第199話 反する思い
「自分でもどうしたらいいか分からない……だが、私は兄上に逆らえないのだ」
ルビアの表情は苦悶に満ちている。
彼女が兄上と口にした時点で、何となく、彼女が何に苦しんでいるのかが分かった。
恐らく、ルビアの兄、ヴィルヘルムはイノ達の動きを察知している。
直接会って会話を交わしたイノは、あの男の底知れない何かを知っている。
イノ達の動きを全て読まれていたとしても不思議ではない。
ルビアがイノ達と交流があることを知った上で、イノを止めろという指示が下されたのだろう。
実の兄、そして帝国軍への忠誠を確認するために。
あるいは、あの男に弱みを握られている、もしくは、兄弟間で何かしらの契約があって……?
「ルビア————」
「それ以上……! 近づかないでくれ……」
ルビアは剣を持つ右腕を前に突き出し、イノの動きを封じた。
その手は、遠目でも分かるくらいに震えている。
ルビアはヴィルヘルムや彼女の家の話になった時、いつもあまりいい表情をしなかった。
いい思い出がないからなのか、それともイノ達に対して後ろめたいことがあるのか。
それを確認する術はない。
イノはあくまで冷静を保ち、ルビアに話しかける。
「俺を止めても、この流れはもう止まらない。ルビアも分かっているだろう」
「……!」
もうイノだけの問題ではない。
状況は始まっているのだ。
イノの動きを止めることが、事態の収束につながるわけではない。
ルビアも、そんなことは分かっている。
分かっていて、何もしないという選択肢を取らず、苦しみながらここにいる。
ルビアの家の中での力関係は分からない。
彼女にとって、兄であり、上官であるヴィルヘルムの指示は絶対なんだと思う。
でもそれと同時に、イノはルビアが何よりも正しく、誰にでも優しくあろうとする人間であることを知っている。
仲間思いで、人の気持ちを大事にする人間だ。
そんな彼女の中で、軍人としての責務と、友達に剣を向けることの罪悪感がせめぎ合っている。
イノ達は正しいのか、ルビアは正しいのか。
彼女の正義とは一体なんなのかと、自分を模索し続ける。
「確かに、今から俺達がしようとしていることは、正しいことではないのかもしれない」
イノは一定の呼吸で、彼女を刺激しないように、ゆっくり話す。
国には向かうという行為だ。
当然、誰からも称賛されることじゃない。
何も成果が得られないかもしれないし、最終的には自分たちの首を絞めるかもしれない。
「でも、アイナを救いたい」
何が正しくて正しくないか。そんな価値観はとうの昔に捨てている。
アイナを救いたい。
仲間を、家族を救う。
それを奪われることは、地球上で最も悲しいことだから。
それ以上の理由はいらない。
利己的な願いかもしれないが、共感してくれる人がいる。
俺のその考えに仲間達が、恩人が、エルステリア人のみんなが賛同してくれている。
「結局————自分が納得できれば、それでいい」
自分に嘘はつかない。
自分が何者かを見失わない。
それを、誰でもないお前に教えてもらった。
「もし、俺が間違っていると思うのなら————前と同じように、俺を止めろ」
イノはゆっくりと、その足を一歩前に進めた。
二歩、三歩とルビアに向かって進んでいく。
ルビアはイノを凝視する。
戸惑い、焦り、そして切なさ、あらゆる感情が入り混じった表情が彼女の顔に張り付いていた。
ルビアは剣に力を込める。
イノはもう、彼女の攻撃範囲に入っていた。
それでも、臆せずにイノは歩みを進める。
ルビアの険しい視線、イノの落ち着いた視線が絡み合う。
イノはルビアの剣のほんの刃先まで近づいた。
振り下ろせば、イノは絶対に避けられない。
そして————
「……」
「……」
二人はすれ違った。
イノの左肩のすぐ後ろに、ルビアの気配を感じる。
「結局私は————」
ルビアはだらんと脱力し、その場に剣を落とした。
「どっちつかずで、曖昧で、臆病で————最低な人間だ」
誰もいない廊下で、彼女の弱々しい声が消えていく。
イノはそれに肯定も否定もできない。
彼女がここに立っているのは、イノ達の危険も考えてのことだろう。
でも、ここでイノ達を止めれば、アイナが帰ってこないことも分かっている。
イノ達の安全か、アイナの命か。
兄の命令か、仲間達の意思か。
答えはイノには決められない。
イノは、ルビアではないから。
彼女の立場に立つことはできない。
だからこそ————
「今日の午前九時、帝国軍本部前の中央通りだ」
「……!」
イノは振り向かずに、ルビアに告げる。
そこはイノ達の決戦の地。
彼女がイノ達の側につくことはない。
絶対にだ。
でも、それでいい。
「止めれるもんなら止めてみな」
イノは再び歩き始める。
朝日の光が地平線から顔を出し始め、廊下の窓から二人を照らしていた。
今日が始まる。