第十二話 雨の悪魔
大丈町に入ってから、雨が降り始めた。降ってくるものは水滴ではなく、無数の線のようにも見える。天気予報では降水確率三十パーセント。雨は降らないだろうと思い込んでいたのが大間違いだった。傘は持ってきていないから、バッグを傘代わりにするしかない。
「死にたい、か……」
ぼんやりと窓の外を眺めると、通勤中のサラリーマンや傘をさして園児を送りに行く親子の姿が見える。自分も昔はあんなことされていたんだっけ、彰介は深く溜め息をついた。
彰介はバスから降り、バッグを頭に掲げて走った。地面を足で蹴る度に水たまりが飛び散り、靴の中に染み渡る。あまり長い時間は雨に濡れたくないため、普段は通らない近道へと向かった。
「ちょっと、離してよ! 触らないで!」
突然聞こえた甲高い女性の声に足を止めた。大抵の声なら雨の音で掻き消されてしまうが、それでも耳に響くほどの大きな声だ。彰介は声の聞こえた方を見てみて、やっと事の重大さに気づく。
「……蓬奈?」
天から絶えず降る雨のせいで視界が悪い。けれど彰介の目にはしっかりと蓬奈の姿を捉えた。そして彼女の細い腕を握って自由を奪うスーツ姿の大柄な二人の男。その近くには彼らのものと思われる黒い車が停まっていた。運転席にも同じような姿をした男が座っている。
彰介は足元に捨てられていた空き缶を手に取り、それを一人の男に目がけて投げつけた。が、狙い通りにはいかず、黒い車にあたり、乾いた音を響かせる。
「おいおい、何の真似だ?」
男は雨に濡れながら、彰介の方へと目線を向ける。そして運転席に座っていた男も外に出てきた。状況は三対一、完全に彰介が劣勢。こんな体格のいい三人とまともに太刀打ちは出来ない。
「蓬奈に触れるな!」
それは叫ぶようであり、また怒鳴るようでもあった。さっきまで運転席にいた男は彰介の元へと駆け寄り、懐から刃渡り三十センチ程のナイフを取り出す。ナイフの刃に雨粒が落ち、雫の奇麗な輝きが生まれた。
「五秒やる。遺言は?」
男は淡々とした口調で尋ねてきた。
「これだけ近寄ってくれてありがとよ」
彰介は水分を十分に吸収したバッグを男の顔面に押し付ける。そして男が怯んだ隙に、彰介は蓬奈の元へと走った。
しかしそれはすぐに静止された。蓬奈の腕を掴んでいた二人の男は片手で拳銃を握り、銃口を彰介の方へ向ける。
初めて見た拳銃。本物かどうかはわからないが、男たちの雰囲気からして玩具ではなさそうだ。下手に動いたら体に鉛玉を埋め込まれてしまう。
彰介の体には、まとわりついた雨と、自分の皮膚から滲み出る脂汗に包まれた。心拍数もあがり、今にでも心臓は飛び出しそうなほどだ。
「彰介、後ろ!」
あまりの恐怖で震えた蓬奈の声が彰介の耳に届いた瞬間の事だった。脇腹に激痛が走る。反射的に手で押さえると、ぬるりとした生温かい液体が脇腹から滝の様に流れていた。鮮やかな赤い色をした液体。段々と体が重くなり、雨に濡れた地面へと倒れ込む。いきなり起きた出来事で、彰介は全く状況を読み取る事が出来なかった。
拳銃を構えた二人に夢中になり過ぎて、怯ませた男の存在は全くと言っていいほど頭から外れてしまったのだ。
「嘘でしょ……。彰介! 起きてよ!」
蓬奈の声が徐々に遠くへと去っていくような気がした。目の前は薄暗くなり、急激に体が冷たくなっていく。
そうか、拳銃で足止めをされた時にナイフで脇腹を貫かれたんだ。彰介はやっと場の状況が理解できた。死ぬかもしれない、死んだらどうなるんだろう。天国行きかな、それとも地獄行きかな。何故かこんなくだらない事しか考えられない。
