第118話 近づくこと
「ワークスは……アイナの兄上は、昔から冷酷な人物だったのか?」
ルビアが本をペラペラとめくりながら、イノに質問する。
そんなにその本に見入って欲しくないわけなのだが……
「そんなことはない。ワークスは魔法学者としてのみならず、兄としてもよくできた人間だったよ」
「……だろうな。ここに書いてある文章を見れば、彼のことがよく分かる」
ルビアはワークスの書いた文を指でそっとなぞる。
「魔法の専門知識というよりは、人間のありのままの姿がこの本には描かれているような気がする……素人の私から見たら、そんなふうに感じるんだ」
確かに、論文のタイトルを『魔法原子論』としていながらも、中身に魔法学的な記述はほとんどない。
人間の『つながり』だとか、『解放』だとか、魔法とはなんの関係もなさそうな話が続いている。
論文というよりは、散文や随筆の類だ。
ワークスはどうしてこんなものを書こうと思ったのだろう。
幼かった彼には論文の書き方を知らなかったと言われればそれまでだが、彼はこの本を通して何を伝えたかったのだろう。
しかも一人でではなく、当時のイノを捕まえて、一緒に。
俺に何かを伝えようとしていたのだろうか……?
「イノは、アイナの兄上のことをその……恨んだりはしていないのか?」
イノが考え込んでいると、ルビアが再び問いかける。
「アイナが『エンゲルス』になってしまったのも、イノがこんなに苦しんでいるのも、全ての元凶は『ライト・ピラー』を開発したワークス・パップロートにあると言える。彼に対して、やっぱり思うところはあるのか?」
ルビアは少しだけ気まずそうにしていた。
これが踏み込んだ質問であると感じているみたいだった。
イノは少し考えた後、教室の窓の外、遠くを見ながら答える。
「当時は、少し恨んだりもしていたのかもな……」
ワークスが『ライト・ピラー』を開発したことが公表されたときは、耳を疑った。
魔法と同じくらい、人間を愛していた彼のことだ。
イノが知っているワークスは、そんな魔法を作る人間ではなかった。
どうして彼がそんなことを。
狼狽し、空を仰いでは、目の前にはいないワークスに訴えた。
イノは、徐に見ていた教室の窓を閉める。
「けど、今はそれとはちょっと違う。ワークスは何の意味もなくそんな魔法を作るようなやつじゃない」
なぜそうしたのか。
なぜそうせざるを得なかったのか。
ワークスならもっといい魔法を思いついたはずなのに。
どうしてこんな魔法になってしまったのか。
イノはワークスの幼馴染なのに、彼のことをほとんど何も知らなかったのである。
「知らなければならないんだ。俺達は、もっと彼のことを」
稀代の天才、ワークス・パップロート。
天才だと言って遠ざかるのは簡単だ。
だが、そうしていてはいつまで経っても、『ライト・ピラー』を、あの光の柱が作り出す意味を知ることはできない。
この現実は変えられない。
戦争すらも、きっと終わらないだろう。
「……そっか」
イノは小さい声で呟く。
俺は怖かったのかもしれない。
ワークスに近づこうとすることが。
彼の思考に近づけば近づくほど、彼の本当の姿が見えてくる。
ワークスがどんな思いで、この魔法を開発したのかを知ることになる。
その時のワークスの姿は、イノが思っているようなものじゃないかもしれない。
イノは壊したくなかったのだ。
イノ、アイナ、そしてワークスの三人で過ごしたあの日々を。
思い出を汚したくなかった。
無意識に恐れていたからこそ、『ライト・ピラー』と魔法の開発から目をそらし、ギルベルトやスドーに頭を下げるという行為にまで至ったのだ。
あれは間違いだったとルビアに気付かされた。
随分と遠回りをしたものだ。
『ライト・ピラー』を調査し、そして改良することはワークスの意思に触れるということを意味する。
現に、この新魔法ができるにつれて、段々とワークスの思考に近づいている感覚があった。
光の保存や増幅だってそうだ。
ワークスの論文、著書に目を通したことによって、閉ざされていた昔の記憶が呼び起こされた。
彼の意思は、今のところイノ達に味方をしてくれている。
だが、本当にワークスは味方なのか。
『ライト・ピラー』を作った彼の意思は、まだまだ分からないことだらけだった。
「……昔話はこのくらいにしよう。すまなかったな、邪魔をした」
難しい顔をするイノを見て、ルビアは謝罪をした。
ルビアの言葉で、自分が思いの外、考え込んでいることに気づいた。
ふと、視線をルビアに戻し、例のイノとワークスの魔法原子論が視界に入る。
思いついたことがあり、イノは本を指差してルビアに言った。
「その本、アイナに渡してくれないか?」
「え?」
突然の申し出に、ルビアは少し驚いていた。
イノは後頭部を掻き、目線を明後日の方向に逸らす。
「アイナが好きだったんだ……その恥ずかしい本がな」
時折、アイナがこの教室でその本を懐かしそうに眺めている姿が見られた。
これを見て、当時のイノとワークスを思い出していたのだろうか。
ルビアはイノの頼みの意図を理解し、表情をほころばせた。
「分かった。渡しておく」
ルビアは本をコートの中にしまい、教室の出口へ向かった。
「引き続き、アイナのことは私に任せろ。イノは、為すべきことを為してくれ」
「ああ、分かっている」
そう言い残し、ルビアは教室を出て行った。
イノの目線は、再び月明かりの夜空に向けられる。
この魔法が完成した先に、ワークスの意思があるのか。
果たしてそれは、敵か味方か。
イノは自然と拳を握りしめていた。