第187話 誰も知らない救世主
「ワークスの妹が、軍の意向によって死刑にされそうになっている」
ラルフがそう口にした瞬間、ディルクの動きがぴたりと止まった。
「……なんだと?」
「ああ、悪い。恩人だが名前は知らないんだったか。でも、なんとなく分かるだろ?」
ラルフの言っていることを、その場の誰も理解ができなかった。
だが、確かにラルフはワークスの妹という言葉を強調し、ディルクに伝えた。
ディルクがそれに反応した……?
「実の妹だよ。お前も無視はできねえはずだ」
ラルフは追い打ちをかけるように付け加える。
それに対し、ディルクは何も言い返さなかった。
ラルフの言葉を最後に、外の雨音だけが店内に響き渡る。
しばらくの葛藤の後、彼は扉から手を離した。
ディルクはこちらに振り返ると、無表情のまま、真っ直ぐとラルフの方に向かう。
そして————ラルフの隣の席に腰を下ろした。
「……やはり、『エンゲルス』隊長の彼女だったのか……まさか、こんなことになってるとは……随分とよくない話になっているものだ」
ディルクは急に態度が変わり、深刻な顔で考え込み始めた。
一連の出来事に、イノ達は呆気に取られる。
ラルフの言った言葉の意味は何なのか。
二人の間で、一体どんな示し合わせがあったのか。
「どうして、急に……?」
イノがディルクに問いかける。
ディルクは座ってから少し考えた後、話し始めた。
「俺の心変わりはお前達とは何ら関係ない。ただ————あの男に借りがあるだけだ」
彼の言うあの男というのは、間違いなくワークスのことだろう。
ワークスとディルクとの間に何の関係が……?
いや、そうか。
ディルク・ゼクレス少尉は帝国軍参謀本部、ヴィルヘルム・アマデウス・ニューロリフトの直属の部下だ。
そのヴィルヘルムは『エンゲルス』、もといイノ達、第七兵器開発部の考案者。
そして、第七班の前身は————ワークス達、『ライト・ピラー』を作り出すために召集された魔法学者チームである。
そこまで考えれば、彼らの間に接点がないと考える方が不自然だ。
「ワークスと……知り合いだったのか」
「何があったのかを詳しく話すつもりはないが、要は命を救われたのだ。あの時、彼に出会っていなければ、俺はここにはいなかっただろう」
そんなことが……?
彼とワークスの間にそんな過去があったなんて。
改めて、イノは自分がワークスについて何も知らないということを思い知らされる。
ワークスが帝国に来てから、一体何があったのかということを。
「俺は彼のことを何も知り得なかった。彼の情報は軍によって統制されていたからだ。俺は彼の名前も、出自も、何も知らない。なんなら、俺と会った時は顔が変わっていたらしいから、本当の顔さえ俺には分からない」
ワークスの存在は、当時の軍政府によってひた隠しにされていた。
ワークスは、『ライト・ピラー』を作り出すために召集された魔法学者の一人であったわけだが、つまりは帝国の救世主になることを望まれた。
だが、軍の上層部、そして政府は、エルステリア人が帝国を救う英雄、となることをよしとしなかったのである。
ディルクが名前も、顔すらも知ることができなかったのはそれが理由だろう。
顔が変わっていたのも、そうしなければ外を出歩けないからだ。
変装魔法はワークスの十八番である。
イノ達がワークスのことを知ったのも、『エンゲルス』に配属された日であり、そこから今に至るまで、ワークスに関する守秘義務が課せられていた。
従って、一般人や関係者以外の軍人はワークスの名前すら知り得ない。
彼の存在を知っていたのは、『エンゲルス』の関係者か、本当に親しい人間だけであった。
「彼の名前こそ知らなかったが、妹が親友と共に帝国に来ている、という話は彼から聞かされていたのだ。もし何かあれば助けてやってくれ、などという呪いの言葉と一緒にな」
ディルクは複雑な表情を浮かべながら、イノから目を逸らす。
イノも随分と昔、同じことをワークスに言われた覚えがある。
ワークスとの関係性が深ければ深いほど、その呪いは一層その体を強く締め付けるのだ。
「親友の方は割と簡単に判明したわけだが、はっきり言って、最初に貴様に会った時、俺はその約束を果たすつもりは毛頭なかった。貴様があんなにも腑抜けた人間だとは思わなかったからな」
「……」
あの時は自分を見失っていたため、その評価にはぐうの音も出ない。
むしろあの対応に感謝しているくらいだ。
「だから、この借りは彼の妹に返すこととしよう。正直、ここまで深刻な状況になっている以上、協力できるかどうかは分からないが、話だけは聞くことにする」
ディルクは机に両肘を立てて、組んだ両手の上から挑戦的にイノの方を見つめる。
イノ達はこれから値踏みされるのだ。
この魔法技師達が、協力に値するかどうかを。
「今度は、俺を失望させないでくれたまえ」
イノはごくりと生唾を飲む。
とりあえず、話し合いの席には座ってくれた。
あとは、どのようにして協力をとり付けられるか。
商談、プレゼンの時間だ。
これに限っては、技師の仕事であると言える。
イノはまず、ここに至るまでの経緯を説明するところから始めた。