第34話 再会
帝国の空は厚い雲によって覆われている。
まるで何かを覆い隠すかのように空に被さる大雲は、一筋の太陽の光も通すことを許さなかった。
人間にはその雲を掻き分け、光を通すことを可能にする力はない。
ただ時間に身を委ね、その雲が気まぐれでどいてくれるのを待つだけだ。
だが、待っているだけで本当に晴れてくれるのか。
本当は一生この薄暗い世界なのではないか。
そんなことを感じさせるくらいには分厚い雲であった。
イノは薄鈍色の作業着にオーバーコートという、相変わらずの着こなしで道を歩く。
中央街『レグルス』からほんの少し離れたこの通りは、街の中央に比べるととても落ち着いている。
石畳で綺麗に整備された道は人通りが少なく、道路脇にある店も閉まっているところが多い。
この地区は、エルステリア人が多く住んでいる『ダンテ』という所だ。
こんなにもこの地区の活気がないのはしょうがないだろう。
クルトが出立してから数日。
予定では本日、クルトを含めたエルステリア人の部隊は現地に到着し、特別作戦が執行されるはずだ。
この地区にいる人達は皆、エルステリア人かそれに縁のある人達ばかりである。
誰かが何も言わずとも、自粛する空気になってしまうのは仕方がなかった。
そんな重い空気を纏うこの地区で、イノはとある場所に向かおうとしていた。
イノが何度もお世話になった店、喫茶店『イステル』である。
訪問する理由は、ウラの様子が心配になったからだ。
この数ヶ月間、何度かウラの様子を見に行っていたが、あまり、良い状態とは言えなかった。
碌に食事も取らず、痩せていく一方である。
クルトとの子供を身篭っているので、尚更、体調には気を使わないといけないというのに。
イノは足早に、いつも通りの道順で喫茶店『イステル』に近づいていく。
ずいぶん昔から通っていたため、慣れたものだった。
体に染み付いていると言ってもいい。
だが、あと一つの路地を曲がれば到着というところで、異変に気づいた。
「……?」
目的地の方角で、何やら言い合っている声が聞こえてきた。
女性の声で、どちらも必死な様子である。
「お願い開けて! 話を聞いて!」
「お断りします! 帝国軍人さんは帰ってちょうだい!」
「そんな、私はただ————」
両者の声、どちらともよく知っている声だった。
曲がり角から静かに顔を覗かせてみると、一人の女性が、いや、軍人が店の扉を引っ張っている。
それは、先日大騒動を起こした軍のエース、ルビアだった。
ルビアが店の扉を開けようとするが、店の中にいる人物がそれを許さなかった。
かろうじて空いている扉の隙間から、ウラの怒号が聞こえてきた。
「私は軍人さんとは会話致しません! お帰りください!」
「待って! アステッ!」
ルビアの手から扉の取っ手が滑り抜け、バタンと店の入り口が閉まってしまった。
慌てて扉を引くも、鍵をかけられてしまう。
ドアを叩いてみるが、もう返事はなかった。
「待ってよぉ……」
ルビアは縋るように扉に手をつきながら、へたりとその場に膝をつく。
そして、うずくまった状態のまま静かに泣き出した。
「……」
さて、面倒くさいことになった。
連日の出来事で、彼女がまいっているのは目に見えて分かっていた。
できれば今の不安定なルビアには会いたくなかったわけだが。
店に入るには、あそこに座り込んでしまった彼女を避けては通れない。
この店には裏口もないし、窓から入るわけにもいかないだろう。
しょうがない。
イノは店の前まで行き、へたり込むルビアに声をかける。
「……そんなところで、座り込んでたら汚れるぞ」
突然後ろから声をかけられ、ルビアはハッと顔を上げる。
彼女の顔にはくっきりと涙の跡があった。
「イノ……」
「ほら」
イノはルビアに手を差し伸べる。
ルビアは何も言わずその手を取り、立ち上がった。
改めて、彼女の服装を見たわけだが、門前払いを受けるのも仕方がない格好をしていた。
「……なんで軍服で来たんだ」
ルビアは帝国軍の深紅の軍服と軍帽をがっつり着込んでいた。
エルステリア人である彼らにとって、軍人姿の今の彼女は敵にしか見えないであろう。
ルビアは所々しゃっくりをしながら話す。
「だって……原則外出禁止になっちゃったんだもん。それでも演習中に無理矢理抜け出してきたから……」
「いや、すげえな」
あれだけのことをしでかして、彼女の罰則が外出禁止程度ですんだのも驚きだし、その上で抜け出してきたというルビアの神経もやばかった。
つまり、ルビアが軍服姿なのは士官としての勤務中だかららしい。
しかし見た目に合わず、今の彼女はずいぶんとしおらしかった。
