第9.5話 海の精霊①
昔から帝国にはこんな噂がある。
帝国の海、『プライオル海洋』の浜辺にはとある精霊がいると。
精霊とは、草木、動物、人、無生物、人工物などひとつひとつに宿っているとされる超自然的な存在。
すなわち、人間が視認できる存在ではないはずだ。
しかし、『プライオル海洋』の精霊伝説は、古くから言い伝えられており、今でもその地に根強く残っている。
誰も、その姿を見ることなく————
「……って、噂があるの知ってる?」
セシリアが作業の休憩中にそんな話題を出した。
あいも変わらず、黒ずんだ壁から油の匂いがする教室。
いつも通りの場所で、メンバーそれぞれがおもいおもいの席に座り、おもいおもいの作業をしていた。
セシリアのその話に、前に座っていたアイナが振り向いた。
「聞いたことある……!会うと幸せになれるかもしれないって奴」
「そうそう! 夢があるよね〜〜!」
アイナが食いついて、女子らしいロマンチックな会話に花が咲く。
すると、その会話にオスカーが愚かにもコーヒーを持って割り込んできた。
「そうなんですか? 僕が聞いた噂ではその精霊は破滅の象徴で、会うととんでもない不幸が訪れるって話ですよ?」
「はああ!? そんな冷めるようなこと言うんじゃねえ! 死ね!」
「当たりが強いぃ……!」
オスカーはあまりのセシリアの口の悪さに卒倒しそうになる。
案の定、セシリアにあっちに行けと追い払われていた。
女子の会話に軽々しく、足を入れようろするからこうなる。
その光景にあははと笑っていたアイナは、ふとイノの方を見た。
「イノはどう思う? この噂」
話題がこちらにも飛んできた。
書類仕事をしていたイノは顔を上げずにアイナの問いに答える。
「興味ないな。そんな空想的なもの」
「出た出た。がちがちの魔法学的思考。魔法論的にありえないものはありえないって。そんなんだからモテないんだよ!」
「いないものはいない。それだけだ」
つまんねええ、と声をあげるセシリア。
だって、いないものはいない。
物理的に認識できず、魔法的にも証明できないのなら、いないも同然だ。
それならいないことの証明もできないじゃないか、というような消極的事実の証明は時間の無駄である。
魔法と人類の進歩には繋がらない。
セシリアが男共に愛想をつかして、再び女子同士の会話に戻る。
いつも通りの平和な日常だ。
だが、つい昨日から、この日常にちょっとした変化が混じり始めた。
「おや、誰か来ましたね」
扉の向こうからドタバタと音が聞こえてくる。
そして、その気配は教室の扉の前で止まり、すごい勢いで引き戸が開かれる。
「こんにちは!」
扉を勢いよく開けて入ってきたのは、ルビア・アマデウス・ニューロリフトだった。
彼女の服装は軍服ではなく、最初にここを訪れた時のような私服姿だった。
淡い系の色のシャツにズボン、ラフではあるものの、彼女の凛々しさが際立つ服装だ。
赤く長い髪をたなびかせ、室内に入ってくる有名人に、全員、目を丸くしていた。
「『赫星』……軍のエース……!」
「本当に来た……!」
アイナとセシリアの二人は顔を輝かせる。
専属の魔法技師になるとは言ったが、まさか本当に来るとはみんな思っていなかったのだ。
「いらっしゃい! ルビアさん!」
二人はルビアの元に飛びついた。
ルビアが再び、ここを訪れてくれたのがよほど嬉しいのだろう。
そんな二人の反応に、ルビアは少し照れたように顔を背ける。
「さん付けはやめてくれ。そんなに歳は変わらないだろう?」
「ほんと? じゃあルビアで! 私、セシリア!」
「アイナ……です」
