旅立ちの日
「構えやすいですか?」
アルマの問いかけにヴィンスは頷く。
「ならばそれを基礎にしましょう。ただ、少し調整した方が良いでしょう。
まず右手ですが、長い剣を持つのではありませんから、手首を上にする必要はありませんね」
「はい」
親指が上になるように縦に拳を構える。
「開手か拳を握るかは任せます。場合によって変えても良いでしょう。
次に左手ですが、身体の後ろがやりやすいですか?」
フェンシングでは左手を身体の後方へと置く構えが一般的である。
この上下動で重心のバランスを取るのだ。流派によっては初めから肩より上に左手を掲げるような構えもあるが、ヴィンスは身体の後方、腰のあたりの高さに構えるようだった。
前後に身体を動かしながら動きを確認する。
「……ですね」
「一度、左手を胸の前あたりに……どうですか?」
アルマはヴィンスに胸のあたりで左拳を構えさせて尋ねた。
ヴィンスは少し手を動かしてみているが、あまりしっくりは来ていないようだ。
「左手用短剣やマントを左手に持つ場合はこういう構えになるのは知っていますが、まだその練習はしたことはないです」
「なるほど。功夫の構えにも類似したものがあり、理にかなった構えではあると思います」
「これを学んだ方が良いですか?」
「ふむ……、構えを戻しなさい」
ヴィンスは最初の構えに戻る。
アルマは彼の周りを一周し、色々な角度から眺めて言った。
「足の位置についてはフェンシングとは異なり、左右にも動かなくてはいけないこともあるので、基本の構えはもう少し歩幅を小さくしたほうが良いでしょう。
手はフリーで身体の後方にあることをメリットにすれば、その構えにも意味がありますね」
「手がフリーのメリット……なんですか?」
「左手で魔法文字を書いたり印を結べるようになれば良いのです。術式の発動を身体の後ろで出来れば相手に術式を悟られずに有用ですよ」
「なるほど……」
ヴィンスは左手の人差し指に魔力を込め、肉体を示す魔法文字、治癒を示す魔法文字と宙になぞっていく。
〈治癒〉術式が発動し、身体に吸い込まれていった。疲労の残っていた体が少し軽くなる。
「例えば〈静寂〉や〈舌もつれ〉といった詠唱を妨害する術式を受けても、阻害されずに術式が使えるという意味でも有用です」
「でも、実用的にするには大変そうですね」
ヴィンスは苦笑する。
「もちろん、手元を見ずに正確に書けないようでは意味ありませんからね」
「ですね。でもやってみます」
アルマはふわりと微笑んだ。
そしてこれが、決闘士ヴィンスの終生の構えとなった。
………………
こうして訓練は続く。
食事を左右逆に行ったり、魔術の学習、魔術文字を描くのを左手で行うなどの両手利きにするための訓練。
筋力を、柔軟性を鍛え、魔術を、魔術に抗する術を学び、そして無数の敗北をその身に刻まれ続ける。
年に1度か2度、両親や弟妹がこの別荘を訪れる以外は全く変わらぬ訓練の日々。
否、ヴィンスが強くなればなるほどアルマの攻撃はさらに苛烈さを増す。
ヴィンスも彼女の強さが尋常でないことは気づいている。かつて幼い頃に見た闘技場での決闘よりもアルマの動きの方が上なのではないかとも。
実際、彼らの動きを決闘士や闘技場の関係者たちが見れば目を剥いたことであろう。それでもここには彼らしかいない。
ヴィンスとしても今の自分たちの動きが、幼い頃に観客席から見ていた決闘士の動きに匹敵、あるいは凌駕しているとまでは思っていないのであった。
修行は4年半、大同盟暦116年の春、ヴィンスがもう数ヶ月もすれば15歳となる頃まで続いた。
別荘の庭にてアルマが言う。
「我が弟子ヴィンス、修行は終わりです」
かつて美しかった草原の芝は広範囲に渡って剥げ、踏み固められた土が広がっている。
「はい、師アルマ」
ヴィンスの容姿も変わった。金の髪は長く伸びて無造作に後頭部で束ねられており、その髪色も日に焼けて色褪せた。
一方で肌は白く傷一つないままだ。無数にかけられ続けた治癒魔術が、些細な傷や日焼けすらも癒していくからである。
榛色の瞳は優しげではあるが、意志の強そうな精悍な顔立ち。簡素な緋色の耳飾りをつけている以外に飾り気は無いが、充分に人目を惹く容貌と言える。
身長は170cm程度、アルマよりも背が高くなった。
「あなたも闘技場に着く頃には15歳。決闘士登録できる年齢ですし、そのまま今季からデビューできる筈です。紹介状は持ちましたね?」
「はい。アルマはどうするのですか?」
「わたしはウーディネの屋敷に向かうので、ここでお別れです」
王都ラツィオはここから南、ローズウォール伯が治めるフリウール地方の領都ウーディネはここから東だ。
「師アルマ。長きに渡るご指導、ありがとうございました!」
ヴィンスが頭を下げる。
視線が外れた瞬間にアルマの袖口からナイフが射出された。
視線を外したままヴィンスの右手が閃き、ナイフの刃を指先で摘まむように捕らえる。
ヴィンスはそのまま前へ。神速の、だが軽い動きでアルマに拳を突き付けて止まった。
「うん、いいですね。そのナイフは餞別です。旅の共にしなさい」
「アルマ……」
アルマはヴィンスを抱き寄せる。
「ヴィンセント坊ちゃま、我が愛する弟子ヴィンス。あなたに祖霊の加護あらんことを。無限の戦場があなたの前に広がり、その全てに打ち克たんことを」
それはエルフの戦士たちの別れの言葉であった。
アルマの唇がヴィンスのそれに寄せられ、やがて離れた。
ξ˚⊿˚)ξ <…………ちなみに年齢差70歳くらい。




