第168話 六色
一本道の通路を、イノはゆっくりと歩いていく。
足音を立てず、慎重に前にいる兵士との距離を詰めていった。
だが、いくら音を殺していたとしても、これだけ見晴らしが良ければ、監視兵の目を潜り抜けることはできない。
イノの姿が照明に照らされたことで、監視していた兵士の一人がイノの存在に気づいた。
「おい貴様! こっちは立ち入り禁止だぞ!」
兵士は条件反射的に銃を構え、強い警告を発する。
イノはそれを聞いて、その場で立ち止まった。
そして————
「ああ————す、すみません! 自分はノイマン二等兵でございます! ぐ、軍事資料保管室を探していたところ、道に迷ってしまいました!」
イノは敬礼しながら、偽名を名乗っていた。
咄嗟の機転が効かせて、いつものイノとは真逆のような、おどおどとした態度を演じている。
だが、帝国の軍人であることを名乗ったとしても、この先に進めるわけではない。
「なんだ……新兵かよ。資料室なら南側だ。お前めちゃくちゃ明後日の方向に来てるぞ」
「はいぃ……えっと————」
「ちょ、ああ待て! それ以上は立ち入り禁止だ————ったく、しゃあねえな」
髭面で大柄なその兵士は、銃を下ろしてポリポリと頭を掻く。
そして、色々考えた結果、迷子の新兵の方に向かった。
「おい、そんな奴に構う必要ないだろ。見張りに集中しろ」
「いいじゃねえか? これくらい」
もう一人の兵士、金髪の真面目そうな男を無視して、髭の兵士はイノの方に向かっていく。
普段から後輩に対する面倒見がいいタイプなのだろう。
大柄な見た目にそぐわぬ態度で、イノの元に近づき、笑顔を浮かべた。
「だからだな、この体をこっちだ!」
兵士はイノの両肩をガッチリと掴む。
そして、百八十度ぐるっと体を回転させた。
「がっはっは! 今度は迷うんじゃねえぞ!」
髭面の見張りの兵士は豪快に口を開けて笑った。
その時だった————
とてつもないスピードで、イノの右手が肩を掴む兵士の手に触れる。
————いや、触れるかというところで、青い火花のようなものが散ったのをルビアは見逃さなかった。
「————あぅ」
イノの指から青い小さな閃光が発された瞬間————
突如、イノの肩をつかんでいた兵士が脱力し、その場にへなへなと崩れ落ちた。
「おい、お前————」
「だ、大丈夫ですか!?」
後ろにいた兵士が何かを言おうとする前に、イノが大声をあげた。
慌てたように振り返り、倒れようとする兵士を支える。
もう一人の兵士が怪訝な顔をしながら駆け寄った。
「なんだか……急に眠気が————」
そう言った後、髭面の兵士は動かなくなった。
瞼を閉じて、既に大きないびきをかき始めている。
「あーあ、こりゃ完全に寝てらあ」
金髪の兵士が呆れた顔をして、頭を抱えていた。
その男から見れば、その兵士は業務中に睡眠に入った馬鹿で怠慢な男に見えるだろう。
今、目の前でおどおどとしている新兵が、何かしたとは毛ほども思ってはいない。
一連の行動を全て目にしていたルビアだったが、何が起こったのかはさっぱりだった。
ルビア視点では、イノが髭面の兵士の手に自分の指を近づけた瞬間、兵士がフラフラと倒れて眠りについた。
意味が分からないが、そうとしか言いようがない。
「い、今のはなんだ? イノは何を使ったんだ!?」
ルビアはイノが一体何をしたのか、興奮気味にオスカーに問うた。
そんなルビアに対し、オスカーは瞳を虹色に光らせ、冷静に答える。
「『トール・エレメント』、雷を司る精霊、雷属性エレメントの魔法ですね」
『トール・エレメント』
火・水・風・地の四大精霊から派生した比較的新しい属性。
ルビアも聞いたことがあった。
確か大陸の極東の少数民族のみが扱うことができる珍しい魔法だったはず。
そんなマイナーな魔法まで、イノの能力なら扱えるということなのか。
「リーダーは、『トール・エレメント』を用いて人体に影響がないほどの微弱な電気信号を発生させました。それを神経系から中枢神経に伝搬させ、脳を眠らせた」
「……そんな魔法、聞いたこともないぞ」
「彼のオリジナルです。しかも術式なしで……」
ルビアはそれを聞いて鳥肌がたった。
人の睡眠は『ししおどし』に似ているという。
竹で作られた筒に水を溜め、それがいっぱいになった時の重みで筒が頭を下げ、石を叩いて音を鳴らすという東洋の風情のある装置だ。
睡眠も同じようなもので、人間は活動していれば必ず眠気を溜め込む。
その眠気がある一定以上溜まった時、竹筒は頭を下げ、人は眠りにつく。
そして溜まっていた眠気が竹筒からなくなれば、それは頭をあげ、人はまた覚醒するのだ。
イノはそんな人間の機能を、魔法で意図的に操作した。
脳の一部機能を雷属性魔法によって抑制させることで、人の睡眠を強制的に引き起こした。
竹筒の頭を無理やり下げたのだ。
それも、人間の体に害のないほどに小さい出力で、最小限の機能の抑制のみを行なっている。
後遺症が残らないように、最適な魔法とその魔法出力を選択して。
イノは術式を一切用いず、生来の魔法制御のみでそれをやってのけている。
「尋常じゃないほど繊細な魔法コントロールと、人並外れた人体に関する知識量がなければできない芸当です。本当に化け物ですよ……!」
まるで高等医療のような魔法技術と医療知識。
熟達の医者のような手際だ。
医学ほど習得の難しい学問もない。
それに、医療知識など普通の魔法技師には必要のないものである。
日々の開発に追われているはずの魔法技師が知っているはずがないのだ。
それでも、イノがそれを習得しているのは並外れた記憶力と向上心、そして彼の真面目さからくるものだろう。
彼の頭の中に一体どこまでの知識が入っているのか、誰も計り知れない。
イノは、眠ってしまった兵士を静かに床に寝かせると、ゆっくりと立ち上がった。
そして、怪しまれないように自然に、もう一人の兵士の後ろに回り込む。
「まったく……酒は抜いておけってあれほど言っておいただろうが。こんなことで俺まで怒られたらどうしてくれんだ————」
兵士の愚痴もその途中で寸断される。
ふにゃふにゃとその場にへたり込み、金髪の方の兵士の意識も夢の中へと誘われた。
イノが人差し指で兵士の首に触れたのだ。
そして、同じく『トール・エレメント』を用いて兵士を眠りにつかせた。
これこそが、第七兵器開発部リーダーの魔法士としての実力。
『六色』
イノ・クルーゼ。
「僕は、リーダーこそが世界最高の魔法士だと、ずっと思っていますよ」