お互いに呼びやすい呼び名を提示し、距離を縮めていく。
その点、セシリアは順応が早いが、アイナはまだ緊張しているみたいだった。
ルビアは二人に笑顔を送った後、奥にいるオスカーに目線を移した。
「あなたは……オスカー、で合ってるか?」
「合ってます。いらっしゃいルビア」
僕はデフォルトが敬語なんでお気になさらず、と変な注釈を入れるオスカー。
なんで年下であるルビアが友達口調で年上のオスカーが敬語なんだよ。
年長者としてのプライドはないのか。
「そして、君がイノ、だったな。呼び捨てで構わないか?」
ルビアは当然のように、さらに奥にいるイノと精神的な距離を詰めようとする。
その手には乗るか。
専属魔法技師になることは承諾したが、友人になるとまでは言っていない。
イノは反抗的な意思を持って、ルビアに対し丁寧にお辞儀をする。
「お好きにどうぞ。今日は、一体何の御用でございますか……公爵令嬢様?」
「君……昨日はそんな態度じゃなかっただろう。気色の悪い敬語は使わないでくれ」
イノの仰々しい挨拶を聞いて、ルビアはムスッとした顔を浮かべた。
その表情に対してイノは笑みを浮かべながら、その姿勢を保ち、言葉を続ける。
「じゃあ何の用でございますか? 私達も暇ではありませんので、用がないなら帰っていただけると」
「ちょっと、イノ」
セシリアから非難の声が飛ぶ。
構うものか。
俺は権力には屈しないぞ。
だが、イノの態度を意に介さず、ルビアは腕組みをして笑った。
「ふふん、もちろん仕事中の君達に用もないのに押しかけたわけではないぞ」
ルビアは胸を張ってドヤ顔をしている。
そして、イノを指差して、言い放った。
「私がここにきた理由……それは、チェスのリベンジだ!」
「は?」
その場にいる全員が目を丸くした。
教室から一瞬音がなくなったみたいだ。
当の本人は言ってやったぞみたいな顔をしているが、イノ達は誰一人として、ルビアの勢いについていけてなかった。
なにゆえチェスなんだ……?
「あの時は、私のプライドを苔にされたような気分だった。今度は自分の力で戦ってもらうぞ! さあ、イノ! ここにチェス盤を持ってこい!!」
「嫌」
イノはルビアが言うか言わないかくらいで即答した。
ルビアはその拒否の言葉に一秒くらい固まったが、すぐに憤慨した。
「は、はあああああああ!? 貴様! あんな勝ち方のまま逃げる気かあ!」
「言葉遣いが乱れてますわよ。お嬢様」
教室の机をバンバン叩くルビアに対し、おちょくるようなことを言うイノ。
ルビアの顔は先日のようにまた赤くなっていた。
「うるさい! どうしてやってくれないんだ! 私と戦え!」
「だって、別にそんなチェス好きじゃないもん」
イノの子供みたいな言葉にルビアがポカーンと口を開ける。
オスカーがその様子に噴き出しながら、注釈を入れる。
「リーダーは極度の貴族嫌いなんで、貴族の遊戯であるチェスもあまり好きじゃないんですよ」
チェスといえば、古来から貴族の遊びである。
庶民に浸透してきたのはつい最近の話だ。
上流階級の金持ちが遊ぶものを、貴族が嫌いなイノが好き好んでするわけはなかった。
ルビアは空いた口が塞がらない様子だったが、イノの頑固な態度を見て、肩を落とした。
「はあ、じゃあもう今日はいいよ」
「代わりにこのオスカーが相手いたしましょうか?」
「別にいい」
「なんで!?」
ルビアはオスカーの誘いを軽くあしらう。
オスカーの扱い方が分かってきたようであった。
って、まさかとは思うが————
「本当に用事ってそれだけなのか?」
だとしたら、本当に暇人である。
帝国士官で軍の若きエースが、そんなんでいいのか……?
