第196話 蜘蛛の巣の中
「それでも……不条理なものは不条理です。一部の人間はこの理不尽に気づき、反発する可能性もあるでしょう。そうなれば、兄上の理想にも翳りが出るのでは……?」
兄の考えの有効性は分かったつもりだ。
それを飲み込んだ上で問題点をあげようとした。
少なくともイノ達は決して諦めない。
どんなことをしようとも、正しくアイナを救い出すことを絶対に諦めないはずだ。
そうなった時に彼らの取る行動は、ヴィルヘルムの言う副作用を加速させるものだろう。
変革は避けられない。
「では、それをルビアが止めてくれないか?」
「なっ……!?」
ルビアは突然の申し出に体を強張らせる。
私が……止める……?
あいなを救おうと奮起するイノ達の思いを、この私が断ち切れと言うのか……?
ヴィルヘルムは底が知れないような深みのある笑みを浮かべる。
「もし、彼らがそのような行動をとった場合、我々としても避けたいが、弾圧という行動をとるほかなくなる。その前に、彼ら
に伝えてくれないか?」
仲間を犠牲にすることを、見逃してくれないか、と。
何よりも彼らのために。
私とて、帝国民の命を無闇に奪いたくないのだ。
ヴィルヘルムは、あくまでイノ達のためを思って、ということを強調する。
兄上は有言実行の人だ。
一度口にしたことはどんなことでもやりかねない。
彼がそう決めれば、イノ達は間違いなく弾圧の対象である。
彼ら————私達のやったことを考えれば、最悪————
「そんなことが……私は正しいとはとても……!」
それだけは、必ず阻止しなければならない。
アイナも死んで、イノ達も死んで、その上、反旗を翻すウラさん達、そしてエルステリア人達を殺してしまったら————
後にルビアに残るものは何もない。
せっかく、できた友達なのに……
「ふーん、なるほど……」
ヴィルヘルムは面白そうに目を細める。
そして、ゆらりとした所作で、ルビアに近づいた。
「ルビア……私に何か隠してるね?」
「……!?」
心臓が飛び跳ねた。
ルビアがイノ達と一緒に本部に潜入し、魔石を取り替えた実行犯であることは、まだ誰にも露見していないはず。
それを、兄上は知っているというのか。
いずれ明るみに出ることになるのは覚悟しているし、隠すつもりもない。
だが、今ヴィルヘルムにこれを話すのはまずい気がする。
「ふふっ……随分と入れ込んでいるものだね。周囲と全く関わりを持たなかった少し前の君とは大違いだ」
沈黙を保つルビアに、ヴィルヘルムは少し笑う。
そして、美形の顔を傾け、ルビアの耳元に近づいた。
「あの子を追い込んだのは、誰よりもルビアなんだよ」
「……!」
目を見開いた。
あの子、それが指す人物にすぐに思い当たってしまったから。
「そんな!? ま、まさか————」
言い返そうとして、それ以上何も言えない。
彼の宝石のような瞳に吸い込まれるようだった。
「君が何を隠していようと、もし何か不祥事を起こした場合、それなりの罰則は受けてもらうよ。もう二回目だしね」
少なくとも外出許可は出ない。
君はこの公爵家という檻に入れられる。
せっかくできた友達にも会えず、奴隷のような毎日に逆戻りさせられる。
胸に抱いた夢を、果たすことなく。
彼が私に託した、あの夢を————
「そ、それだけは————」
「それが嫌なら私情は慎みなさい。愛しき妹のためだ。私の言うことを聞いていれば、ルビアの立場は全力で守ることにするよ。何を切り捨ててもね」
ヴィルヘルムはルビアから離れる。
そして、執事に合図を送り、玄関の方に向かった。
「これが、君の我儘で選んだ道だ————外に出たいという君の我儘のね」
「……」
もう何も言い返せなかった。
ルビアの立場も行先も、全てあの天才にコントロールされている。
「今日の報告も、いつもの時間によろしく頼むよ」
そう言い残し、ヴィルヘルムは雨の夜に消えていった。
残されたルビアは、呆然としたまま項垂れる。
軍帽に溜まっていた雨水が、ポタポタと床に落ちていった。
あまりにも無力。
やるせない気持ちでいっぱいになる。
私の憤りも、その奥に潜める思惑も、彼には全てお見通しだったのだろう。
過去も、現在も、その先も、全てあの天才に見透かされている。
まるで蜘蛛の巣に周りを囲まれているのような。
彼の手のひらの上では、私は何一つ誰かのために動くことはできない。
いつから、彼の手の上なのか。
何を間違ってしまったのか。
いや、分かっている。
あの日、兄上に助言を求めて、約束をしてしまったこと。
家の外に出ることと引き換えに、とある工廠のとある班の調査を依頼され、それを承諾したこと。
あの日から、私の行動の全ては、兄上に支配されてしまっていたのだろう。
「ごめん……」
もう、私にはどうすることもできない。
ごめん……
ごめんなさい……
私は————