第96話 吸い殻
イノは煙草を吹かした。
煙草に含まれる薄荷脳が鼻の奥や喉元を刺激する。
溜め息とともに吐き出した煙は、まっすぐ上に立ちのぼり、青空に消えていった。
眼前には、中央街『レグルス』の街並みが広がっている。
石煉瓦で綺麗に舗装された道に沿って、彩りの豊かな煉瓦、石、材木と様々な造りの住宅が並んでいた。
産業革命以降、近代建築が広まりつつあるものの、この展望から見る帝国の景色は何も変わらない。
道には排気ガスを吐きながら進む車と、帝国の人々が往来し、いつもの賑わいがそこにある。
そこにいる人々全員が、今ある平和を噛み締めて、いつも通り日々を生きている。
帝国は何も変わっていない。
イノは再び煙草の煙を肺に入れ込む。
最近、碌に食事が喉を通らない。
栄養を体が拒否しているかのように、受け付けない。
その代わりに、不健康なものばかりを摂取している気がする。
あの日、アイナの成長した姿を目の当たりにした。
いつも自分の後ろをついて歩いていたような女の子が、胸を張って一人で歩き出している。
逃れられない死への道へと、歩き出している。
彼女の手を引いて走ってはみたものの、その姿を見てしまった時、イノの足はもう動かなかった。
引き止めることができなくなってしまった。
何度も何度もあの日のことを考えて、後悔して、どうすればよいかを自分に問い続けた。
そして、何もできなかった。
イノはまた一息、タバコを吸う。
すると、イノの後方から気配がした。
その気配は、何も言わず早足でイノの方に向かってくる。
そして、その人物はイノの真横に来て、手に持つ煙草を取り上げた。
「煙草、嫌いなんだけど」
赤髪を靡かせ、鋭い碧眼をこちらに向けてくる。
その人物は、ルビアだった。
非番なのだろうか、ルビアの姿はイノの前に立ちはだかった軍服姿ではなく、普段着の姿だった。
第七班によく顔を出していた時のベージュの服。
軍帽も被ってはいないので、彼女の長い赤髪と碧色の瞳をまともに見たのは、随分と久しぶりに感じられた。
だが、彼女の顔は、あの時のように和やかなものとは到底言えない。
イノはルビアのことを認識したが、すぐに景色に目線を戻した。
「何やってるんだ。こんなところで」
「……」
何をやっているかと問われれば、何もやっていない。
何かをやるという気力も、微塵も湧かない。
イノはルビアの問いに沈黙で返すしかなかった。
「式典————見に行かなくて良いのか」
「……」
今、『エンゲルス』の任命式が執り行われている。
その壇上に立っているのは、アイナだ。
アイナを助けることができなかった。
その結果が、俺を責めるようにして、大体的に、豪華に行われている。
そんなもの、誰が見たいと思うのか。
この問いにもイノは答えずにいると、ルビアは目線を下に下げる。
「……私は、知らなかった」
ルビアは苦々しく言った。
やり場のない感情を抑え込むかのように、力が入っているのが分かる。
「アイナが、そんなことになっているなんて————全然、知らなかった」
ルビアは、前回の特別作戦の日以来、イノ達と関わっていない。
アイナの事など、知る由もなかっただろう。
箱入り娘だったルビアにとって、初めてできた友人。
そんな友人のピンチを何も知らなかったというのが、彼女は悔しかったのだ。
「だから今日、アイナのことを知って、イノがどうしてあそこにいたのかもなんとなく分かった」
イノが何をしようとしていたのか。
なぜ、あんなに取り乱していたのか。
何のために。
誰のために。
罪を犯そうとしていたのかも————
何かに抗い続けていたんだということも、全部分かったんだと。
ルビアは言葉を続ける。
「でも————私は、間違っていたとは思っていない。君をあの場で止めたことを」
ルビアは再びイノのことを、真っ直ぐと見つめる。
彼女の誠実さが現れる、真剣な眼差しがイノに向けられた。
しかし————今のイノはその誠実さを正面から受け止められるような精神状態になかった。
「そんなことを、わざわざ言いに来たのか?」
イノは冷たい目をする。
全てに絶望した者の目。
その冷たい目に圧され、ルビアは数歩後ろに後退りした。
「もういいだろ……」
ルビアはまだ何か言いたげな表情をしていたが、イノはそれを無視する。
イノはルビアに背を向け、その場を後にした。