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コンチェルティーノ  作者: 白鳥 真一郎
第十一章 抱かれたいと思うのは
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☆ されるがままに



 話し終えたマスターはしばらく目を閉じていたが、静かに席を立った。


 レクイエムは穏やかな合唱を歌っていた。アンプの真空管は淡い光を放っている。透明なガラスチューブの丸く閉じる真空管。その内部に赤く火照る高温の自由電子。レコードの溝をトレースするダイヤモンドの振動が生み出す微細な電流。彼は複雑に変化する電流に操られて濃度と圧力を高め、まるで赤いオーロラが黒夜に舞うかのように妖しく揺れ動く。彼は光輝く内臓を持つ。その胎内はむき出しの心臓のように美しい。


 だが、高圧の自由電子を受け止める金属の薄片も、細く巻かれた高温のフィラメントも、それを宙空に支えるトンボの羽のように薄いマイカ(雲母)も、もちろんそれらを優しく包み込むガラスチューブも衝撃には弱く、その命は短い。


 真空管は弱い。鉱石のように頑丈なトランジスターには、彼は決してなれない。けれど彼は、自分が真空管であることを不幸だとは思わないだろう。彼は彼であるからこそ淡く光り、自らが放つ熱によって懸命に自らの生を生きる。


 彼が彼自身であることをやめないからこそ、彼は古いレコードの溝に刻まれた微細な振動に熱を与え、圧力を加えて大きな脈動を生み、今ここに生きる我々の世界に美しい音楽を蘇らせる。その溝を刻み込んだ人間の情念を、演奏した人間の根元(こんげん)の力を、作曲した者の魂の響きを、心臓の鼓動のように、熱い息吹のように、高らかに歌う―――  それは、以前、マスターがぼくに熱く語ってくれたことだった。


 ああ……  もしもぼくがあの真空管のようにありのままの弱い自分をありのままに受け入れて生きることができたなら…… もしそうすることができるなら…… この小さな心に刻み込まれた宿命を、孤独に震える心を、彼のように熱く輝き、懸命に増幅して、誰にも明かしたことのないこの小さな魂の音色をあなたに聴いてもらうことができるなら……


 合唱は第五曲に入った。清冽な女声が天上から湧き出す泉のようにぼくたちに降り注いだ。マスターが戻ってきた。椅子に深く掛けたマスターは鋭い目でぼくを見た。


「ある日のことでした。妻は大学時代の辛い出来事を話してくれたのです。あなたは彼女から聞きましたか?」


 ぼくは首を横に振った。マスターは膝の上に両手を重ねて深く息を吸った。


「妻はこう言ったのです。

 ―――たぶんあなたが今までずっと気になっていたこと……大学生の時にわたしが付き合っていた人のことだけれど、わたしは最初、その人のことを好きじゃなかった。 でも、何度も誘われているうちにだんだん好きになっていった。サークルも、ひとつ年上のその人に誘われて入った。毎日その人と一緒に過ごした。毎日が新鮮で、とても楽しかった。二人でいろいろな所に行ったし、いろいろなことをした。

 なのに、わたしがその人のこと好きになった時には、その人はもうわたしのこと好きじゃなかった――― と。ここから先の妻の言葉をそのまま口にすることは、私にはとてもできません。短くまとめると、次のようなことでした」


 マスターは一呼吸置くと、恐いほど強い視線を、ぼくたちに交互に向けた。


「彼女は、その男に求められるまま何度も抱かれて、妊娠してしまったのです。妊娠したことがわかった時、大学を辞めてもいいから産みたいと彼女は思ったそうです。しかし、男は中絶を求めました。彼女は男の強い要求に逆らうことができなかった」


「……」


「その男は、病院には一緒に行ってくれたらしいのです。ですが、金さえ出せばいいだろうという態度だったそうです。妻は涙を浮かべてこう言いました。 ―――誰も助けてくれなかった――― と。よほど辛い思いをしたのでしょう。彼女は次のような言葉を付け加えました。

 ―――体だけが目的だったんだなってわかって、その人とは別れた。わたし、あまりセックスが好きじゃないかもしれないけれど、相手が求めているなら応えたい。わたしを必要としてほしいから。抱かれたいと思うのは、必要とされていると感じたいから。

 その人とは、わたしはただお人形のように横になってて、されるがままになっていて、わたしの心はわたしの上に幽体離脱したように漂っていて、物のように扱われているわたしをずっと見おろしていた――― と。

 彼女はその男と別れた後、傷付いた心と体を抱えたまま、何かにすがるように、いえ、溺れるように数人の男性と交際したようです」


 合唱は静かな慰めを歌い、レクイエムの第五曲は終わった。マスターは目を閉じて胸の前で手を組んだ。マスターのまぶたの裏には何が映っているのだろう。若い彼も目を閉じた。ぼくも目を瞑った。静かにこちらを見つめる妻の姿が闇の中に見えた。

 

 床がカタンと鳴った。目を開けると、立ち上がったマスターはレコードプレイヤーのトーンアームを静かに持ち上げた。レクイエムはまだ終曲を迎えていないはずだが……

 

 「お二人ともレモンティーはいかがですか?」


 マスターはこちらを見てにっこり笑った。もちろんぼくたちは大きくうなずいた。マスターは楽しそうに《レモンとイチゴのジャム♪ バターと厚切りのトースト♫ 僕はレモンティー♬ 君はミルクティー♩》と、今まで聞いたことのない不思議なメロディーを口ずさみながら、カウンターの奥へ消えた。


 







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