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コンチェルティーノ  作者: 白鳥 真一郎
第十章  その光跡は太陽の高度を示す角度で
49/59

☆ 亡霊





 ✧





 

 ぼくの知らない目をした彼女。


 ワインレッドの長い弓に銀の矢を(たずさ)えて、息をのむほどの完璧なほほえみ。桜の振袖と紫紺の袴に美しく包まれて、古いアルバムの中に永遠に生き続ける。


 ぼくはその瞳を見つめ続ける。心から人を好きになることができた日に戻るために。淡い期待を込めて。








 ✧









 


 長いレバーをグッと押し下げたマスターは白いタンブラーにミルクをたっぷり注ぎ入れると、上体を機嫌良く揺らしてシューッと勢いよく蒸気を吹き込み始めた。高温高圧の陽気なスチーム。いい音だ。重く湿った疲労が明るく伸ばされていく。


 空の魔法瓶をカウンターに置いて広大なテーブルの一番奥へ向かう。マスターの自慢話によれば、巨大なコンサート用ピアノの天板八枚を互い違いに組んで継ぎ目なく仕上げた逸品らしい。磨き上げられた漆黒の天板はとても美しいが少々古びてところどころに元の姿を伺うことができる。


 いつもの席に座った。〝グロス・グロースモルゲンロート〟という壮大な名称のモーニングセット――何の変哲もないホットドッグとサラダとカフェラテ――を、マスターはまるで何かの冗談のように厳めしく馬鹿丁寧に給仕してくれる。


 マスターの引き締まった腰には丈の長い黒エプロンが吸い付くようにビシッと巻かれ、てきぱきとした動作とあいまって年齢を感じさせない精悍な印象を受ける。


 今日は珍しく何の冗談も言わず銀のトレイを小脇に抱えたマスターは、いつものように真っ黒な丸眼鏡を高い鼻に機嫌良く乗せたままピカピカに磨かれた黒靴を静かに運んで定位置――よく整備されたクラシカルな音響機器たちが行儀良く待機している黒いソファーのあたり――へと向かった。



 微かな振動。風の震えのような何かが、奥の暗がりに得体の知れない何かが湧き上がり、薄闇に溶ける《未来》の地平が遠い昔の胸騒ぎのようにざわざわとうねり始めた。


 ああ これは夜明けだ……  薄明……   黎明……


 と、死んでいる者すら目覚める激しさでティンパニが連打され、ファンファーレが甲高く吹き鳴らされた。間髪を入れず、すべての管弦が爆発的な大音量を発して地平を抉り、巨大な太陽が姿を現した。


 真っ赤に逆巻くフレアが人々の背を焦がす。あらゆるものを灼熱に溶かす光。燦然と輝く壮大な交響曲。冒頭から思いっきりファンファーレを入れる、かなり派手な演奏。おそらくスコアどおりではない。指揮者が誰なのか気になった。が、知る必要はない。


 それにしても……目の前に交響楽団が演奏しているわけでもない黒い円盤から生じた微細な振動に過ぎないものが、なぜこれほど圧倒的な迫力の空間と強烈な色彩を生むのか。


 レコードという謎めいた物体。

 

 幾十もの弦、管、打のそれぞれの響きをそれぞれの個性を失うことなく記憶する硬い円盤。その表面にはただ一本の渦巻く溝が刻まれているだけだ。溝を一粒の極小のダイヤモンドで軽くなぞれば巨大なオーケストラの複雑な音響も精妙に復元され、壮大な物語へと復活を遂げる。


 あの溝は、ただの溝ではない。何者かの生きた魂が彫り込まれた、永遠の命そのもの―――


 振り返って窓の外を見上げると、大きな山のいただきが七色に輝いていた。新年を迎えるまで安定した天候が続くらしい。最後の日にふさわしい晴れやかな空。


 ぼくは万年筆を手に取って白い便せんに軽く触れた。灰色の罫線に反射したランプの光がゆ~らゆらゆら~りと不自然に揺らいで銀のペン先にヘビのように絡みついた。


 顔を上げるといつのまにか客が一人、広大なテーブルの対角線上の、ここから最も遠い席に座っていた。ランプの光に照らされた逞しい肩。シャープな横顔。


 若い男性のようだ。青いパーカーを着ている。登山の途中で寄ったのだろうか。青いタンブラーに手を伸ばした彼は、ごく自然に顔をこちらに向けた。


 あっ


 若い男はぼくを見ると立ち上がり、ゆっくり近付いてきた。ぼくは亡霊を見るようにその姿を見つめ、意味もなく起立してしまった。


 口を開いたのは、彼の方が先だった。


「はじめまして」と彼は言った。


 ぼくがぼくを見ている。そう直感した。


「君は…… もしかして君は……」


「わかりますか?」


「君は、ぼくなのか?」


「さすがです。僕は二十歳のあなたです。あなたは三十七歳の僕ですね」


 同じ色の瞳、同じ形の目。彼の視線にはねじれもゆがみもためらいもない。もしも彼が合わせ鏡に映る魔物であるなら、このようにまっすぐ目が合うことは決してないはずだ。


 彼の目を見据えたまま黙ってうなずくと、彼は笑顔を見せた。


「ここに来るまで半信半疑だったんです」


「どういうことだ」


「これを飲んで楠の大木に向かって祈ればいいとある人に教えてもらったんですが」


 そういいつつ彼はパーカーのポケットから何かを取り出して軽く振った。指と指の隙間に、白地に青の唐草模様が見えた。


「まさか…… 」


「彼女はとても不思議な事を言っていましたよ。たぶんあなたが知らないことも」


「いや、もういい。もういいんだ。終わったんだ。これ以上何も知りたくない」


 彼は寂しげに視線を落とすと、長いため息をついた。


「あなたは知っておくべきです。この店の店長の正体を」








 ・挿入曲:ベートーベン作曲 交響曲第九番


       指揮 ヘルベルト・フォン・カラヤン 1962年

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