第130話 過ぎた日
気づくとイノは帝国の街に出ていた。
カーテンを閉め切った教室で分からなかったが、太陽はもう天頂を通過している。
中央街『レグルス』の大通りは、昼時で腹を空かした人達が店に集まり、賑わっていた。
ひたすらにルビアは、イノの力ない手を引っぱり続ける。
この道は見覚えがあった。
ある日、イノがアイナを連れて走った道だ。
アイナが『エンゲルス』に配属される日の早朝。
何もかもを投げ捨てて、現実から逃げようとした。
あれが正解だったのか。
アイナの制止を無視して、そのまま走り続ければよかったのだろうか。
だがイノは、それすらもできないような半端者で、臆病者だった。
そして、今も俺は————
「……やめてくれ」
イノはルビアに言った。
これ以上、歩かないでくれと。
しかし、ルビアは前を向いて歩き続けていた。
「やめてくれって……!」
イノは少しだけ力を入れ、ルビアの手を振り払った。
その時、ルビアは歩みを止め、イノの方に振り返る。
特に会話がなく、大通りを抜ける風の音だけが二人の間に響いていた。
イノは振り払った自身の手をもう片方の手で強く握りしめる。
ふとイノの口が勝手に動き出した。
「俺は……クソだ」
一体俺は何を言い出すんだろう。
自分でも分からないままにイノは言葉を発し続ける。
心の奥底から湧き出るような感情を、そのまま言葉にする。
「俺は、間違ってもしてはいけないことをしたんだ……こんな俺に気を使うのはやめてくれ」
とてつもなく弱々しい声でイノは話す。
弱くて力のないイノには、何も成し遂げることができなかった。
自分はそういう人種なんだと。
イノは自分の弱さを呪った。
そして、弱くてどうしようもないイノは。
一番信頼していたはずの仲間にまで、ひどいことをしてしまったのである。
「教室の荒れ様、見ただろう。俺達の醜い最後の結末を……俺達は負けたんだ、現実に……!」
ルビアはイノの話を、黙って聞いていた。
身を削って、何もかもをぶっ壊して。
全てをやり尽くしても、何も変えられなかった。
醜い俺達は、ただみっともなく足掻いていただけだ。
「敗北を悟った後は、ひどいもんだった……」
何時間、教室で言い争っていただろうか。
もう終わったことなのに。
今更何を言ったって無駄だというのに。
それでも、憤る自分の中の何かを押さえつけることはできず、俺はただただ二人を傷つける様なことを言ってしまっていた。
「俺は……あろうことか人のせいにした。自分が一番悪いんだって、本当は分かっているはずなのに……!」
イノは自分の右手を潰すんじゃないかというくらいに強く握る。
まるでその右腕に、後悔も、悲しみも、負の感情の全てが込められているかのように。
ルビアはそれを止めようと、手を伸ばした。
「イノ————」
「触るな!!」
イノはルビアを拒絶した。
目を固く閉じ、体を震わせながら、ルビアと距離を取る。
「頼むから……こんな俺に、優しくしないでくれ……」
悲痛な声で、イノはルビアに頼んだ。
もう、放っておいてくれ。
一人に、させてくれ。
弱々しいイノは、ルビアが伸ばしてくれている手を、素直に受け取ることができずにいた。
また、風の音と街の喧騒だけが聞こえる。
『レグルス』はいつも通りの時間を経過させていた。
ルビアはしばらく何も話さなかったが、ふうっと息を一つだけ吐き、再びイノをまっすぐと見る。
「優しくなどしない」
イノはハッと顔を上げた。
ルビアは一歩前に進み出る。
「むしろ私は怒っている。せっかくデートと言って連れ出したというのに、ずっとそんな態度ではつまらないではないか」
ルビアは両手を腰に当て、口を膨らませていた。
イノは彼女の顔を呆然と見つめる。
「だから、私は君に優しくしない」
がしっと、イノの腕を掴んだ。
そして、強く引っ張る。
「君がなんと言おうと、また立ち上がらせる」
イノはルビアの碧眼を見た。
宝石のように綺麗だが、人を動かそうとする強い意志を感じさせるものだった。
だが、イノはすぐに視線を逸らし、下を見る。
ルビアはそんなイノに構わずに前を向いた。
「……とにかくついてきなさい。行きたいところが山ほどあるんだから」
ルビアは再びイノの手を引き、歩き出した。