「ああ、違う違う! 一応ちゃんとした依頼があってきたんだ」
イノが訝しい目でルビアを見ていると、彼女は慌てたように言った。
一応、というところが、まるで依頼の方がついでのように聞こえるが……
魔法技師を何だと思っているんだ。
ルビアは、教室の一つの席に座り、依頼内容を話す。
「実は、私に防具を作って欲しいんだ」
依頼は至って普通のものだった。
武器の調整をしてくれたので、次は身を守る鎧というわけだ。
「私の今使っている防具は、私の魔法の熱に耐えられる硬い金属で作られているが、少々重いんだ」
ルビアは自分の体を触りながら、イノ達に依頼の理由を説明する。
今は私服だが、防具をきた時のことを思い出しているのだろう。
「機動力に問題が出ているわけではないのだが、私も軍人として、そこを妥協せずに突き詰めたいと思っている。そこで、君達に熱に耐えられて軽い防具を依頼したいんだ」
なるほど。
『赫星』という二つ名がつくだけあって、彼女の戦闘スタイルはスピードに特化した遊撃なのだろう。
その上で、ニューロリフト家由来の高火力魔法を扱う。
そのために、熱に強く、軽い鎧を求めるのは当然の帰結だろう。
イノは自身のチームメンバーを見つめる。
すると彼らは、目を輝かせてイノの方に振り向いた。
「イノ! 作ってみたい!」
「やりましょうか!」
「うん……!」
セシリアもオスカーもアイナも皆、乗り気だった。
こうなるとイノに拒否権はない。
「オーケー、依頼を引き受けよう」
「本当か!? ありがとう!」
イノが頷くと、ルビアは満面の笑みを浮かべた。
何だか照れ臭くなり、イノは顔を背けて後頭部を掻いていた。
実際、こちらとしても嬉しい部分はあるのだ。
まともな魔法技師としての仕事ができるのだから。
「で、どのようにしましょうかね」
オスカーが早速、方針を相談しようとする。
魔法の防具を作るにも、様々な工程が必要だ。
設計、防具の作成、術式の作成、結合、検証————
だが、それよりもまず最初にやらなければならないのは、素材の選定である。
イノは顎に手を当てて、しばらく考える。
「軽くて熱に強い素材か……だったら、あれがいいかもな」
そして、イノはこの依頼にうってつけの素材があることを思い出した。
*
目が痛くなるほど眩しい空の下、海がきらびやかに光っている。
寄せては返す海水の波が、白くさらさらとした砂を洗った。
砂浜の上で、薄着のまま躍動する女子が三人。
きゃははと楽しそうな声を上げながら、海水を掬いそれを掛け合う。
仲睦まじく、体を密着させながらはしゃぐ。
青春。
まさに女子達のみずみずしい青春の一場面がそこにある。
すると、彼女達が遊んでいる中に、一人の逞しい青年がやってきて————
彼女達に声をかけるのだった。
「遊んでんじゃねええ!!」
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「はい、というわけで」
ぱしんと掌を叩いて、気を取り直す。
イノの前には、アイナ、セシリア、オスカー、そしてルビアが整列していた。
「君達にはこれから魚をつかまえてもらいます」
イノの言葉を聞き、オスカーがガッツポーズをする。
「いいですねえ! 大物を釣り上げるのは男のロマンですよ! 腕がなります!」
「ええ……なんで男臭い趣味にあたし達が付き合わないといけないんだよぉ」
一方で、セシリアはあまり乗り気じゃないみたいだった。
普段機械いじりばっかりしてる奴がよく言う。
そもそも釣りは男しかしないというのは偏見だ。
男は船で女は港。
なんて、男の浮気性を語った言葉があるが、今の時代、女も釣りくらいする。
たぶん。
「それで、魚釣りが防具作りとなんの関係があるんだ?」
単純な疑問を口にするルビア。
よくぞ聞いてくれた。
イノはそれを聞いて片方の口角をあげる。
「釣るのはただの魚じゃない、魔獣だ」
「魔獣?」
魔獣とは、生物が自然界の魔素によって変異した魔法的生物のことを指す。
基本的に通常の生物より力が強く危険だ。
魔法を使うものもいる。
それゆえに、数は少なく、その素材は希少価値が高い。一国民が簡単に手が出せないほどには高額だ。
ちなみに魔獣と似通った生物である魔族は、人工的な魔法によって作られた、あるいは生物を変異させた化け物のことを指す。
「今回のターゲットは『ヴォールス』という魔獣だ」
イノは魔獣の名を口にした。
他の四人は、その名前を聞いたことがない様子だった。
「どんな魔獣なんだ?」
