☆ 時の記憶
この人は壊れている――
「不思議なことが起きたんだね。びっくりしただろう? でも、たぶん、いや、必ず会えるよ」
慰めたつもりの、半ばあきらめに近い言葉だった。ポケットを探ってレモン味の飴をひとつ取り出し、笑顔を作って「どう?」と彼女に勧めた。
「ありがとうございます」
声を弾ませた彼女はレモン色の粒を口に入れると、頬をほんのり赤く染めて、「もし本当に二十年後だったら……」と言い淀んだ。
「ちょっと酸っぱかったかな?」
心配になったから尋ねたのだが、彼女は制服の胸をこちらに触れるほど寄せて、ぼくの目をじっと見つめた。思いがけない展開に、ドキッとした。
「教えてください。ユウキさんは今、おいくつですか?」
彼女は遠慮がちに語尾を上げた。そこには恋人に甘えるような微妙な響きが含まれていた。彼女はぼくを見つめていた。唇が触れそうなほど近くで。
可哀想な人だと思って傷つけないようにしていたのに……。 なんだか急に馬鹿馬鹿しくなってきた。誰だか知らないけれどこんな手の込んだ悪質ないたずらはもうやめてほしい。
「いくつって、ぼくは三十七だよ。でも、〝二十年後〟だなんて、君はまるで二十年前から来た人みたいじゃないか。冗談だろう? 君は本当は誰? ここに何しに来たの? 編集部の誰かに頼まれたのかな?」
ぼくの目を見つめたまま彼女は胸を離し、元のように姿勢を正した。
「こんなことがあるなんて、やっぱり信じられないですよね。たとえユウキさんでも」
目眩がした。決して抜けないはずの地面の底が抜けてしまった、そんな気がした。この人はぼくをからかっているのでは決してなかった。二十年前の尾道から来たと本気で主張している。彼女は本気だ。正気ではなさそうだが。
ぼくは青いタンブラーをわしづかみにして中身を一息に飲み干した。コーヒーは冷え切っていた。尾道から数百キロメートルも離れた山奥へ、一瞬のうちに、それも二十年前から来たと言い張る若い女性。
高校生の頃のぼくの恋人だったあの人に姿も声もそっくりで名前も同じ。純粋そうで可愛らしい人。それなのに、あまりにも現実からかけ離れたことを話している。壊れたおしゃべり人形。
「タチバナさん。君の本当の名前を教えてほしい。住所とご両親の電話も。迎えに来てもらおう。ぼくはこれからすぐ街へ降りる。この店に電話なんてものはないし、そもそも電波の圏外なんだ。店のスキーかスノーシューを借りたらそれほど時間はかからない。ここのマスターにはきちんと事情を話しておくから、ぼくが戻ってくるまで必ずここで待っていてほしい」
ぼくは彼女に万年筆とノートを渡した。彼女は左手に万年筆を持つと名前と住所と電話番号を躊躇することなくスラスラと書き込んだ。恐るべき事に、それらはすべてぼくが知っている「あの人」のものと同じだった。
「ユウキさん、わたしはアオイです。二十年前の、十七歳のユウキさんとお付き合いしている十七歳のタチバナ・アオイです。本当です。本当なんです」
一言一言をかみしめるように、感情を抑えた声で切々と訴える彼女の目線、表情、しぐさ、情感、雰囲気。それらは決して壊れた人形が発する種類のものではなかった。
彼女は力なく左手首を返した。
「ユウキさん。 『声』と約束した時間になってしまいました」
放心したようにつぶやいた彼女は、ここに来た時と同じように青い唐草模様に装飾された白い缶を左手に握るとゆっくり立ち上がった。
スカートのプリーツがウインドチャイムのように揺れて、甘く切ない香りが華やかに広がった。
イチゴのようなレモンのような生クリームのような香り。そして咲いたばかりの花を思わせる香り。その透明で新鮮な香りに包まれたぼくは恋に落ちた日のように胸の奥が震えた。
「ユウキさん…… さようなら」
泉に落とした指輪をやっと見つけたのに手が届かない―― そんな悲しそうな目でぼくを見つめた彼女は後ろを向いて、少しよろめきながら、広大なテーブルに沿って並ぶいくつもの椅子の背もたれに手を触れつつ遠ざかっていった。
後ろ襟の白線が眩しかった。三本の白線は美しく輝いて、いつまでも眩しかった。ぼくは幻を見ているのかもしれない。
ドアを開けた彼女はこちらを振り返った。けれど何も言わないまま寂しそうに微笑むと静かに姿を消した。
石油ランプの炎が大きく揺れた。彼女がコートや手袋を持っているとは思えなかった。