はじめてのまほう
――大同盟暦107年春
「ヴィンセント坊っちゃま。こちらが今日から授業で使う、坊っちゃまの杖ですよ」
ローブ姿で痩せぎすではあるが、理知的な風貌の30歳くらいの男性が、少年に初心者用片手杖を差し出す。
ヴィンセントと呼ばれた少年は榛色の瞳をきらきらとさせて、その贈り物を恭しく両手で捧げ持つように受け取った。
「マカーリオせんせい、おとうさま、ありがとう!」
うわぁと呟きながら先端に星のついた小振りな杖、子供用の初心者用片手杖を見つめる。
少年は杖を渡した魔術の家庭教師であるマカーリオと、少し離れた場所に座っている父、ユリシーズに向かって頭を下げた。金の髪がふわりと揺れる。
ユリシーズは授業の邪魔にならないよう声は出さずに頷いて、ヴィンセントに向けて手を挙げた。
ローズウォール伯爵家の当主であるユリシーズは30代も半ば。貴族という立場に似つかわしくない程、筋骨隆々とした男性である。ヴィンセントと同じ金の髪の下の眼差しは厳しく、戦場で鍛え上げられた肉体は服の下で盛り上がっている。
先日、ローズウォール伯爵家嫡男であるヴィンセントはここ、王都ラツィオのタウンハウスにて5歳の誕生日を迎えた。
一般的に貴族の子供たちは6歳を過ぎたあたりから魔術の学習を始める。
彼は既に4歳のうちから魔術の学習を始め、今日がその初めての実践である。学習を前倒ししているにはいくつかの理由があった。
1つは父のユリシーズ・ローズウォール伯爵は自身の武功により成り上がった王国の新参の貴族であり、卓越した魔術の腕前によって王国の北の護りを任される、魔導伯とも呼ばる人物であること。
次にヴィンセントが非常に利発な子であったこと。
そして最後に、彼が魔力を持たずに生まれてきたことだ。
極めて高い魔力を有する父母、その子もまたその才を継ぐだろうと期待されていたが、産まれた子からは全く魔力が感じられなかったのである。
「では早速、〈点火〉の術式を使用してみましょう」
「はい!」
ユリシーズの前でヴィンセントが元気よく家庭教師に答えている。
彼が自らの子に落胆しなかったかと言えば嘘になる。
だが、そもそも魔法使いというものはそういうものだ。良血からのみ産まれる訳ではない。先祖にも魔法使いがいない平民の子が大魔導師となることもある。
故に彼もその妻も愛情を込めて育ててきた。だがそれでも魔術が使えないのであれば、ヴィンセントをローズウォールの次代の当主にはできないのだ。
「呪文も身振りもちゃんと覚えていますか?」
ヴィンセントは口の中で呪文を呟き、手を小さく動かして確認すると頷いた。
もちろん慣れればすぐに詠唱も身振りも不要となる基礎魔術だが、最初は丁寧に発動させる必要があるのである。
魔法は発動しないであろう、ユリシーズは角張った顎に手を当てつつそう考えていた。
このことは家庭教師も知っている。ヴィンセントは魔力を持たないか魔力容量が極めて小さいため、魔法が使えるようにならなくてもその責任は負わせたりしないと。
ただ、魔導伯の子に魔術の勉強をさせないとは対外的にも言えないのである。
であるなら、ユリシーズはヴィンセントのためにも魔術士の道を早く諦めて、文官や騎士の道に進んでほしいと思っている。それ故に幼いうちから魔術の訓練を始めたのである。
「ではヴィンセント坊っちゃまどうぞ」
そう言いながら家庭教師が机の上に蝋燭を置くと、ヴィンセントは何度か深呼吸し、真剣な顔で頷く。
厨房ではメイドのアルマが菓子を焼いているはずだ。彼女は料理人ではないが、ヴィンセントの好む優しい味の菓子を作る。
魔術を扱えなかったヴィンセントを慰めるのに一役買ってくれるはず。
「いきます!」
緊張した様子で手を広げると、杖で円と五芒星、魔法文字を描きつつ呪文を詠唱、そして杖を前に突き出して高らかに宣言した。
「〈点火〉!」
声が放たれた瞬間……、何も起きなかった。
本来であれば杖の先から蝋燭の芯へと火花が飛び、火を点けるはず。
ヴィンセントは眉をへにゃりと落とし、次の瞬間、高い声で悲鳴を上げた。
「ああああぁぁぁぁぁっ!」
最初、家庭教師も父も、ヴィンセントが魔術を使えなかったことが悲しくて叫んだのかと思い、それをすぐ否定した。
もっと明らかに切羽詰まった、苦悶の悲鳴であったからだ。
家庭教師が覗き込むその眼前で、橙の炎が爆発するように広がった。
「うわあっ!」
家庭教師が思わず後ろに倒れる。
少し離れた位置にいるユリシーズからは様子が良く見えていた。
ヴィンセントが持つ杖の先からではなく根元、彼の指が炎を発したのである。
「ヴィンセント!」
炎は杖を燃やし、蝋燭を一瞬で溶かし、家具を焦がし、ヴィンセントの服を身体を焼いていく。
「マカーリオ!君も〈消火〉の術式を!……〈消火〉!」
ユリシーズはマカーリオに向けてそう叫ぶと、渦巻く炎に飛び込みつつ、術式を放った。
すぐさま火は消し止められたが、ユリシースの腕の中、ヴィンセントの右腕は完全に炭化して崩れ落ちた。
「ヴィンセント!」
ユリシーズが呼び掛けるも返事はない。彼は完全に意識を失っていた。