極限の構え
「21敗目ですね」
アルマが下から上へと振り上げたモップがヴィンスの顎先を掠め、どさりとヴィンスの身体が地に倒れる。
「今日はあなたを限界まで追い込みます。さあ、立ちなさい」
ヴィンスは立ち上がると両の拳を顔の前に。いないいないばあと呼ばれる拳闘の構え。顎を揺らされて倒れたためにその警戒か。
「抗いなさい」
「〈筋力強化〉!」
ヴィンスの白い肌の下で筋肉が隆起する。
既に今日だけで20戦以上。そこまでの中で無数の術式がヴィンスの身体を覆っている。〈加速〉〈魔力鎧〉〈素早さ〉〈鎮痛〉……。
効果が切れたものをかけ直しているにしても10以上の術式が持続されているのだが。
「シィッ!」
双のモップがヴィンスを襲う。
頭狙いのものを拳で叩き落とし、脇腹狙いのものを肘で払う。
そして前に出て拳を振るうが、いとも容易く避けられる。
強化術式の分、ヴィンスのほうが動きは速い。それでも彼が拳を振るおうとした先に既にアルマの姿はないか、防御のためのモップがすでに構えられているのだった。
突き出されたモップがヴィンスの鳩尾を打つ。
横隔膜が痙攣し、ヴィンスは地面に転がりえずいた。
「22敗。さあ、立って構えなさい」
ヴィンスが息を整え、〈治癒〉魔術を行使。
アルマがモップを〈念動〉で撃ち出すが、それは転がって回避された。
「〈治癒〉を使う時に警戒出来るようになったのはとても良い事です。習慣付けていきましょう。さあ、抗いなさい」
無数の敗北を重ねさせ、疲労の極致へ。そこで何が浮かび上がるか。何も得られず沈むか。
ヴィンスの腕が、脚が重くなる。それは疲労ゆえか、意志が折れていくゆえか。
あらゆる強化魔術を重ね、あらゆる徒手空拳の構えが試された。拳闘や空手、組み討ちのタックルの構え。
だが届かない。アルマの2本のモップ、そしてスカートから伸びる蹴りを止めることができず、攻撃を届かせることができない。
「99敗目ですね、次が100です」
疲労の極致。今日すでに6時間は続けている。いくら魔術で回復させ、水分だけは補給しているとはいえ、単純にエネルギーが足りていないだろう。立ち上がろうとして脚が痙攣を起こしている。
「さあ、抗いなさい。それとも、もう構えも取れませんか?」
朦朧とした頭、ただ抗えという言葉に反応して身体が動く。
だが何をすれば通用するのか?
立ち上がったものの身体が前へと傾いでいき、何とか右脚が前に出て倒れるのを防ぐような有り様。
アルマの側に右肩を向けた、右半身が前の半身となる。それでも手は上に。
右手は拳を握り正面へ。左手は掲げられるも体の後ろで開手。
「ふむ」
アルマが呟く。
ヴィンスは反応しない。
彼女がモップを突き出すと、それは右手の甲で弾かれた。
袈裟がけ、斬り返し、突き。どれも右手の掌か甲で捌いていく。
手の届かない脚狙いの斬撃。
それは素早く後ろに飛び避けられた。仕切り直しか。否。
「はっ!」
ヴィンスの呼気と共に気迫が走る。全速での前への飛び込み。
それはアルマの虚をつき、彼女はそれを防御できず懐へと飛び込まれた。ヴィンスの伸ばされた右手がアルマへと届かんとする。
だがそこで、彼は意識を完全に喪失した。
飛び込んできたヴィンスをアルマは身体で抱き止める形となる。
エプロンドレスの胸元に彼の頭が乗り、全身が力を失って体重をかけられている。全身から滝のように流れる汗が白いエプロンへと染み込んでいった。
「坊っちゃま……」
その声は彼に届かない。
「なるほど、フェンシングですか。お上手でしたものね」
翌朝。
ヴィンスが目を覚ますとそこはベッドの中であり、もう日は高く昇っていた。
全身は拭われたのかさっぱりとしていて、窓の外には自分のパンツやアルマのエプロンが紐にかけられて風に揺れている。
枕元に置かれていたパンツとシャツを着て足元の靴を履く。
ベッド脇の机には水差しとしっかりとした食事が並べられていて、メモが挟まれていた。
口の中がからからだ。水差しをとって、そのまま飲み干しながらメモを読んだ。
『おはようございます。
昨日はよくがんばりました。買い物に行ってきますので昼には戻ります。しっかりと食事をしておいてください』
昨日は夕飯も取らずに寝てしまっている。食事の匂いを嗅いだら腹がぎゅるりと鳴いた。
食後、ストレッチをしているとアルマが別荘へと続く道を歩いてくるのが見えた。涼しげな森の小道を歩くアルマの横には買い物で買ってきたであろう食材や掃除用具が布などの大量の荷物がふわふわと浮いて付き従っている。
「おかえり、アルマ」
「……ただいま戻りました、ヴィンス。体の調子は?」
「大丈夫です」
「ではお待ちくださいね。荷物を置いてくるので」
そして数分後。
「ヴィンス。昨日の最後の構えは覚えていますか?」
朦朧とした意識の中、フェンシングの構えを取ったのは覚えている。
ヴィンスは右足を前、左足を後ろの半身を取る。足を開いて重心を落とし、右手を前に、アルマの方へと向けた。
「フェンシングですね?」
「はい、意識が朦朧として、気づいた時にはこの構えをしていました」