第16話 暖かい場所
「はあああああああああ~~~~」
イノは口から、今日一日分の鬱憤を吐き出す。
「なんだそのクソでか溜め息は」
喫茶店『イステル』
イノがいつも座っているカウンターの対面で、クルトが変な顔をする。
仕事終わりで日は既に暮れていた。
この時間帯はあまり客足が多くなく、暖色の灯りに照らされた店内にはイノしかいない。
コーヒーを片手に頬杖をついているイノの顔は、げっそりとしていた。
その要因の一つは間違いなくルビアである。
「いや、必要以上に疲れてるなぁと思って……」
怪訝そうに見ているクルトに、イノは最近の出来事を説明する。
「うちの部署、とある顧客の専属技師になったんですが。そのお客様がとんでもなくてでして……」
本日行った業務はこうだ。
午前中はいつも通りの作業やら事務仕事をこなした。
午後、ルビアが教室に訪れてから、女性三人に引っ張られて昼食を取った。
その後はなぜか他のメンバーは工廠に帰され、イノだけがルビアと一緒に中央街『レグルス』のパトロールである。
ルビアが暴走しないように常に気を張って、道が分からなくなった彼女にひたすら次の行き先を教える。
それを二時間続けた後、工廠に戻り、押している今日分の作業を急ピッチで終わらせたという。
他の三人————特にアイナとセシリア————はこの二週間、毎日が充実しているという顔をしている。
だが、イノの顔は木乃伊のようにしおれるばかりであった。
イノが今日の出来事をクルトに話すと、彼はいつものように豪快に笑う。
「へぇ~、いいじゃねえか。そういうの!」
「そうですかね……」
クルトはそう言うが、イノは賛同しかねていた。
どうしても外を出かけて歩くという行為が苦手だ。
イノが唸っている中、クルトは思い出に耽るかのように、腕組みをして上を見上げる。
「俺が若え頃は、国が戦争をおっ始めるってんでピリピリしている時でも、連れと馬鹿なことたくさんしてたもんだったが————」
行きつけの飯屋で食い逃げして怒られただとか、公道で車を乗り回して派手に事故っただとか、昔の武勇伝を語るクルト。
昔の彼も彼らしく生きてきたということなのだろう。
「青春、てやつですか?」
「そうさ。今はこんなんだから、なかなかあの頃にようにはできねえが」
クルトは少し寂しそうな表情をした。
世は戦争の真っ只中であり、彼も家庭を持って生活を固めている。
あまり無茶はできない環境になったのだ。
イノが一口、コーヒーを飲んでいると、クルトが前のめりになってイノに話しかける。
「お前のそれも、青春てやつだと俺は思うぞ」
「……」
そうだろうか。
イノにはこれを『青春』という言葉でまとめることに、抵抗があった。
青春には華やかなイメージがある。
しかし、今のイノの心にはモヤがかかったままだ。
ルビアと過ごしたこの二週間は、『本物』ではない。
彼女は、イノ達の本当の姿を知らないのだから。
心がズレている状態で彼女と過ごしたあの日々を、イノは青春と思うことができない。
いろいろ考えこんでいるイノをよそに、クルトはまた景気良く笑い飛ばす。
「それにしても、青年の口から女の話題が出るとはなぁ! 全く女っけがないもんだから心配してたんだぜ?」
ガハハと笑うクルトだったが、彼の後ろから気配がする。
その気配は大きく手を振り上げ、男の背中をはたき、鈍い音を喫茶店の中に鳴り響かせた。
「こら」
「いでっ」
背中を叩いたのは、ウラだ。
「茶化さないの!イノ君も日々の仕事で大変なのよ?」
腰に手を当てて、彼女はクルトに説教する。
一方的に背中を殴られ、怒られた男は少しむっとした表情を見せる。
「だってそうだろ? 一度しかねえ青春なんだ! それをこんな寂れた喫茶店なんぞに来やがって————」
「寂れたとか言うなっ!」
「いたぁ!」
急に喧嘩を始める二人。
この二人は、一日に一回は口喧嘩をしているのではないかというくらい、いつも何かしら言い合っているような気がする。
でもそれが、夫婦円満の秘訣なのかもしれない。
喧嘩するほど仲がいいとはよく言ったものだ。
イノがこの時できることと言ったら、冷静に二人をなだめることだった。
「まあまあ、落ち着いてください。俺は気にしてませんから」
イノが立ち上がって間に入ったことで、二人ともひとまず落ち着いてくれた。
白熱した言い合いのおかげで、肩で息をする二人。
お互いに黙り込んで気まずい空気になりそうだったので、イノの方から話題を振ることにする。
「そういえば、ウラさん。この前に紹介した小説はどうでした?」
「あ! あれ! とてもおもしろかったわ!」
ウラは、花が咲いたような表情を見せる。
彼女は大の小説好きなのだ。イノはそれを知って、よく面白い小説をおすすめしている。
「あの王道なようで王道じゃない感じがいいのよ。主人公は勇者なのに、誰もが忌み嫌うアンデットっていうのがね~」
「分かります。それゆえのキャラクターの苦悩がうまく描かれていますね」
「そうなのよ! ヒロインが泣きながら、村人に訴えかけるシーンがねえ! 昔好きだった英雄譚を思い出して熱くなったわ!」
「……仕事中に関係ない話するなよ」
「ちょっ、あんたには言われたかないわよ!」
話に入れなくて寂しくなったのか、クルトがボソッと悪態を吐き、それにウラが反論する。
また夫婦喧嘩が始まった。
それを見てイノも我慢ができなくなり、思わず吹き出す。
仕事の疲れも、暗い気持ちもこの時だけは忘れることができる。
橙色の角灯に淡く照らされた店内。
シンプルに彩られた内装と、綺麗に並べられた木製の丸テーブルと椅子。
何の変哲もない喫茶店で、いつもと変わらない彼らのやり取りを見るのが、イノは好きだった。