もっと大事な事があるのに……。
彰介が目を覚ますと、ベッドの上で寝ていた。清潔な白いシーツが体の上に被せられ、周りはクリーム色のカーテンで覆われている。
「あ、やっと起きたか」
秀幸の声だ。その隣には遥子がいて、向かい側には明樹が週刊誌を広げていた。そしてカーテンに覆われた空間の隅には奏衛門が立っている。
「……何で俺ここにいるんだ?」
雨の降った朝の日に何かあったような気がする。けど、夢かもしれない。今のこの時間も夢のように思える。
「今日の朝、女の人から電話があって、あんたが病院に搬送されたって事だから父さんと母さんにそのこと伝えたの」
週刊誌を見ながら明樹はそう教えてくれた。
そうだ、朝俺は脇腹を裂かれたんだ。彰介はまるでキャンバスに色を塗るかのように、あの時の一部を思い出される。突然の悪夢だった。
「蓬奈は?」
「心配しなくていいよ。蓬奈は無事だから」
たったその言葉だけだったが、彰介は安堵の表情を浮かべた。
夜になり、美味いとは決して言えない入院食を食べて、消灯時間が訪れた。周りの風景がいつもと違うせいか、全く眠れない。やっと寝れたと思っても三十分ほどで目が覚める。まだ朝は遠い。夜の病院は嫌な空気が漂っていた。
ぼんやり部屋の天井を眺めていると、軽快な足音が聞こえてきた。看護師の見回りか何かかと思ったのだが、それにしても様子が変だ。足音は段々と大きくなり、彰介の近くへと迫る。そしてゆっくりとカーテンが開いた。
「こんばんはー」
「……どちらさん?」
「命の恩人よ」
見た事もない女性だ。長くて艶のある黒い髪で、そこそこ顔立ちも整っている。女性は懐から名刺を取り出すと、それを彰介に渡した。
「郷鈴会総本部所属、幡坂薫。……郷鈴会?」
冬衛門の内弟子たちが口にしていた組織だ。じゃあ彼女は大蔵山家と関係があるのだろうか。そもそもこの組織って何だろう。と彰介の脳内で様々な言葉が飛び交った。
「そこに載ってる電話番号とメールアドレスは仕事用なんだけど、プライベートのやつ欲しい?」
「いや、いいです……」
見た感じ悪い人ではない、ような気がする。でも裏世界で働いていることは確かだ。あまり油断は出来ないし、朝の男たちと何か関わりがある可能性もある。
「ちょっと失礼」
薫はそう言うと彰介の服をめくり上げ、傷口を眺める。そしてその傷口を指でなぞった。鈍い痛みが彰介を襲うが、そこは我慢。
「もうくっついてるよ。速いなぁ」
「……あんまベタベタ触らないで下さい」
「恥ずかしがってるの? 年頃だもんねー」
そういう問題じゃねえよ。
それにしても雰囲気からして明樹に似ているな、と彰介は思う。勝手に話を広げるところとか。
「それより、もう面会時間とっくに過ぎれるんですけど……」
「面会時間? 何それ」
彼女の話によると、病院の裏にある扉をピッキングで開け、一階ずつ上って彰介を探したという。一般人じゃまず不可能な行動をこの人はやる。彰介からしたら非常識者だ。
「で、貴女は何しに来たんですか?」
「それはね……」
彼女はゆっくりと口を開いて語り始めた。
思えば物語も終盤に突入です。
次回辺りからあの人が○○○○で、この人が××××って事になるかもしれません。ならないかもしれません。
もしこの小説が無事に完結したら、次の小説を書くのは来年になるかと思います。受験シーズンは辛いですね。何で小説書いてるんだろう、俺……。
高校受験か大学受験かは秘密です。