最期に私は笑っていた
私は大きく深呼吸をし、額に浮かぶ汗を拭う。
ここは密閉された空間で、湿度も高い。
気をしっかり持たなければ、すぐに脱水症状になり、肝心な時に動けなくなるだろう。
右手に巻かれた赤い腕章は、私を決して逃さない。
軍の輸送機内に設置されている座席に腰をかける。
そして、支給された丸型水筒の水を一口飲み————
数秒、目を閉じた。
「……大丈夫ですか?」
すると、一人の女性が私に声をかけてくれた。
私の部隊の副官にあたる子だ。
淡い黄色の髪を小綺麗にまとめている彼女は、見た目通り、きちんと仕事をこなしてくれる優秀な隊員だった。
彼女はブラシで私の髪を撫でつけてくれた。
それだけでも、張り詰めていたものがほんの少しほぐれる。
「ありがとう、うん、なんともないわ」
私は努めて明るく彼女に返答する。
作戦開始も近いのだ。
部下に変な心配をかけるわけにもいかない。
「誰の事を、考えていたんですか?」
私は一瞬、何のことか分からなかった。
だが、すぐに思い当たる。
私達が出立する前に、とある魔法技師が私達を訪ねてくれた。
その瞬間を、私は無意識に頭に思い描いていた。
「そうね……彼のことを考えていたわ」
最後に見た彼の顔はひどく疲れていて、険しい顔をしていた。
何かを、私に伝えたそうな顔をしていたのだ。
感謝なのか、あるいは謝罪なのか。
しかし、彼は結局何も言わず、私達の元を去っていってしまった。
「あの人は……隊長の想い人、だったのでしょうか?」
副官は、慣れた手つきで私の髪を結びながら、私に問いかけてくる。
私は少し考えてから答えを出す。
「そうね、そうだったかもしれないわね」
今になって、自分の気持ちに素直になれる。
きっと、私は彼が好きだった。
だから、最後になんでもいいから、彼に何かを言って欲しかったのだと思う。
それとも————私が、彼に伝えたかったのだろうか。
私がそう答えると、副官の手が止まった。
振り返ると、そこには泣きそうな顔をしている副官がいた。
「もう、あなたがそんな顔しないの」
私は副官の額を指で軽く弾く。
いてっ、と声をあげる副官。
私は無性に愛おしくなり、その子の頭を撫でてあげた。
彼女のおかげか、すこしごたついていた私の心は、もう落ち着いていた。
「さて……」
機内に表示されている時刻を確認し、そろそろ作戦が始まることを悟る。
私は立ち上がり、機内を見渡した。
隅でブルブルと震えている者もいれば、まるで死んでいるかの如く、虚な目をしている者もいる。何らかの宗教の呪いのようなものをぶつぶつと呟いている者もいた。
部隊の士気は最悪と言ってもいいだろう。
私は右手の腕章を強く握りしめた後、声を張って部隊に呼びかけた。
「みんな!立ち上がって!」
私が呼びかけても、反応を示した隊員は少なかった。
それでも、私は言葉を続ける。
「みんなが、ここに来たくなかった気持ちは分かるわ。私も、望んでここに来たわけじゃない」
この場所に自分から来たものは一人もいない。
何も悪いことをしていないのに、どうして平和な日常を手放さなければならないのだろう。
ここに来るまで、何回も思ってきたことだ。
「それでもここに来たのは、守りたいものがあったからでしょ!」
守りたいものがあるからここにいる。
副官の子には、大好きなおばあちゃんがいるらしい。
震えていた人も、目の輝きを失っていた人も、隊員達には家族がいる。
私達が立ち上がらなければ、彼らの日常はどうなるか分からない。
だからこそ、私達がやらねばならない。
私の訴えに、一人ずつ隊員達が顔を上げ始める。
「私の好きな人が、平和に暮らせるように、今、私はここにいるんだ!」
強く、皆の心に呼びかける。
この世界には、夢も希望もないのかもしれない。
ここにいる自分は、なんの意味もない存在なのかもしれない。
それでも————自分の命を賭してでも、守りたいものがある。
「みんなもそうだろう!」
胸の前で強く手を叩き、皆の心に火をつける。
私の声に、一人、また一人と、隊員達が足を踏ん張り、立ち上がってくれた。
そうだ、俺が守るんだ、と次々に奮起の声が上がっていた。
副官の子が、笑顔で手を叩いてくれる。
私はみんなを見渡しながら、ゆっくりとうなずいた。
「大事な人の、英雄になりましょう」
「目標地点に到達。これより、『ヴァルキリー』を開始する。総員出撃準備」
機内に無機質なアナウンスが流れる。
特別作戦部隊の七人は、お互いに円を作るように向かい合い、位置についた。
私は軍服の懐から、漆黒のケースを取り出した。
この黒いケースは簡単には開かない。
魔法によって、封印されているからだ。