先日の鬼のような魔法士は普段着の姿だっただけに、イノの中のルビアのイメージは完全にあべこべだった。
「イノ、私……」
「わかった、もうしゃべるな」
騎士口調ではないルビアは調子が狂う。
イノは扉の方へ、一歩前に進み出た。
「俺が話してみるよ。ルビアは下がってて」
イノがルビアの肩を叩くと、彼女はコクンと頷く。
そして、イノの背中に隠れるように後ろに下がった。
話してみるよと言ったものの、自分と口を聞いてくれるかどうかは分からなかった。
だが、このまま帰るわけにもいかないので、まずは店の扉を三回ノックしてみる。
「ウラさん、俺です。開けてくれますか?」
数秒間、音のしない時間が過ぎる。
もう出てきてくれないかと思ったところ、扉の奥から物音が聞こえた。
足音は徐々にこちらに近づき、扉のすぐ後ろまで来る。
「……イノ君?」
「はい」
ゆっくりと喫茶店の扉が開かれ、恐る恐る、ウラが顔を覗かせる。
ウラの体は前に見た時よりも痩せていた気がした。目も少し窪んでいるように見える。
美人で人気もあった彼女は、すっかり面がわりしてしまった。
「こんにちは、ウラさん。また痩せましたね」
「……うん」
ウラは後ろ暗そうに顔を伏せる。
彼女の体にとっても、その中にいる自分の子供にとっても、このままじゃダメだということが分かっているのだろう。
ウラの腹部は、まだ日が浅いのか、目につくような変化は見られなかった。
イノはウラのさっきの態度に対して忠告する。
「……お願いですから、軍人に対してあんな命知らずな態度を取るのはやめてください。どんな処罰を受けるか分かりません」
「だって!」
ウラの語気が強くなる。
自分の後ろでルビアがびくつくのが分かった。
「帝国軍は私の大事な人を奪って行ったのよ! 私があの人と一から築き上げてきた生活も、思い出も、全部壊して行った!」
ウラの叫びがイノの耳朶に響く。
ちらっと後ろを見てみると、ルビアが耳を塞いでいた。
軍人である彼女にとって、何よりも痛い言葉だ。
「だったら、もう恨むしかないじゃない! 夫を殺した奴らを!」
イノはウラの涙で歪んだ瞳を見る。
憎しみと悲しみを詰め込んだような瞳を、イノは何度も見せられてきた。
このような目をした人達を、イノは助けられた覚えがなかった。
「ウラさん……」
ウラの荒れてしまった手を強く握る。
イノにできるのは、クルトの思いを、意思を彼女に伝えることだ。
イノは落ち着きを保って、ゆっくりとウラに話し始める。
「ウラさん、クルトさんはあなたと、そのお腹の中にいるお子さんを守るために、自らの意思で戦場に出たんです」
クルトの願いはたったひとつ。
ウラ達がこれからも幸せに暮らすことだ。
彼女に、帝国軍を恨んで欲しいわけでは、絶対にないのである。
それによって、ウラ達に危険が及ぶのであれば尚更だ。
「彼の思いを、無駄にしないであげてください」
「……」
ウラは押し黙ってしまう。
分かっているのだ。
自分が軍をいくら恨もうと、もうクルトは帰って来ない。
頭では分かっていても、こればかりは理屈じゃない。
何かにぶつけなければ、何かのせいにしなければ、心が壊れてしまう。
「それに……」
今のイノには彼女を励ますことの出来る言葉は出て来ない。
クルトのことを忘れさせることも、新しく生きる希望を与えることも、イノにはできなかった。
だが、イノの後ろにはルビアがいる。
「それに、帝国軍人は、あなたの敵ばかりじゃありませんよ」
「え?」
イノはすっと横にはけることで、ウラにルビアの姿を見せた。
二人の目が合う。
この瞬間だけ、時間の流れが遅くなっているようだった。
ウラは時間をかけてルビアの姿を目に映し————はっと息を呑む。
軍人というフィルターを取っ払い、確かに今、ウラはルビアのことを認識した。
丸くした目には溢れんばかりの涙を溜め、口元を両手で抑える。
「ルビ……ア……?」
ウラの口から、微かにルビアの名前がこぼれでた。
それをルビアは聞き逃さなかった。
「アステ……覚えて————」
「ルビア……! ルビアアアッ!」
ウラはイノの横を通り抜け、両手を広げて駆け出した。
「アステ!」
ルビアはそれをしっかりと受け止める。
別離から四年。
運命によって切り離されてしまった二人は、ようやく再会を果たしたのだった。
「ごめん、ごめんね。ルビア……」
「うんうん、謝るのはこっちだよ! ごめんなさい……」
二人は、お互いに謝り続けた。
そして、抱擁を交わしたまま、しばらくの間泣き続けた。
イノは誰かが泣いている姿を、また見ていることしかできなかった。