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コンチェルティーノ  作者: 白鳥 真一郎
第十一章 抱かれたいと思うのは
55/59

☆ 逃げ続けて














  ✧









 それは真っ黒なガラス玉、もしくは生きたまま捨てられることをまだ知らない人形の瞳。






















 マスターは席に戻っていた。小さな飴玉を再び口に放り込んだマスターは強い視線をこちらに向けた。が、ふっと微笑むと膝の上に手を組み、語り始めた。


「あなた方は覚えていますか? 卒業前、彼女に言った言葉を」


「もちろん覚えています」と若い彼が言った。ぼくも思い出した。


「あの言葉について、妻はこんなことを言っていたのです。

 ―――卒業式の前の日、あなたは言ったの。《君のことが死ぬほど好きだ》って。覚えてる? 

 あなたは二年生の秋までとても優しかった。でも、冬になるとだんだんわたしを避けるようになった。映画を見に行こうって誘っても断られて、山に一緒に行きたいってお願いしても断られて、春になって桜を一緒に見ることもなくて。夏になって一緒に花火見に行こうって誘っても断られて、交換日記もやめようって言われてしまって……  わたしはあなたにあまり想われていないんだって思うようになった。だからわたしはいつも寂しそうでつまらなさそうだったんだね。

 それなのに、あなたが前後の脈絡なく《死ぬほど好きだ》って言ったから、なによ、わたしが一生懸命な時には何も言ってくれなかったくせに、そんなこといきなり言われてもわたしの気持ちはおさまらない。そんなふうには見えなかったじゃない、何を今更言ってるのって疑問に思った。わたしはあなたのことを好きで一生懸命なのに、どうしてあなたは何も言ってくれないの? なぜ何もしてくれないの? っていう思いが、恨めしいって思いがあったんだと思う。

 だからわたしはあなたに『死ぬほど好きだったら、そのとおり死ねば』って言った。 でもね、そう言った後、なぜ普通に《好き》って言ってくれなかったんだろう、あなたのことを死ぬほど好きなのはわたしの方なのにって思ったら、涙が止まらなくなって――― と」


「その言葉はよく覚えています。自分が傷付くことを恐れて何もできなかった弱い人間。それがぼくです。そうです、ぼくは救いようのないほど弱い、情けない、愚かな人間です。それは今になっても何も変わりません。……けれど、そんなことは絶対にアオイには言えない。ぼくは弱い人間だ、と彼女に打ち明けるなんて、絶対にできません。ぼくが弱い人間だと知れば、彼女は再び去ってしまうに違いないのです」


 マスターは何も言わず、深みのある瞳でぼくをじっと見つめた。レモン飴をがりりと嚼み砕いたマスターは、いつになく低い声で語り始めた。


「あなたの言うとおりです。私は弱い人間です。この歳になってもです。それは間違いありません」


 一語一語、かみ砕くように、ゆっくりと。マスターは続けた。


「若い頃の私は、強くて完璧な自分を求めました。けれど強くて完璧な人間になど、とてもなれなかった。その一方で、私には周りの人々が皆、それぞれが望む強い完璧な人間になっていくように思えたのです。私は劣等感に(さいな)まれました。強い人間ではない自分にはアオイを幸せにすることなどできない。私にはアオイを幸せにする資格などないのだ。私はそのように思い込み、過剰に卑下してしまったのです。そして私は、弱さを隠すために彼女の視線から逃げたのです。彼女が傷付くことよりも自分が傷付くことを恐れたのです」


 ぼくと若い彼は無言でうなずいた。マスターはさらに話を続けた。


「私は逃げ続けました。彼女と結婚してからも逃げ続けました。彼女の優しい視線から、優しい言葉から。本当の私を隠すために、懸命に、逃げて逃げて、逃げ続けました。ですが私は逃げ続けることに疲れ切ったのです。衰弱し尽くしたのです。そして、私は、ついに、ある日、とうとう妻に告白してしまいました。私は弱い人間なのだ、と。私は自分しか愛せないろくでなしで、自分が傷付くことが恐ろしくてたまらない。三人のアオイが心の中にいることも、なにもかも、すべてを彼女に打ち明けてしまったのです」






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