一度、おじさんに会えるのか!?」
「いや、会えない。声を聞くだけだ」
イノはルビアの希望をバッサリ切って捨てる。
クルトに会いにいくわけではない。
ましてや、会話ができるわけでも、彼を助けられるわけでもない。
ただ、声を聞くだけだ。
こんなことに、ルビアを付き合わせることになんの意味もないと思っていた。
だからこそ、彼女だけには聞かせたくなかった。
「イノ」
ルビアはイノのことを真剣に見つめる。
「私をその場所に連れて行ってくれ」
案の定、ルビアはついてくる気になってしまった。
イノは後頭部を掻きながら、小さく溜め息を吐く。
「……来たところで、お前にはつらいだけだぞ」
「それでも、行く」
ルビアは全く引かなかった。
これまでのルビアとの付き合いで、彼女がとんでもなく頑固だというのは、嫌というくらい理解させられた。
イノは再び溜め息を吐いて、ルビアに背を向け歩き出す。
ルビアは何も言わず歩き出したイノの跡を追う。
向かった先には、一台の車が停められていた。
イノはその車の助手席側のドアを開け、ルビアを手招きするのだった。
「乗りたきゃ、乗ってくれ」