☆ 死ぬまで死ぬほどの
「もし彼女と一緒になっていなければ今も彼女を想って悶々としていたでしょう。アオイに会いたいと願い続けていたでしょう。生きている限り」
「それは…… 確かにそうかもしれない」と彼は言った。だが、いぶかしげな視線は残したまま「……というか、たとえ一緒になれても、彼女はいつか必ずあの日と同じように突然、別れの言葉を突きつけて去って行く。やっぱり、どうしてもそんな気がする」と付け加えた。
「それは君だけではない。ぼくも同じことを思っていたし、今も思っています。それはとても恐ろしいことです。彼女が再びぼくの全存在を否定したなら、ぼくはもう生きていくことなどできない」
「彼女と再開していろいろなことを話したのではありませんか? 何もかもあらいざらい話しあって納得したからこそ結婚した。当然そうなんでしょう?」
「いや、ぼくたちは互いに大学時代のことは何一つ話していない。聞くのが怖かったし、彼女も話そうとはしなかった。互いに暗黙の内に触れることも触れられることもなかった。今思うとふたりとも、そこに触れたなら前に進むことができないと薄々感じていたとしか思えない」
「そんな……」
「なにもかも封印してやっと彼女と一緒になれたのに、ぼくはそう遠くない未来にいつか来るだろう〝その日〟の存在に苦しみました。彼女はいつかあの日と同じようにぼくの全存在を否定して去って行く。毎日毎日その日が来ることに怯え苦しみました。ぼくはその苦しみに耐えられなかった。耐えることができなかった。あげくのはてに、ついにこんなことを思うようになりました。ぼくはアオイとそっくりの〝別人〟と結婚したのだと」
「別人?」
「妻はアオイではない。アオイに生き写しの別人です。つまりアオイの身代わりです」
「身代わり? 本気でそんなことを言っているんですか! 別人とか身代わりとか、ふざけるな!」
若い彼は吐き捨てるように、いや、どろりとした侮蔑をあからさまに吐いて苦々しく顔をしかめ、さらにぼくを非難した。
「結婚までしていながら心を許せないとか身代わりだとか、そんな言葉を平気で使うあなたが許せない。不快です。信じられない。人間のクズ!」
「君がそう言うのは君がまだ健全な証拠なのかもしれない。ぼくは歪んでいる。もう元に戻れないほど歪みきっている。ぼくには三人のアオイがいます。一人目はいつまでも忘れることのできない〝死んでしまった恋人〟です。つまり、ぼくが高校生だった頃のアオイです。
二人目のアオイは、ぼくの全存在を否定し、ぼくを抹殺した大学生のアオイ。そして三人目は、この上なく優しいのに決して心を許すことのできない妻のアオイ。つまり、アオイの身代わりのアオイです。
薄暗いアパートの部屋で、妻の大学時代の写真が収められたアルバムを開くことがあります。妻に断って横浜から持ってきたものです。古いアルバムの中で微笑む大学生のアオイを、こちらを見つめる二次元のアオイを、ぼくはじっと見つめます。
ぼくの知らない目をしたアオイ。挑みかかってくるようなその目を見つめ続けます。不自然なほど美しい完璧な微笑みをじっと見つめます。優しい目をしたアオイを取り戻すために、心から好きだったアオイを取り戻すために、淡い期待を込めて。
けれど何度見ても、いくら見つめ続けても、そこにいるのは……ぼくを殺したアオイです」
「言っていることの半分くらいはわかります。もしかしたら僕も歪みかけているのかもしれない。でも、本当はどうなんですか? 本当は幸せになれると、そう思って結婚したんでしょう?」
「いつか心から彼女を愛することができる日が来るはずでした。けれど現実は違った。結婚したらぼくを殺したアオイが目の前にいました。優しく微笑む妻が、ぼくの全存在を否定したアオイに見えてしまうのです。ぼくを抹殺したアオイに見えるのです。妻が、ぼくの知らない目をしたアオイにしか見えないのです。