私は、あらかじめ教えられていた封印解除の呪文を唱える。
すると、黒いケースがボロボロと崩れ始め、中から光り輝く真っ赤な石が出現した。
中身が血で満たされているかのように、禍々しいつやを放つその石は————『魔石』。
魔法を行使するために使われる術式が組み込まれたその石は、帝国軍の兵器だ。
魔石は、私達が何もせずとも、勝手に浮遊し、そして徐に七人の輪の中心に移動した。
そして、淡く、赤い光を放ち始める。
「降下三十秒前」
再び機内のアナウンスが鳴る。
私達の準備は、もうできていた。
「隊長」
隣にいる副官が話しかけてくる。
副官は穏やかな笑顔で、私の方を見ていた。
「私、強い隊長とやれてよかったです」
彼女も、他の隊員も、みんな穏やかな顔をして、私の方を見ていた。
最後の最後で、ひとつになれたのかな。
別に私が何かをしたわけじゃない。
みんな、ちゃんと分かっているんだ。
自分達がここにいる意味が。
「降下十秒前……九……」
ついにカウントダウンが始まる。
秒数が少なくなっていくにつれて、私の心臓の鼓動も早くなる。
どれだけ覚悟したとしても、自分が恐怖しているのを実感した。
副官の子は私のことを強いと言ってくれたが、そんなことはない。
この強さは、好きな人からもらったものなのだから。
でも、この強さがあるから、私は戦える。
「三……二……一……総員出撃」
一瞬だけ、息が止まる。
次の瞬間には、輸送機の床が開放され、私達は空中へ解き放たれていた。
密閉された空間から久しぶりに、七人は外の空気に触れる。
眼下には果てしなく広がる雲の海。
奥に落ちそうな夕日の光が皮膚を刺激する。
まるで風景画のような光景の中に私達がいた。
七人は自由落下を続ける。
私は、吸いにくい息を無理矢理吸い込み、部隊に向けて命令を下した。
「総員!詠唱開始!」
七人は同時に胸の前に手を組み、呪文を唱え始める。
訓練で頭に叩き込み、七人で何度も練習したものだ。考えなくとも口が勝手に動いてくれる。
呪文の詠唱を始めると、落下する七人を覆うように、球体状の赤い光が出現した。
私達は目を瞑って詠唱を続ける。
私達を包むその光は徐々にその輝きを増していく。
そのまま七人は厚い雲を抜けた。
分厚い雲を抜けた先は、戦場だった。
七人の真下に広がるのは、魔族の大群。
人間よりも上位の存在、より多くの人間を殺すために生まれた悪の権化だ。
その魔族達と、帝国軍の魔法士が熱戦を繰り広げていた。
あちこちに、敵味方の魔法が飛び交う中、私達は降下していく。
そして————最初に変化が起こったのは、私の対面にいる隊員だった。
「ブハァッ!」
口から大量の血を吐き出す。
目からも血が流れ出し、破裂するように身体中の皮膚が破け、出血しだしたのである。
変化が起き始めたのはその隊員のみではない。
副官や他のみんなも、体から血が吹き出し始めた。
「ギャアアアアア!!」
「痛いっ……痛いよぉ!」
壮絶な痛みにより、悲鳴をあげる隊員達。
徐々に体が崩壊していく恐怖は、常人では計り知れない。
そして私も、身体中が張り裂けそうな痛みに襲われ、目から、口から、どろどろと生温い液体がこぼれ出すのを感じていた。
「グゥ……アアッ!」
喉から勝手に、苦痛に満ちた声が漏れ出す。
痛い、痛い。
体が、裂かれて、千切れて、焼かれていく————
いっそ、今すぐ死んでしまったほうが楽だと思うくらいの苦しみ。
それでも、私達は詠唱を止めない。
これが、私達に課せられた任務なのだから。
やがて、七人が纏う赤い光は、強固な盾となって詠唱中の七人を守る。
空中にいる魔族達を弾き飛ばしながら、魔族の大群のその中心部へと突き進んでいった。
地面が近づくにつれ、呪文も最後の章を紡ぎ始める。
私はふと目を開け、隣にいる副官の方を見た。
副官は、頭部が変形しており、もう原型を留めていなかった。
見るも無惨な姿になり、ところどころ変形した体から血が絶え間なく吹き出し続けている。
それでも、もはや人間を止めてしまっていても、詠唱が途切れることはない。
私は、少し笑う。
あまりにもひどい光景に笑ったのか、自分の惨めさに笑ったのか、もう定かではなかった。
そして、私達は呪文を最後まで唱え切った。
最後に私が考えていたのは、想い人のことであった。
特別作戦部隊が放つ赤い光は、その輝きを一層増していく。
それが魔族の大群の中を割っていき、地面に辿り着くと————
巨大な光の柱が現れ、魔族の全てを包み込む。
その光は瞬く間に広がり、天空を切り裂いた。
その様子はとても壮大で幻想的、まるで天界から天使が召喚されたかのような輝きを放っていた。