☆ 花の記憶
寒い――
一瞬、喫茶室に風が渦巻いた。放っておいたら彼女は死んでしまう。確実に。
ぼくは椅子から立ち上がり、石積みの壁と広大なテーブルの間を走った。テーブルの角を回り、薪ストーブの前を横切り、重いドアを次々に開けた。真っ暗な風除室を駆け抜けて最後のドアを開けると、激しい風に吹き倒された。凍った外壁に背中を押しつけて立ち上がり、彼女の姿を探し求めた。だが、その姿どころか足跡すら見あたらなかった。
どういうことなのか? 彼女は幻だったのか? それともこの荒れ狂う冬空へ昇華したとでもいうのか? ほんの少し前まで視線を交わし、言葉を交わし、花のような香りまで残していったのに。
香り……
……
……
花の香り――――――――
イチゴにもレモンにも生クリームにも似ているけれど、イチゴでもレモンでもなく、生クリームでもない香り。咲いたばかりの花を思わせる、透明で新鮮な、甘く切ない香り。
それはかつてふたりで会うたびにぼくを包んだあの人の香りだった――――
雪原に降りて彼女を探した。
けれど手がかりは何もなかった。
もしかすると彼女は荒れ狂う吹雪に恐れをなして風除室にとどまり、ぼくの知らぬ間に喫茶室に戻ったのかもしれない。風除室はとても暗いから彼女の存在に気付かなかっただけだ。
振り返ってドアを開け、風除室をくまなく探した後、喫茶室へ飛び込んだ。
「いかがなさいましたか?」
マスターがソファーから立ち上がった。穏やかな表情を黒眼鏡の周囲に浮かべて。
「お騒がせして、すいません。ついさっき、ここから出て行った、若い女の人を、探しているんです。もしかしたら、こちらに、戻っているのでは、ないかと」
「恐れ入りますが、どなた様のことでしょう?」
いくらマスターとはいえ、冗談がきついのではないか。
「セーラー服を着た、高校生くらいの、女の子ですよ、さっきまで、ここにいた」
息が弾んでいたせいもあるが、心持ちきつめの言い方になってしまった。
「今日はあなた様のほかには誰一人」
マスターは普段の生真面目な言葉遣いに加えて、優しくいたわるような口調でそう答えた。
「誰一人?」
「今日はこの大雪の中を歩かれて一層お疲れになったのでしょう。どうぞお掛けください。石壁を背にすると意外に冷えますから、こちらの、ストーブのそばへ。温かいレモネードをお持ちいたしましょう」
マスターは丁寧に椅子を引くと、足早にカウンターの奥へ消えた。
「いや、確かに……」
食い下がろうとした。だが、やめた。白髪の老人とはいえ、マスターの目に狂いがあったことはない。
『白内障の予防ですよ、なにしろ七十七歳の老人ですから』と冗談っぽく笑っていつも黒眼鏡を掛けているマスター。だが、マスターは聴きたい曲の冒頭が刻まれたレコードの溝を、それが三曲目だろうと四曲目だろうと、たとえどんなに短い曲であろうと、常にピンポイントで狙う。ぼくが知る限り失敗はない。
それは決して年寄りの冷や水といったものではなかった。ビシッと背筋を伸ばしたマスターがジャケットから滑らかにレコードを取り出してターゲットの溝にダイヤモンドの針を確実に落とすまでの流れるような所作は、それはそれはため息が出るほど美しいのだから。
また、薪割りをするマスターは隆として逞しく、斧を振り下ろして外したところなど、一度たりとも見たためしがない。
そんなマスターに、眩しいほど白いスカーフや白線が三本も入ったセーラー服が目に入らないはずがない。なのに見えていなかったということは、つまり、そういうことなのだ。
アオイ――
あの人のことを思いながら、ぼくは目を閉じた。
今日ぼくの目の前に現れたのはあの人と同じ香りを纏う幻。
あの人の香りは決して香水などではなかった。あの人の白い肌そのものが甘く切なく薫っていたのだから。
そしてそれはかつてあの人の庭に咲いていた可憐な花、あの人がマーガレット・メリルと呼んだ純白のバラと同じ香りだった。
けれどなぜ今、あの人の幻が現れたのだろう。
消えない記憶の集積がついに臨界量を超え、爆発的な連鎖反応を起こしてあの人の幻影を生んだのか。
それとも記憶よりも遙かに微量の、ぼく自身ですら関知できない何かが、強心剤のように作用して〝 死んでしまった恋人〟の心臓を蘇らせたのか。