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コンチェルティーノ  作者: 白鳥 真一郎
第九章  わたしの瞳にはあなたのすべてが
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☆ 死んでしまった恋人


 長い長い石段の果てを振り仰ぐと、天満宮の大きな楠が常緑の葉をこんもり茂らせていた。

 楠の精に魔法を掛けられたかのように、ぼくは躊躇することなく石段に向かい、足は自然に石段を上った。手を清める水盤には厚い氷が張っていた。拝殿に近い柵は新しい絵馬で埋め尽くされていた。

 

 大学受験の直前、数名の友人たちとここに来た。彼らが奉納した絵馬の横に、見慣れた筆跡で綴られた絵馬が掛けられていた。《裕樹君と一緒に東京の大学に合格できますように   あおい》水色の文字が寂しそうに風に揺れて、泣いているように見えた。友人に促されるまで目を離すことができなかった。


 彼女はその大学に合格した。だが、彼女の両親は県外への進学を決して認めなかった。都内の大学へ進んだぼくは、兄が大学時代に住んだ下宿に世話になった。だが、兄と違って信仰に身を捧げていたわけではないぼくには、父の支援者が提供してくれたその部屋は随分居心地が悪かった。

 

 東京に暮らし始めてしばらくするとスミレがぼくの部屋を訪れた。はるばる広島から来た彼女は髪型も服装も控え目だったが、以前より透明感が増してさらに美しくなっていた。

 彼女はいろいろなことを喋った。あの人とは別の――けれどそれほど遠くない――大学に進学したスミレによれば、キャンパスから少し離れた森の近くに小綺麗なアパートを借りたあの人は、日々様々な男たちに囲まれて、いつ見ても楽しそうに過ごしているらしかった。


「でも、それだけではないの」


 彼女は長い髪を揺らした。


「最近、あおいにひとつ年上の恋人ができたって知らないでしょう? 毎晩ふたりだけで過ごしているらしいの」


「嘘だろう?」


「信じられない? そうよね、信じられないよね。でもあおいから直接聞いたことだから間違いない。髪型も変えて、服も派手になったし、高校生の頃のあおいとは別人みたい。どうするの裕樹?」


 翌朝、彼女は黙ってレモンティーのカップに口をつけると、こちらをじっと見つめて、「お願いだからあおいに会いに行って。今すぐ、私と一緒に」と言った。



 そんなことがあってからしばらくして、あの人から一通の手紙が届いた。水色の封筒を開けると、それは見慣れた筆跡で薄紫の便せんに綴られていた。


《大学に入って考え方が変わりました。これからは新しい世界で生きていきます。さようなら。もう二度と会いません。もう二度と電話しないでください。もう二度と手紙を書かないでください。もう二度とわたしの前に現れないでください。 橘あおい》


 ぼくがそこに見たのは、何の迷いもなく明確に決別を告げる言葉だった。大学ではなぜか弓道部に入ったあの人。彼女は狩りをする女神のように冷徹に狙いを定め、冷たい銀の矢を放ったのだ。ぼくの全存在を否定し、完全に抹殺し、ぼくという邪魔者が二度と目の前に現れることのないように。


 手紙を読み終わると同時に、ぼくは死んだ。銀の矢に頭を射貫かれて即死した。彼女は望みどおりぼくを抹殺したのだ。しかしそれと同時に彼女も死んだ。ぼくの心の中で優しく微笑んでいたあの人は、ぼくが死ぬと同時に、一瞬で死んだのだ。



 生ける屍と化したぼくは好意を寄せてくれる女性が現れるとただの一度もときめくことなく抱いた。〝 死んでしまった恋人〟のことを忘れ去るために。まるで女という存在そのものに復讐するかのように。


 暗い欲望のおもむくまま抱いた女たち。彼女たちはぼくがただ快感を得るための、ちょうどいい体温と綺麗な肌を持った人形だった。けれど、ある日、ふと気付いた。どの人形もある種の『幸福な光』を求めているらしいことに。


 ぼくはそれとなく尋ねた。すると、あのめくるめく快楽とは別の、どこからか自然に湧き出してくる不思議な粘度を持つ熱のようなものによって体の最奥部の〝扉〟が柔らかく溶けて開いた時、その光は見えはじめるのだという。


 ぼくは人形たちが求めてやまないその光に興味を持つようになった。そしてある日、知った。

 長い串に刺し貫かれた真っ白なチーズを決して焦がすことなくその綺麗な色艶を保ちながらその中心まで均等にとろりと溶かしていく。極弱火で隅々までゆっくりムラなく静かに熱を加え続ける。すると美しい人形たちは幸福な光を見るということに。強火で激しく炙られてもその光は決して見えないらしい。


 それから―― ぼくは残酷なまでに時間をかけて女たちにゆっくりと熱を加え、芯まで溶けるのを待った。たとえ白磁のように冷たく澄んだ人形であっも次第に理性を失い、仮面を剥ぐようにすべての虚飾が失われ、そこから……次第に……女だけが持つ純粋な美しさを見せはじめるのだった。その美しさに限界というものはなかった。際限のないそれは、女たちの、完璧に美しい、本当の姿だった。


 心からも体からもなにもかもすべてから自由になって自分自身すら完璧に脱ぎ捨てた純粋無垢な女たち。そのとろりと溶けた熱い体を刺し貫いている間だけ再び元の肉体と精神を得たように思え、あの人のことを忘れることができた。


 あの人を忘れるために、ただそれだけのために抱いた。にもかかわらず女たちは誰もがこの上なく優しかった。あの人を忘れるためなのだとぼくが割り切れば割り切るほど、彼女たちは美しく優しくなった、信じられないほどに。


 だが、こんな下劣な男でも大切に思ってくれた天使のような女たちを、ぼくはついに誰一人として愛することができなかった。


 大学を卒業したぼくは浜松に本社がある音響機器制作会社に就職した。仕事は忙しかったが充実していた。そしてある女性と数年間交際して結婚した。その人はあの人に似た人だった。誰よりもあの人に似ていた。似た人を選んだのだから似ているのは当然だった。


 けれど結婚してからも、〝死んでしまった恋人〟を忘れることはなかった。いくら忘れようとしても忘れることができなかった。それどころか、二度と会えないはずのあの人に会いたいと願い続けた。


 もしも奇跡が起きてあの人に再会することができたら、もう二度と誰にも渡さない、決して誰にも渡しはしない、と心に決めていた。


 もちろん、それはいくら望んでも絶対に叶うはずのない空しい願いだった。アオイ…… 君と《未来》で再会するまでは―――




 天満宮の急な石段を、今度は一段ずつゆっくり下った。一段下りる毎に、心が少しずつ崩れていった。

 山門に大きな草鞋を掲げた寺の前を過ぎ、長い塀に沿って歩き続けた。塀が尽きた所に、だだっ広い吹きさらしの広場があった。色あせた影の薄い自動車がぽつんぽつんと点在している。いつまでも戻って来ない持ち主をひたすら待ち続けているようにしか見えない。

 灰色の電柱に額を押し付けた。まだいくらか熱の残っていた高揚感は硬いコンクリートに冷たく冷やされて完全に消えた。


 ああ、おまえはいったい今をいつだと思っているんだ! 白昼の街の真ん中に、二十年前の恋人が十七歳のまま現れる、だなんて、まさかそんなことを本気で思っていたわけじゃないだろう?


 母校を目にするだけでいい。この街に来た目的は、ただそれだけだったはずだ。








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