第217話 丸腰の提案
イノが自由になった手を掴み、出口に向かおうとした————その瞬間。
「————え?」
イノは掴んだ手を起点に、空中を舞っていた。
そして、背中から地面に打ちつけられる。
衝撃で魔石が手から離れ、カランカランと地面を転がった。
「ぐああっ————!!」
突然のことに受け身がうまく取れなかった。
肺にある空気を全て吐き出し、その場にうずくまる。
イノを投げたのは、拘束が解かれたアイナであった。
「ど、どうし————」
「なんのつもりだ!?」
イノの声が、兵士の怒声で掻き消される。
銃の向き先がアイナに変わった。
予想外の出来事に場内に混乱が走り、アイナを咎めようとする声は上擦る。
しかし、アイナは————
「犯罪人を取り押さえたまでです」
誰もが動揺している中、アイナの声は不気味なほどに冷静であった。
透き通るようで、どこか芯のあるような強い声。
これが、大理石で作られた審議場内に木霊している。
イノは、その声にどこか懐かしいものを感じた気がした。
「既にこの審議は破綻しています。このままでは収拾がつかないでしょう」
兵士達の銃は下ろされない。
肌に焼け付くようなプレッシャーがアイナの周りに渦巻いている。
それを意にも介さず、彼女は堂々としていた。
「————では、どうするかね?パップロート准尉、君はその新しい魔導兵器とやらを使って、自分だけ逃げ果せようというのかね?」
誰も予想していなかった行動を起こしたアイナに対し、ギルベルトは興味深そうに視線を送っていた。
アイナは自分の目の前に落ちている魔石を拾い上げる。
それを————一番近くにいた兵士に投げ渡した。
その行為は、アイナが生きて帰る可能性をゼロにし、唯一の勝機を捨てるものであった。
そして、アイナは正面に向き直る。
「ギルベルト司令、私からご提案があります」
この場で最終決定権を持つギルベルトに、アイナは直接申し出る。
彼女の強い意志が、光のような速度でこの場にいる全ての人間を置き去りにし、駆け抜けた。
幼馴染で今までずっと一緒だったイノですらも、彼女が何を言い出すのか全く予想できない。
もう何も持っていない裸も同然なアイナは、腕を大きく広げて最後の要求を述べる。
「どうか、我々に執行猶予を与えていただきたい」
束の間の静寂が、審議上に流れる。
そして————次の瞬間、一気に爆発した。
「この後に及んで、何を言っている!?」
「エルステリア人風情が!そんなことが許されるとでも思っているのか!?」
旧体制派の人間が、新しい種に次々と火を焚べていった。
脅しが無くなった今、兵士達もすぐにアイナを確保できる状態にある。
一体————何を考えているんだ……!?
声にこそ出さなかったが、イノの思考はぐちゃぐちゃになっていた。
この審議は出来レースだ。
今更、そんな懇願を聞き入れるはずがない。
怒りと混乱が場内を支配する中、ギルベルトがトントンと槌を打ち鳴らし、騒ぎを鎮まらせた。
「罪人を取り押さえた功を評し、発言を許そう————なんだね?パップロート准尉よ」
ギルベルトはアイナに発言を促した。
再び審議の中央にいる彼女に注目が集まる。
「確かに、我々は帝国に命を捧げた身。本来ならこのまま帝国の礎となるのが、帝国にとっても王国にとってもいいのでしょう」
アイナは目を瞑っていた。
帝国のために犠牲になるのが、今の自分達の立場。
それを分かった上で、アイナは提案を続ける。
「しかし、今の状況を逆に考えれば、我々にはまだ利用価値があるとも言えます」
ゆっくりと、薄い黄金の眼を開ける。
そして前に一歩踏み出し、敬礼した。
「今ここに宣言します。我々、エンゲルスを再び帝国の兵士として認めてくださるなら————今より半年後、我々は帝国の全領土を奪還し、皆様に差し出しましょう」
アイナの主張を飲み込むのに時間がかかり、審議場が一瞬静かになる。
そして波が寄せるように、どよめきが後から巻き起こった。
「我々は、敵魔族軍の全てを滅ぼし、クーダルフ攻勢のための道を切り開くことができます」
アイナ達は一万の魔族軍を損害なしで駆逐した。
それはすなわち、もう一度魔族軍を駆逐することだってできるということ。
一万と言わず二万三万、この世の全ての魔族を滅ぼすことだって可能だろう。
これは、特別作戦を生還したアイナにしかできない提案であった。
「我々には可能です————いえ、我々にしか不可能でしょう」
審議場の空気が明らかに変わる。
クーダルフ攻勢など、誰もが先の話だと思っていただろう。
それがアイナの発言によって、現実味を帯びてこの場の人間に突きつけられる。
帝国の全ての人間の悲願である、『戦争終結』の可能性が、今ここに生まれたのだ。