「大きさは大体五メートルほど、色は黒だ。エラ、背ビレ、尾ビレなど基本的な構造は魚と一緒だが、なぜか腹の部分に人間のような足がついている」
「きっしょ」
セシリアが素直すぎる感想を述べた。
それ絶対に人に向かって使うなよ。
死人が出るぞ。
「その魔獣は普段、海底火山の近くに生息しているんだ」
海の中の火山。
地上の火山のように爆発的な噴火をすることはあまりないが、それでもマグマが噴出され、その温度は1000度を優に超える。
そんな過酷な環境下で『ヴォールス』という魔獣は生きているのだ。
「なるほど……すなわち、熱に強い生物なのか」
「その通りだ。その魚の鱗を用いれば、かなりの温度に耐え、そして軽量な防具が出来上がるはずだ」
ルビアが納得がいったように頷いている。
火山の熱に耐えられるなら、熱の耐性は申し分ない。
そして、動物の素材は、鉱石素材よりも軽量だ。
まさに、今回の依頼にうってつけのものである。
「でも……そんな深いところに住んでいるなら、こんな浅瀬にはいないんじゃないの?」
アイナがさらなる疑問を呈する。
それに対し、イノは淀みなく答える。
「それがだな。この時期になるとこの近辺まで浮上してくるらしい。目撃情報もあるんだ」
「へえ〜、変な生物ですねぇ」
確かに妙な生態ではある。
だが、深海と浅海の水圧差に耐えうるほどの体を持っているということだから、素材の頑丈さを裏付ける証拠でもあるのだ。
イノはあらかた魔獣の説明を終えて、早速ターゲットを捕獲する準備を行う。
「ほら、これを持っていけ」
イノは全員に、とある魔石をぽーんぽーんと放り投げて渡した。
その魔石は橙色の輝きを放つ、手のひらサイズのものだ。
「この魔石は水中の周囲五十メートルほどの熱を感知することができる。その名も『サーモ・スキャナー』だ」
「うわ、そのまんま」
ほっとけ。
こんな地味な魔石にたいそうな名前をつけてどうするというのだ。
「いつ作ったんだっけ、こんなの……」
「覚えがないですねえ……」
アイナとオスカーも困惑したような顔をしていた。
俺がいつどんな魔石を作ってたっていいじゃないか。
唯一、ルビアだけが目を輝かせて魔石を見ている。
「ど、どうやって使うんだ? 早く使ってみたい!」
「あー分かった分かった。これを使って、この沿岸を捜索する。これが今回の作戦だ」
イノが面倒くさそうに手を振って、興奮するルビアを制する。
魔獣『ヴォールス』を捕獲するための説明は以上だ。
しかし、まだ決めなければならないことがある。
「それで、早速やっていくんだが、荷物番を誰かに頼みたいんだよなぁ」
イノは自分の後方にある様々な荷物に目を向けた。
今回の捕獲作戦に必要なものはあらかた持ってきているので、それぞれが持って歩けないほどには大荷物だ。
海に入るゆえに貴重品等も置いていくので、誰かに見てもらいたい。
帝国軍のエース様がいるところから、何かを盗ろうという輩はいないとは思うが……
「私……残るよ」
すると、アイナが挙手した。
女性陣は全員海に入りたそうだったから、オスカーか自分が残るつもりだったのだが、アイナが立候補してくれた。
「アイナ……」
「私、運動苦手で体も弱いから……足手纏いかなって」
そんなことない、と言いたいところだったが、魔獣の捕獲作戦はおそらくかなりの重労働になる。
力の弱いアイナにできることは少ないと思われた。
イノは少し考えて、溜め息を吐いた後、アイナの方に近寄る。
そして、優しく、その頭を撫でた。
「すまないな。いつもこんな役ばかり」
「……いいよ」
アイナの好意に甘えている節があるのは自覚している。
後でちゃんと感謝をしなければな。
「アイナ! 早く仕事を終わらせて、海でいっぱい遊ぼ!」
「う、うん」
セシリアが声をかけてくれたことにより、アイナも笑顔になる。
イノ達は、アイナと荷物を全て日陰に置き、作戦を開始する準備を整えた。
「よし! じゃあ捜索開始だ!」
*
イノ達一行は、『プライオル海洋』の海岸沿いを北側と南側で二人一組になって分かれた。
南側はセシリア・ルビア組、素潜りで直接ターゲットを探す。
北側はイノ・オスカー組、釣り糸で一本釣りを狙う。
両組とも、常に熱感知の魔石、『サーモ・スキャナー』を発動させて、念入りに索敵を行なっている。
そして、その中間地点、アイナは荷物番をしていた。
「……いい天気」
雲一つない、青々とした空が広がっている。
何もかもが蒸発しそうな太陽の強い日差しが、海を、砂を焼いていた。
そんな日差しを意にも介さないように、海の波はゆったりとした一定のリズムを刻んでいる。
