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コンチェルティーノ  作者: 白鳥 真一郎
第十章  その光跡は太陽の高度を示す角度で
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☆ 新しい世界



 薪ストーブがカチンカチンと愛らしい音を立てた。マスターは音のした方へチラッと視線を送った後、静かに語り始めた。


「今からもう四十年ほど前になります。妻が大学時代のことを話してくれたのです」


「本当ですか?」彼女は決してその頃のことを語ろうとはしないのに――


「もちろん私も信じられませんでした」


「彼女はどんなことを?」


「すべてのことです」


「すべて?」


「彼女が大学に入学すると、そこには今まで経験したことのない魅力的な世界があったそうです。たくさんの男性から熱心に誘われて、一緒に食事をしたり映画を観たり、ドライブに行ったりしてとても楽しかったと」


「何ともいえない無力感に襲われます」としか言えなかった。若い彼は黙ったままだ。


 マスターは話を続けた。


「妻は、あの手紙を書いた頃のことも語ってくれたのです。こんなふうに……

 ――――あなたに手紙を書くよりも前に、すみれに何度か会っていろいろなことをしゃべったのを覚えている。そうしたら『青春してるね』って言われて……

 きっとね、わたしは今こんなに楽しいんだ、たくさんの男の人に大切にしてもらってるんだってことを自慢したかったんだと思う。もう昔みたいに一人の人に好かれているかどうかを気にして悩んでいるようなみすぼらしい女の子じゃないんだよ、こんなにもてるんだよ、好きで好きでたまらないのにたいして振り向いてくれないあなたとは全然違う。今はたくさんの男の人が、何も言わなくても振り向いてくれるんだよって。

 でも、あなたはその話をすみれから聞いても、わたしを放っておいた。わたしがあなた以外の人と付き合い始めたって聞いた時に、わたしを放っておいた。わたしは現実を大きく膨らませた話をすみれにした。そうしたらきっとあなたに伝わると思ったから。すみれから話を聞いたら、あなたは必ずわたしの所に来てくれる。《何してるんだあおい、君には僕がいるだろう》って駆けつけてくれるって思ってたんだよ――――  と。彼女は、私がすぐに飛んで来てくれると信じていたようなのです」


 ぼくは何も言えなかった。若い彼も。マスターが再び口を開いた。


「妻は次のようなことも言いました。

 ――――でも、何日待ってもあなたは来てくれなかった。本当に好きだったら、そんなに簡単には引かないよね。普通だったらわめいたり泣いたりしてどろどろになってもいいから直接話をしに会いに行くよね。けれど、あなたは来なかった。あなたは来ないってことがわかって、あなたはきっとわたしのことなんか少しも気にしてないんだろうな、わたしなんていてもいなくても同じなんだろうって思った。

 わたしは、何も知らないふりをしてどちらにもいい顔をすることはできなかった。あなたへの手紙を書いた時は振り子のように気持ちが揺れていた。好きになりそうな人とあなたとの間で。でも、手紙に《こちらに好きな人ができそうで心が揺れています》って曖昧なことを書いてしまったら、わたし自身の気持ちもあなたの気持ちも生殺しになってしまう。

 あなたにそんなにも想われているとは思ってなかったから、はっきり書いた。あの手紙は何度も書き直した。何もしてくれなかったあなたに、ガツンと喰らわせてやりたい気持ちもあった。どうだ見てみろって言ってみたかった。たくさんの人から好きだって言われて、付き合ってって誘われているんだよ、どう? わたしも捨てたもんじゃないでしょうって……

 あの手紙を書いた時、まさかこの手紙を読んであなたがそんな気持ちになってるなんて思いもよらなかった。この手紙を読んでもきっと《ああ、そうか》くらいで終わるんだろうなって思ってた。この手紙を読んだらかえってあなたが楽になるんじゃないか、このまま中途半端でいるよりもお互いにとっていいことだって思ってた。あなたのことが嫌いだからじゃなくて、好きだから書いた。大好きだったから書いた。どうでもよかったら書いてない……

 だから、わたしが手紙を出した日と同じ日付の消印の手紙があなたから届いた時、血の気が引いて、震える手で封を開けた。《五年待ってほしい》って書いてあったから、ああ、それでも一応わたしのこと気にとめてくれてたんだなって、複雑な気持ちになった――――  と」


 初めて知った彼女の胸の内に、呆然とした。マスターは語り続けた。


「妻はこんなことも言っていたのですよ。

 ――――本当はもっと二人で一緒にいたかった。ずっとその思いが残ったままだった。あなたと話していたいという思いを消せなかった。声を聞きたいという思いを消せなかった。好きだという思いをもっとあなたに伝えたいと、ずっと思ってた。言い尽くせない思いがあったから、またあなたに会いたかった――――  と」


 マスターはそこまで話すと静かに席を空けた。しばらくして戻って来ると、マスターは立ったまま青いタンブラーを握り、口をつけた。ぼくと若い彼は黙ったままマスターの口元を見つめた。






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