第99話 夕焼けの展望
夕映えが、空を赤く染め、雲を黄金色に輝かせている。
イノの目線の先には、水平線に落ちようとする太陽があった。
ここの展望台はよく目を凝らせば、『プライオル海洋』が見える。
沈もうとしている太陽の光が反射している海の水、こちらまでその漣の音が聞こえてきそうだった。
広大な街と海、そしてたくさんの人間の生活を見渡すのはとても爽快で、イノは悩みがあったり、鬱憤が溜まった時によくここに来る。
しかし、今日はいくらこの景色を見ても、心にかかったもやを晴らすことはできない。
煙草ももう、十本目になる。
イノの心は、何をどうしても沈む一方だった。
イノはふと真下を見下ろしてみる。
中央街を一望できるだけあって、それ相応の高さがあった。
足を踏み外せば、一溜まりもないのだろう。
いっそ、ここから落ちられるのなら、どんなに楽になるのだろうか。
きっと、全ての苦しみから解放される。
自由落下のスピードとともに、心のもやも苦痛も、全てを置き去りにしてくれる。
何もかもから、解き放たれる————
だが、それだけは許されない。
テーリヒェンを手にかけることよりも罪深いだろう。
自分だけ楽になって、逃げる行為なのだから。
しかし、その手段が候補に浮かぶほど、イノは追い詰められていることには違いない。
イノの精神は、既に限界を迎えていた。
すると、後方で気配がする。
この足音、前回と同じだ。
「だから、煙草やめなよ」
その声は、まさしくルビアの声だった。
女性なのに男らしさを感じるような、よく通る真っ直ぐな声。
それが、イノの背中にぶつかる。
イノはその声から逃げるかのように、早足で歩き出した。
ルビアの方は一切向かずに。
「逃げるのか?」
ルビアは止めようとするが、イノの足は止まらない。
夕暮れの太陽を背にして、その場所を離れようとする。
「そうやって、大事なものから目を背けて、君は逃げ続けるのか」
ルビアのその声に、早足だったイノの足はぴたっと止まった。
そして、ルビアに背を向けたまま、頭を振る。
「……逃げてなんかない」
イノは低い声を震わせていた。
声と共に震わせた両手で、イノは自分の顔を覆う。
「ちゃんと、向き合おうとしているんだ……現実に……!」
なんとかして、現実を見ようとしている。
現実と向き合って、前を向こうとしている。
だからこそ、イノはやらなければならないことをやっている。
設計書も作った。
テーリヒェンにも、会いに行った。
アイナの任命式には行けなかったけど、彼女が強くなったことは、知っている。
間近で、その姿を見せつけられた。
頭では分かっている。
アイナなら、もう大丈夫だと。
イノが側にいなくたって、もう大丈夫————
「でも————そんな簡単に切り替えられないんだ」
イノは、ルビアの方に振り向く。
夕日で金色に照らされたイノの顔は歪んでいた。
「嫌なんだよ……! 耐えられないんだよ……! アイナを過去にして前に進もうとするのが!」
イノの声は次第に強くなっていた。
アイナを過去にする。
死にゆく彼女のためにも、イノは前に進む。
一層決意を固くして、成長して、生きていく。
クルトの時みたいに————
そんな簡単に割り切れない。
割り切れるわけがない。
それだけ、イノにとってのアイナの存在は大きいものだった。
「イノ……」
ルビアは、イノの葛藤を、苦悩を、黙って聞いていた。
太陽が水平線に飲み込まれ始める。
空は青から紫へと変化し、氷が張ったようにしんとし始めた。
「イノ、君は優しい————君が誰よりも仲間のことを思っていることを、私は知っている」
ルビアは一歩前に踏み出す。
そして、淀みなくイノに訴えかけた。
「なのに、どうして君は諦めようとしているんだ」
彼女は真剣だった。
こういう時に、中途半端な態度を取らないことをイノは知っている。
「……なにを」
イノの目が痙攣する。
彼女の言っている意味が分からなかった。
「どうして、助けたい仲間を助けようとしない。やるべきことをしないんだ……!」
ルビアにとって、イノもアイナも大切な友達だからこそ、なのだろう。
だから、ルビアはあくまで誠実にイノに問いかけている。
だが、イノは彼女の真っ直ぐな意思を、受け取れずにいた。
「……どうして……だと」
イノは俯き加減で低い声を出す。
拳をこれでもかと言うくらい握りしめていた。
「俺が……何もせずに、諦めたとでも思っているのか!?」