それを見るアイナの心を穏やかにする。
アイナは海が好きだった。
休憩中によくこのゆったりとした波を見にくるくらい。
内陸の生まれということもあり、アイナにとって海はとても新鮮で、物珍しいものだった。
辛いことも、悲しいことも、全部この波が洗い流してくれる。
何か落ち込むようなことがあった時、アイナはここに来て洗い流して、一時だけでもそれを忘れようとするのだった。
アイナはしばらく、海を眺めていた後、手元の本に目を戻す。
読んでいるのは魔法の技術書だ。
アイナは常にこれを持ち歩いて、少しでも暇がある時に読むようにしている。
自覚があった。
私が、他の三人よりも劣っているという自覚が。
何ひとつとして、彼らに勝てると自信を持って言えることはない。
イノの行動力やリーダーシップ、セシリアの明るさやタフネス、オスカーの分析力やサポート。
どれも、今のアイナには欠けているものだ。
だからせめて、魔法の知識だけは追いつこうと、こうして本を読んでいるのだ。
「……」
イノは私が荷物番の役を担うことに対し、謝ってくれていたが、そんなことを言ってもらえる資格などない。
私が自ら進んで申し出たのは、私が適任だと思ったからだ。
一番役に立たないアイナには、これくらいのことしかできないと。
そんな劣等感が、アイナには染み付いている。
いつからか、もしかしたら生まれた時から、アイナは自分を誰かと比べていた。
そして、少しでも劣っているところを見つけ、自分を卑下してしまう。
そんな自分が、嫌だった。
もっと自分に自信をつけたい。
自分だけができることを見つけて、みんなの力になりたい。
そう思ってはいるのだが、体がついてこないのである。
「ダメだな……私って」
思わず口から漏れる。
私にできることって、なんだろう。
いつか見つかるのだろうか。
私が、自信を持って、彼らの前に立てる時が。
「……もうっ」
だめだだめだ。
こんなネガティブになっているようでは、一生そんな日は来ない。
まずは消極的に、悲観的になってしまうこの思考から改善しないと。
とりあえずは、この嫌な感情を、海の波に流してもらおう。
アイナは立ち上がり、海の方へ進み出た。
その時————
「……あれ?」
ふと、海の前で辺りを見渡した時。
アイナの視線がとある部分で止まった。
海岸沿いに一人の子供が歩いていたのだ。
さっきまであんな子供、歩いていただろうか。
子供がこんなところに来るのがおかしいというわけではない。
砂浜など、子供の絶好の遊び場であろう。
それでも、一人でふらふらと歩いている様子は、アイナを心配にさせた。
もしや、迷子なのか。
アイナはしばらく様子を見る。
遠目でよく見えないが、その子供はなんの変哲もない一人の女の子だ。
アイナとは反対方向を向いていて、顔が見えないので分からないが、きっと不安そうな顔をしているに違いない。
その少女は、そのままふらふらと、砂浜の奥の草木の茂みへと入っていった。
このまま放置していては危険なのではないか。
あそこの茂みの奥は樹海とまではいかないが、それでも子供の足ではそれなりに広いはずだ。
それに、管理もろくにされていない土地であるため、鋭い木の枝などで怪我をしてしまう危険だってある。
だがしかし、アイナは荷物番という大事な役目がある。
劣等感から申し出た役目だ。これすらも十分にこなせなかったら、みんなが役立たずに呆れ果ててしまうだろう。
どうしよう。
こんな時、イノだったらどうするか。
イノだったら————
「……よし」
そう考えた時、自ずと答えは決まっていた。
アイナは足を前に踏み出し、強い日差しの中、その子供の背中を追いかける。
少女の足跡を辿りつつ、茂みを掻き分け進んでいると、大きな岩壁にぶちあたった。
「行き止まり……?」
いや、少女の足跡はまだ続いている。
アイナはそれを目で追ってみると、その先には人間一人が入れそうな洞窟があった。
その岩穴は先が何も見えないほど暗く、不気味だった。
地面も岩がごつごつと隆起しており、注意して歩かなければ足を挫きそうだ。
少なくとも、人が常用するような通路ではないことは確信できた。
まさか、こんなところに入っていったのか。
ますます、危険だ。
こんなところ子供じゃなくても、何があるか分からないというのに。
急いで追いかけないと。
アイナは一歩洞窟へと踏み出す時に、ほんの少しだけ恐怖を感じた。
だが、それを振り払うかのように、アイナは迷わずその洞窟の中に入っていった。