再びぼくのすべてを否定しようとしている――どうしてもそう思ってしまうのです。何をどうやってもそう思えてしまうのです。再び彼女になにもかも否定され、ドロドロに腐敗した内臓を顔に叩きつけられる…… 顔も、ぼくの顔も、既に腐敗している。そんなおぞましい、腐臭に満ちた、腐った生ゴミ。それが今のぼくです。
ビニール袋に放り込まれてぐちゃぐちゃに潰されて棄てられるような気がしてならない。泣きたくなるような哀しみが込み上げてくるのです。妻が微笑む度に、一日のうちに何度も」
「やめてください! 全然、全然答えになってないじゃないですか。そんなの、そんなのあんまりだ」
彼は呻くように声を絞り出すと、力なくため息をついた。長いため息が消えるのを待って、ぼくは続けた。
「六年前、我が子は交通事故で亡くなりました。三歳になったばかりでした。ぼくたちは悲しみに暮れました。
ぼくは仕事にまったくやりがいを感じなくなってしまいました。あんなにも楽しかった仕事なのにやればやるほど虚しさに襲われました。もう続けられないと悟り、退職して兄の計らいで妻と共に横浜に移りました。今は空想小説を書いています。こちらの方がぼくには合っていたのでしょう。今はそれなりの生活を送っています。
今は妻も元気になりました。明るい笑顔も見せてくれて楽しそうに働いています。妻は悲しみを忘れるために努めて明るく振る舞っているのかもしれません。
妻とぼくは支え合って生きてきたつもりです。互いに支え合う努力をしてきた。現にぼくは妻を、誰よりも大切な人だと思っています。それは確かなことです」
「そんな不幸があったんですか…… とても悲しいです。でも、今は支え合って生きている。お互いに大切だと思って努力しているなら、それなら特に問題ないのでは?」
「ただし、それは先ほど話したとおり、目の前の妻とアオイは同じ名前の全く別の人物であるという虚構によってです。 あくまでも別人なのです。〝だから〟というべきか〝なのに〟というべきなのか、まわりから見れば妻とぼくが楽しそうに暮らしているように思えるかもしれません。いえ、ふたりの時間をとても楽しそうに過ごしているようにしか見えないはずです。
けれど誰から見てもそうだとしても、ぼくの頭の芯は冷め切っています。妻がいつ豹変してもいいように、彼女にいつぼくの全存在を否定されてもショックを受けないように、絶対に妻に心を許すことなく、常に身構えています。
単にぼくの思い込みに過ぎないのかもしれない。けれど、とても恐ろしいのです。なぐさめのない孤独。闇が世界を覆うほうがまだましです。
妻の前で顔は笑っていても、心は、もう、耐えることが、できない。妻はアオイとは別人なのだ、という虚構も、もうこれ以上続けられそうにありません。だからこんなところにまで逃げてきたのです。〝死んでしまった恋人〟の面影を、あの山に求めて」
「……」
「結局、ぼくは自分の都合を優先させるためだけに結婚したのです。ぼくは悪魔のように自分勝手な、自分中心の人間です。彼女の幸せよりもぼくの歪んだ心を満足させるために彼女の人生を狂わせてしまった。幸せであるべき彼女の人生を、このようなろくでもない人間のために浪費させてしまいました。
彼女の前で自分が生ゴミのように思えてしまうのも当然の報いです。ぼくは生ゴミと同じです。いや、それ以下だ。生きていく価値のまったくない愚かな人間。
おそらく、ぼくが消えた方が妻は幸せに生きることができるはずです。つい先日、やっとそのことに気付きました」
語り終えて若い彼を見ると目が合った。彼はあきれたようにぼくを睨むと、目を背けた。
マスターが口を開いた。
「わかりますよ。あなたと同じく私も、最もアオイに似ている女性と一緒に暮らしてきたのですから」




