第17話 いつも相談して良かったと思える人
「もういい!洗濯してくるから!」
ウラはぷりぷりと怒りながら、旦那にそう言いつけて、厨房の奥に行ってしまった。
「まったく……小言の多い女房だ」
クルトはため息を吐いているが、一言多いのはクルトの方なんじゃないかと―———
イノはそう思ったが、口に出る前に自制する。
代わりにコーヒーを少し口に含み、香りを堪能しながら喉に流す。
ウラの自家製らしい。
イノのお気に入りのコーヒーだ。
「————俺は元々、あまり人と喧嘩するタイプじゃなかったんだけどな」
「そうなんですか? 意外ですね」
「ん? ああ————人は見かけによらないってことだな」
クルトはその時、少し珍しい表情をしていた。
若い頃はやんちゃをしていたという話も聞いていたし、人との衝突も多かったんじゃと勝手に思っていたが。
外見からは分からない、意外な一面であった。
「俺も最初、ウラのことを大人しいお嬢さんだと勘違いしちまったんだが————初めて会った時に俺に言った言葉分かるか? あいつは俺に『仮面をかぶるな、自分を偽るな』なんて言って寄越しやがったんだ」
日頃からどこか自分を偽って過ごしているところを、見透かされていたんだ。
クルトは後頭部を掻きつつ、虚空を見つめて思いを馳せる。
聞けば聞くほど意外な話だ。
いつも明るく、豪快なことを言って笑い飛ばしてくれるクルトは、昔からそんな性格なんだと思っていた。
そんな彼も、今までの人生で変わってきているのだ。
「本当の自分を曝け出して、素直になんでも言い合える関係ってのは、心地よいもんだぜ————あ、これはあいつには内緒にしといてくれよ」
人差し指を口元に添え、ウィンクするクルト。
この感じはいつもの彼だ。
素直になんでも言い合える関係。
ふと、イノの頭によぎったのは、赤髪で碧色の瞳をした女性だった。
「で、青年。話してみぃ」
クルトは脈絡もなく、イノにそんなことを言う。
彼の方を見ると、布巾でグラスを拭いている最中だった。
キュッキュッといういい音が、店内に鳴り響く。
「何をですか?」
心当たりがないイノはクルトに聞き返す。
「悩みがあるんだろ?」
「!」
イノはハッとした。
クルトはイノが疲労以外の別の要因で元気がないことに気付いていたのである。
「……やっぱり、分かりますか?」
「分かるさ、どれだけ青年の話を聞いてきたと思っている」
初めて会った時から、ずっと話をしてきたじゃないか————
クルトは当時を懐かしむように目を細める。
イノが『アルディア』に来た頃から、お世話になっている喫茶店の主人。
やはり彼には敵わない。
イノがへこんでいる時にはいつも声をかけてくれる。
例の魔石を作る上で、クルトには何度もお世話になったのだ。
イノは自分の胸につかえているものを、クルトに話始める。
ルビアに俺達の正体を話すべきかどうか。
話したとして、彼女が分かってくれるか。
イノにとって貴族は忌むべき存在だ。
イノ達がこんな境遇になったのも、全て奴らが悪いのだ。
故郷を捨てなければならなくなったのも。
自爆魔法を作らされて、人の命を奪っているのも。
ルビアはそんな奴らとは違うかもしれない。
それでも、イノは決めきれなかった。
「……確かにそりゃあ難しい問題かもな」
クルトは自分の顎髭をいじりだす。
イノはコーヒーに移る自分の顔を見つめた。
歪んでいるのは水面の揺れのせいか、それとも。
「俺は————貴族が嫌いです。環境が恵まれていて、なんの苦労もなく生きてきた人間に、俺達の苦労が分かるとは思えない」
きっと俺達は分かり合えない。
過去の経験も、あらゆる感情も、本当の意味で共有することはできない。
つながることなんてできない。
————しかし、クルトはそれに反対した。
「貴族だからどうとかって、自分とは全く別だと考えるのは良くないぞ。人は、どこまでいっても人なんだ」
人は、どこまでいっても人。
最近どこかで聞いた言葉だ。
だが、徳が高い彼のその言葉をイノが理解し切ることはできない。
クルトはカウンターに肘をつき、真っ直ぐイノの方を見つめる。
「青年、このままその子に真実を伝えなかったら後悔しないか?」
「……」
「思いがすれ違った状態で、苦い思い出のままにするのか? その子を信じて、話してみたりはしないのか」
イノにとっては難しい問題だった。
魔法開発における不具合を解決することよりも難しい。
未だに顔が曇っているイノを見かねて、クルトは一人話し出した。
「そうだな。少し昔話をしよう」
クルトはふと、手元のグラスに視線を落とす。
さっきまでの陽気な調子とは、少し違う声音であった。
「昔、貴族の娘を好きになった無謀な男がいてな」
平民と貴族が結婚することはできない。
貴族の娘は、他の家との政略結婚などによって、政治の道具として使われるというのは良く聞く話だ。
そんな現実を突きつけられつつも、男はその女性に恋をした。
小説みたいな話だった。
「その男は人種も違うし、身分も違った、他から敬遠される人間だった」
クルトは寂しそうに、わざと肩を竦めて見せる。
グラスを手際よく拭いていき、横に置いていった。
イノは、彼のゆっくりとした所作に、思わず目を引かれてしまう。
「だけど、彼女だけがその男を区別せずに見てくれたんだ」
クルトはグラスを拭く手を止め、軽く息を吐く。
彼の声には、イノには計り知れない様々な思いがこもっているように感じられた。
目がキラキラと輝いている。
「しまいには、その女を家から連れ出しちまった。そんな馬鹿な男さ」
クルトは再び手を動かし始める。
騒がしかったさっきまでとは打って変わって、店内には静寂がもたらされていた。
とても心地の良い静寂に、彼の独り言のような呟きだけが響いている。
イノは我慢ができなくなって、彼に聞いてみた。
「……クルトさんの話ですか?」
彼は何も言わなかった。
黙って、グラスを拭く手を進める。
「そいつはバカだったから、それが正しいことなのかも分からず、無理やり連れだしちまった。いつかしっぺ返しが来るんだろうな」
クルトはおもむろに窓の外を見る。
つられて、ふと喫茶店の窓の外を見ると、夜の世界に雨が降っていた。
雨の音は聞こえていたはずなのだが、彼らとの会話とその楽しさで、イノは全く気が付いていなかった。
イノは、再びコーヒーを一口飲む。
「でも、あいつは信じてくれた」
家の何もかも捨てることになるのに、男を信じて彼女はついていった。
それが正しいことなのかどうかは度外視して。
「身分の違いも、人種の違いも関係ねえ。ただ信じて欲しいことを信じて欲しい人に話すだけさ。想いは必ず届くもんだよ」
グラスを拭き終わったクルトは、そのグラスを両手いっぱいに抱え、後ろの専用の棚に収納していく。
後ろを振り向いた彼の大きな背中で、イノに大事なことを語っていた。
「……はい」
彼の言う通りなのかもしれない。
イノ達に後悔する暇はない。
常に日々は移り変わっていく。
だからこそ、後悔しないために目の前にある問題を後回しにせず、向き合わないといけないんだ。
イノがルビアを信じ切れるかは分からないし、逆にルビアがイノ達を信じてくれるかも分からない。
ただ、お互いに歩み寄らないと始まらない。
とにかく話してみよう。
うだうだ考えるのも、そろそろ面倒だから。
イノは最後の一口を飲むため、コーヒーカップを口元まで近づけた————
その時だった。
「失礼する!!」
突如、店の扉が勢いよく開け放たれた。