☆ 現実
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長い眠りからゆるやかに目覚めた直後、ぼくは毎朝のように想う。まるで船乗りたちが未知の大陸を想像するように。ぼくは過去のあるいは未来のどこから来たのだろう、そしてこれからどこへ行くというのだろうと。
いつの時代のどの場所へでも望む所に行っていいと言われたなら、ぼくは何度旅をすることができるとしても、あの日のあの人の所にしか行かないだろう。
「ぼくも君が好きだ……」それは偽りのない言葉だった。けれどなぜぼくは何度でもそう言わなかったのだろう。なぜ「寂しい思いをさせてごめんね」と謝らなかったのだろう。ぼくを好きだと告げたあの人に。
やがてぼくは理解する。あの日のままの姿のあの人はどこにも存在しないという事実を。
失われた時はもう二度と戻ってこない。あの日のあの人はもうどこにもいないのだから。
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……
…
♭……
…
♮……
…
……
…
なんだろう?
耳に微かに届き、腹に熱く響く音。
ランチの皿にフォークを置いて、目を閉じた。
大聖堂の鐘を思わせる厳かな和音。永遠の命を知る者のように。
次第に音量が上がる。ピアノだ。深く静かに鍵盤を沈め、強靱な鋼線と漆黒のボディーが深々と共鳴し、深閑とした空間に神聖な音楽が満ちる。弾力のあるハンマーフェルトは太い鋼線をゆっくり精確に打ち続け、そのひそやかに重い衝撃波は、薄い鼓膜よりも稠密な体の深部を熱く震わせるのだ。
レコードのただ一本の溝に記録された壮大な世界。その光と影が硬い頭蓋の内側に克明に謄写される。微細なダイヤモンドの針によって、精緻な銅板画のように。
管弦楽が加わった。幼いバイオリンが迷い群れて光を求めると敬虔なビオラたちは集って大聖堂の暗い天蓋を仰ぎ、孤独なコントラバスは冷たい床を這い回って闇を呪う。
救い主の再臨を待つ汚れた大地に甲高いファンファーレが吼えた。同時に雷鳴を思わせる大音量が地平に轟き、天地の軛を一気に解き放った。
だが、大聖堂の天蓋をこじ開けて我らに光を導いたのは、すべての弦と管が天地を圧倒した総奏――ではなかった。
死のような静けさの中、未知なるものに胸をときめかせるピアノが一人、誰もが忘れていたあの言葉を口にした時、まさにその瞬間、誰も見たことのない世界がその姿を顕した。
―――かつてあなたが暗い大陸の街で感嘆の声をあげたとおり、石畳の広場から見上げた鐘楼は煉瓦色の巨大な楽器だった。様々な大きさの鐘が揺れ、勢いが増すにつれて音量が上がり、やがて荘厳な音楽へと発展した。
この曲の冒頭は、まさにそのような光景を再現しているのだと人々は言い、当然ぼくもそう思っていた。もちろんあなたも―――
けれど今のぼくは少し違う情景を見ている。地平の果てから届く鐘の音。その微かな響きに気付いた孤独な男が音の根源を求めて疾走する姿を。彼がまだ見たことのない鐘楼こそが、彼が目指さなくてはならない場所なのだから。それがたとえどんなに遠くであろうとも、たとえ存在すらしなくても。
目を開けると、薪ストーブの大きな耐熱窓に青白い炎が揺れていた。オーロラを思わせる炎の動きから目を離せないでいると、男は丘を越え、凍った川を渡り、森を抜けて、見渡す限り白銀の大雪原へと踊り出た。
ああ、ピアノの、なんという繊細な響きだろう。真っ白な原野に舞う凍った空気。その一粒一粒が七色に輝く。
ぼくはフルコンサートグランド特有の重厚な鋳鉄のフレームが好きだ。鋼線の強大な張力に締め込まれても決して粘りを失わない逞しい筋骨と強靱な意志。今まさにその鍛え上げられた鉄の肉体と魂が銀に輝く高音弦の可憐なピアニッシモに感応し、天上の音楽を知る喜びに打ち震えている。
孤独な男はついに大雪原を渡り切り、白い地平の果てに消えた。彼はまだ見ぬ鐘の美しい音色に胸を震わせながらどこまでも走り続けるだろう。あるはずのもの、あるべきもの、世界の、そして自らの根源を求めて。
ピアノとオーケストラのすべてが祝砲を思わせるフォルティッシモを天に放ち、長大な協奏曲は終わった。オーロラの光に照らされる雄大な大地だけを残して。
再び静寂が支配しはじめた喫茶室に、一瞬、地軸の震える音を聞いた。このレコードの最後の溝に記録されていたのだろうか。それとも――
今日からメニューに加わった新しい日替わりランチ。それはなぜかいつもの日曜日とまったく同じナポリタン。マスターはオーダーを取り違えたのだろうか。音楽に聞き惚れているうちにすっかり冷めてしまった。締め切りをとっくに過ぎた連載は先日やっと完結した。他の仕事はまだそれほど差し迫った状況にはない。久しぶりに気ままな筆に任せてみよう。
ランチの残りを平らげて、誕生日にあなたから贈られた青いインクを万年筆に吸い上げた。同じ日、ぼくはあなたに何を贈ったのだろう。
ノートを開くと新しいパルプの匂いがした。白いページに銀のペン先を載せると、明るい青空が滲んだ。
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静かに目をつむればどこへだって行ける。過去にも未来にも、いつだって空想の世界を旅することができる。望む所へ行けるのはもちろん、会いたい人にも自由に会うことができる。
けれど、いちばん会いたいあの人にだけは決して会うことができない。より正確に言うなら、あなたの姿を見つけることができても目が合うことは決してない。合わせ鏡の向こうに自分の姿がどれほど多く並んでいても、たとえ限りなく存在していようとも、どの自分とも決して目が合うことがないように。
マーガレット・メリル―― かつてその可憐な花の香りを身に纏ったあなたの望みは、何だろう。
僕にはわかる。おそらくあなたの望みも同じ。それは二人があの日のままの二人になって再び見つめ合うこと。僕はあなたしか見ていなかった。あなたは僕だけを見ていた。それがあの日の二人。
けれど僕は知っていたのかもしれない。明るい空のようにも深い海のようにも見えるこのインクで真っ白なノートにあの人の姿を綴れば、誰も知らなかった反応が起きてあの人の幻が現れることを。
もちろん僕も僕自身を青いインクで綴ろう。鉄の臭いのする――血の臭いのようでもあるけれど――青い文字に。《温かい体》と綴れば体温が生まれる。《君を愛してる》と書けば、もちろんそうささやくことだってできる。白い雪が舞い降りる森の中に誕生する新しい世界。
それは決して夢ではない。僕の実体は僕自身にあるのではなくて僕の書くものの中にある。青いインクで綴られた幻のふたり―― それが僕たちの本当の姿なのだから。
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万年筆を置き、一息ついて目を閉じた。
……
……
まぶたの裏に何かが映った。ぼやけた輪郭と色彩がインスタント写真のようにゆっくり浮き上がってくる。色素が蒸発しかけた古いシネマのような風景。いくつかの四角い建物。並木道。長い塀。
目の前に現れたのは、茜色の光に照らされた母校、尾道第三高校の裏庭だった。
・挿入曲:ラフマニノフ作曲 ピアノ協奏曲第2番