第1話 小太りな権力と魔法技師
紙をめくる音だけが聞こえる。
黒髪の下には汗がにじむ。
普段はほとんど着ることがないフォーマルな服の中は、既に水浸しだった。
だが、その汗を手で拭うこともできない。
また、紙をめくる音が聞こえる。
この音が嫌いだった。
自分の作った書類を、書かれている成果を、他人に評価される。
その一文、その結果に対し、何を思うのか。
次に一体何を言われるのかという恐怖。
ページをめくる音が、まるで爆弾が爆発するまでのカウントダウンのようにも聞こえる。
それが嫌いだった。
決して、目の前に座るこの小太りの男のことが、嫌いなどと言えるべくもない。
相手は大切なお客様であり、この国で最も権力のある組織だ。
ここは帝国軍本部。
軍事国家である『ウォル・フォギア帝国』、その帝国軍の中枢である。
その中でも帝国軍参謀本部の一室であるこの部屋は、それなりに広く、豪勢な絵やら骨とう品やらが飾られた書斎だ。
すなわちこの男は、帝国でもそれなりの権力を持っている軍人だった。
男は金髪で小綺麗にセットされた髪を執拗にいじっている。
口に高価そうな煙管を咥え、頬杖をつき、非常にリラックスした状態で書類を眺めていた。
その男を前に、一人の青年は直立不動のまま、その書類に対する返事を待っていた。
「はぁ」
男から溜め息とともに、肺に溜まった煙が漏れ出す。
それは、いかにも自分が退屈であることを表したものであり、やれやれと言わんばかりの態度だった。
まだ書類全体の三割も読んでいないというのに……
「これじゃ、だめだねぇ。イノ・クルーゼ君」
半ば予想できていた言葉が、立っていた青年、イノ・クルーゼという魔法技師に告げられる。
男は手に持っていた書類を、イノという青年の足元に雑に投げ捨てた。
溜め息を吐きそうになるのをぐっと堪える。
「……どこが、だめなのでしょう。テーリヒェン大佐?」
イノは床に雑然と捨てられた書類を拾いながら、その男、ライムント・フォン・テーリヒェン大佐に尋ねた。
いったいどこが問題なのかをはっきりさせなければ、修正のしようもない。
「分からないかね?やはり、一介の魔法技師に大局的な観点を持てというのは、酷な話なのかね」
テーリヒェンはまた煙管の煙とともに、深く息を吐き出す。
イノとテーリヒェンの距離は決して近くないわけだが、その煙がイノの元まで届き、きつい匂いが鼻腔を刺激する。
「しょうがあるまい。教えてやろう」
テーリヒェンは重たそうな腰を上げる。
そして、窓の外を横目に見ながら、ゆっくりとイノのもとに歩み始めた。
「戦争が始まって、もう十年だ。戦況は今、均衡状態にある」
手を後ろで組み、ゆらりとこちらに近づいてくる。
肥満の男のその足取りは、ずしずしと床を踏みしめており、振動がこちらまで伝わってくるようだった。
イノは相槌を打つこともなく、黙って話を聞いている。
「一時は、『クーダルフ』のクソどもに遅れをとりそうにもなったものだが、例の戦法と魔石によって、戦線を一気に押し上げることができた。今では帝国にも、ちょっとしたゆとりがある」
テーリヒェンはふと足を止め、窓の外の街並みを見下ろした。
すぐ下の大通りでは、車が黒い排気を上げながら、ひっきりなしに走っているのが見える。
「ではこれからの時代、これからの戦争には何が必要だと思うかね?」
窓を見ながら、自分の髪を撫でつけ始めたテーリヒェンは、イノに問いかける。
経験上、イノはこれが趣味のいい話題ではないと始めから分かっていた。
下手に答えて、機嫌を損ねられても困ると思い、イノは無言を貫くことにする。
テーリヒェンは窓を見るのをやめ、自身の質問の答えを出す。
「エンターテインメントだよ」
自慢げな顔をしながら、テーリヒェンはこちらに振り返った。
イノはそれに肯定も否定もできず、じっと待つことしかできなかった。
「帝国に余裕ができたということは、爵位の方々が戦争をご覧になる機会も増えていくだろう。VIPの方々に、つまらない戦争をお見せするわけにはいかん。ならば、どうするか」
テーリヒェンは再びイノに問いかける。
そして、イノのすぐ真横まで近づき、その肩に手をかけた。
「お客様に見せれるものを作るしかないじゃないか」
テーリヒェンはイノの顔を覗き込む。
嫌悪感を顔に出すわけにはいかない。
イノは顔を強張らせた。
「人員をもっと増やしてもいい。より派手なものにするんだ。この自爆魔法は戦闘の勝利を決定づける、いわばフィナーレなんだよ。ならば、多少多くの犠牲を払っても、お客様によく見えるようにした方がいいに決まっておろう!」
テーリヒェンは熱弁する。
彼にとっては、これが何よりも冴えたやり方だと思っているのだろう。
テーリヒェンは、言うだけ言って満足したのか、イノの肩から手を放し、自分の机の方へと戻っていった。
彼が喋っている間、押し黙っていたイノはようやく口を開いた。
「……お言葉ですが、『エンゲルス』の魔法士を増やすことは、あまり得策ではないかと」
テーリヒェンの背中に向かって、イノは意見を述べる。
すると、テーリヒェンは形相を変えた。
「はあ?なんだねきみぃ!」
勢いよく振り返ったテーリヒェンは、大きく足音を立てながら、イノのもとに近寄る。
「エルステリア人をもっと増やせば威力も上がるだろう!あれも、放っておけば勝手に増えるんだ。足りなくなる心配などする必要がない!」
テーリヒェンは大きくその手を振り上げ、唾をまき散らしながら主張する。
それは人を、全く人として見ていない者の言葉だった。
イノは自分の中にふつふつと湧き上がるものを感じるが、鋼の意思でそれを表には出さない。
テーリヒェンは再び、イノのすぐそばに立った。
「それともなんだね?君は誇り高きサラメリア人でありながら、エルステリア人の肩を持つというのかね」
彼は尋問するように、イノの目の前で質問を投げかける。
答えを間違えれば、その場で斬って捨てられるか、弾丸で風穴を開けられることだろう。
そんな、人の命を何とも思っていないような危うさが、この男にはあった。
イノは意を決して、再び口を開く。
「……作戦で使用される魔導兵器は、指定の人数でなければ発動しません。増やせばいいという話ではないのです」
イノは慎重に言葉を選んで、質問に答える。
そして、手元の書類をテーリヒェンに突き出した。
「よろしければ、魔導兵器と魔石の設計についてもう一度説明いたしましょうか。長くなってしまうかもしれませんが……」
二人の間に沈黙が流れる。
額ににじんでいた汗が、雫となって顔の側面から滴り落ちる。
とても長い時間が経った気がした。
「もうよいわ!」
テーリヒェンは、イノの手を書類ごと振り払った。
そして、荒い鼻息のまま、部屋の出口に向かう。
「ならば、人数を変えることなく魔法を派手にしろ。いいな!」
テーリヒェンは乱暴に部屋の扉を閉めて出ていくのだった。
部屋には、散乱した書類の中に立ち尽くすイノだけが取り残されていた。