修行の始まり
ヴィンセントとアルマが別荘へと到着した翌日である。
決闘士としての修行を始めるべく2人は屋敷の周りに広がる草原に向かい合って立った。
「さて、ヴィンセント坊っちゃま」
「うん」
「トゥーリア奥様、坊っちゃまのお母様にお仕えできる方がわたし以外にいなかったため、わたしが奥様の護衛兼侍女兼メイドの立場にいることはご存じの通りでしょう。
まあ、それなりに腕が立ちますし、一通りの家事もできますから、こうしてたった2人で隠れて修行するのにも向いているわけです」
メイド服を隙無く着込んだアルマは話す。
ヴィンセントは頷いた。
「ですが、これから坊っちゃまを鍛え上げるとなると家事の時間はそこまで取れませんからある程度は坊っちゃまにもやってもらわねばなりませんし、食事の味もお屋敷のように凝ったものは出せません。
ただ、身体を作るのに必要な栄養をしっかり摂らなくてはならないので、不味くても食べ切るようにして下さい」
「はい、お願いしますアルマ……いや、師アルマ。これからはぼくのこともヴィンセント坊ちゃまではなく、……ヴィンスと呼んでください」
ヴィンセントの言葉にふふ、とアルマは綻ぶように笑った。
「いいでしょう、我が弟子ヴィンセント。いや、ヴィンス。では脱ぎなさい」
「え」
「脱ぎなさい」
ヴィンスは服のボタンに手をかけた。
下穿き一枚の姿となったヴィンスが立つ。
陽光の下、初夏とは言え空気は涼しい。ヴィンスが二の腕を擦った。
真っ白な肌、薄く筋肉がついてはいるがまだ少年の体型。
「基本的に体術の修行はそれで過ごしなさい。決闘士養成所もそうなのですから」
「アルマは?」
彼女はにやりと笑みを浮かべた。
「おや、わたしを脱がせたいのですか?」
「ち、ちがいまっ」
顔を赤らめてヴィンセントが言う。
「ふふ、ヴィンスがわたしのメイド服を汚損できるくらいに力がついたらわたしも着替えましょうか。
それより武器はどうしますか?」
ヴィンスは予め用意していた答えを告げる。
「素手で戦おうと思っています」
「不利ではありますが」
「武器や杖に魔力を通せないので」
彼の魔力放出は、魔力の伝導率が高い杖にすら魔力を通せないのである。
「ふむ、まあ良いでしょう。格闘技を極めるにせよ武器を扱うにせよ、どのみち素手での戦いは必要です」
そう言ったアルマの手には忽然と木の棒が握られていた。一方の先端には布がついたモップである。アルマは両手に一本ずつのモップを逆さに垂らして自然体で構える。
「抗いなさい」
「え……は、はい!」
アルマが無雑作に右手のモップを横薙ぎに振る。慌ててヴィンスは後方に飛び避けた。とん、と軽い音とともに地面を蹴ってアルマが前進。
軽い音とは裏腹に尋常ではない速度でヴィンスの前に立った彼女は左のモップをくるりと回し、彼の足を刈る。
どうと倒れたヴィンスの眼前に右のモップの柄尻を突きつけた。
「1敗目です」
アルマはそう言うとくるりと踵を返し、先程の位置まで戻った。
ヴィンスは転ばされた痛みも感じられないほど唖然として彼女を見上げる。
アルマはじっと赤い目で彼を見つめている。ヴィンスは慌てて立ち上がり、両の拳を胸の辺りに構えた。
「抗いなさい」
とん、と足音と共にアルマが迫る。
後退した分、先程より間合いがある。ヴィンスは短縮詠唱とキーワードを唱えた。
「〈加速〉」
身体の行動速度を上げる術式。
アルマは先程と同じように右手のモップを横薙ぎに。加速された身体で飛び込むようにしてモップの軌道を避けるが、既に左のモップが振られている。
ヴィンスはそれを右腕、右肩であえて受ける。ばしんと肉を打つ音。
痛い。だが分かっていれば耐えられる。
ヴィンスはそのまま近づき左の拳を放とうとして……ぐらりと視界が揺れた。
仰向けに倒れゆく彼が見たものはスカートから伸ばされたアルマの足。
「2敗目です」
この言葉を聞き、意識を失った。
気を失っていたのは僅かな時間。右肩以外に顎が痛い。蹴り上げられたのだろう。身を起こすと先程の位置にアルマが立っているのが見えた。彼女が口を開く。
「弟子ヴィンス、治癒魔術は使えますか」
「……はい。……簡単なものなら」
「それは僥倖です。使って構いませんよ」
「はい。魔素よ集いて我が身を癒せ〈治……」
アルマが手を前に差し出すと、モップが飛翔する。投擲の動作など一切行っていない。だが力強く石が投擲されたかのように直線の軌道で飛んだそれはヴィンスの喉を打つ。
「ぐぇっ……!」
咽せて声も出せずのたうち回るヴィンスにアルマの声がかけられた。
「3敗目です」
口から唾液を垂らし、見上げるヴィンスの前でモップは浮遊し、ゆっくりとアルマの元へと戻る。
アルマは空中に浮遊するモップに腰掛けて言った。
「ヴィンスがその歳で既に強化魔術、治癒魔術を使えるのは素晴らしいことです。詠唱もある程度は短縮できている。なかなかの熟達と言えましょう。
ですが実戦で使うには甘い。今すぐに無詠唱にしろとは言いませんが、術式を使う時に隙があるようでは論外です。
特に治癒魔術は対戦相手が嫌がる。全力で阻害に来ると覚えておきなさい。もちろんそれだけ有効ということですけどね」
「〈念動〉……」
ヴィンセントが掠れた声を出した。アルマは頷く。
「ええ、その通りです。わたしが〈念動〉の使い手であることはご存じでしょう。〈念動〉は極めて戦闘にも応用しやすい術式です」
彼女が屋敷での家事に〈念動〉を使っていたのは良く見ていた。
だがここまで戦闘用に熟達しているとは思わなかった。
「さあ、続けましょう。抗いなさい」