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コンチェルティーノ  作者: 白鳥 真一郎
第九章  わたしの瞳にはあなたのすべてが
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☆ 彼女の瞳

 





 君を離さない もう二度と――

 

 あの日のあの人にそう告げることによってのみ許されるのだから。


 ふたりが未来に生きることを。
















 寄り道はせず、東へ向かうことにした。大通りを横断して細い路地を左に右に折れると、長い長い石段の下に出た。かつて重い砂袋を詰めた登山用のザックを背負い、しばしば往復した場所だった。


 一年生の秋の半ばまで、ぼくは新聞部に所属していた。部員は全学年合わせても十人しかいなかった。地味な雰囲気だったけれど、四人の一年生を先輩たちは懸命に指導してくれたし、希望すれば色々なことをさせてもらえたので、取材も原稿書きも広告取りも、何をしても楽しかった。


 ただし問題もあった。ぼくが高校へ入学する前の年に、新聞部は二千号を記念してとても立派な体裁の記念誌を発行したらしい。その際、積み立てていた部費をすべて使い切ってしまったというのだ。それ以来、わずかな広告料収入だけでやりくりしているのだという。


 そのためかどうかはわからないが、部にはワープロもパソコンもデジタル謄写印刷機もなかった。ぼくたちは部室の隅に大量に保管されていた古くさい緑色のボールペン原紙に手書きで毎週のようにせっせと記事を刻み、古い手回し印刷機でB4判のわら半紙の表と裏に新聞を刷った。油臭いインクが乾くと校内に配り、広告を載せてくれたスポンサー(三高生がよく行く店がそのほとんどだった)の店頭にも置かせてもらった。


 木曜日は編集会議が開かれた。部員全員が毎日部室に集合しているのだからとりたててかしこまったところもない会議だった。

 うっとりするほど美しい顔立ちの、ポニーテールがとてもよく似合う部長は、まるで男子のような口調で、『小杉くん、君は甘すぎるよ。何度も言うけど、新聞部員なら当然知っておくべきことがあるんだ。どんな文章を読んでも、どんな人に話を聞いても、〝何が書かれているか、何を言ったか〟ではなくて、〝何が書かれていないか、何を言わなかったか〟を見極めることが大切なんだから。

 相手が主張したいことの核心は、相手があえて主張しなかったことを見極めた時、初めて明白になるんだ。つまり、あらゆるものの本質は明るく照らされた所にはないということだ。

 たとえば、どんな主義や思想であっても、それが何を崇め、何を目指し、何を賞賛し、何に味方し、何を讃えているかなんてどうでもいい。

 大切なのは、それが暗に何を否定し、何を拒絶し、何を認めず、何を許さないかだ。なぜなら、それこそがその主義や思想の本質だからだよ。もういいかげんわかるよね?』と何度も言ってくれたのだけれど、当時はなんのことやらさっぱりわからなかった。


 新聞部伝統の夏合宿(島の民宿に一泊して海辺でバーベキューするだけ)が終わり、何の事件もないまま、一年生の夏休みはあっというまに終わった。

 けれどしばらくすると思いもしなかった大きな転機が訪れた。文化祭の実行委員会が、山岳写真を撮る有名な写真家を講演に招いたのだ。


 その日は残暑が和らいで陽の光が白くなり始めた頃だった。白い制服で埋まる午後の講堂の演壇に立ったのは、赤銅色に日焼けした年配の男性だった。がっちりした体格。顎には白い髭。彼が放つ言い知れぬ気迫に圧倒されたのか、騒がしい講堂は水を打ったように静まりかえった。

 ぼくは直感した。彼がその身に宿した静かな迫力の根源は、あらゆるものを手にした者がこれみよがしにみせびらかす傲慢や高慢によって培われたものではなく、それは彼が撮った峻厳な冬山と同じく、一切の夾雑物を排して初めて得ることのできる何かだと。


 講演後に取材すると、その写真家は次のようなことを語った。『この世界には目に見えるものと目に見えないものがあり、自分は目に見えないものを撮るために山に入るのだ』と。

 彼の言葉にはなにかしらこの世界の〝真実〟が含まれているように思えてならなかった。ぼくはその〝真実〟が何であるのか知りたいと切実に願った。


 彼が最も好むと言った冬の山に、彼と同じように一人で登りたいと熱望するようになるまでそれほど時間はかからなかった。だが、岩も滝もなにもかもが凍ってしまうという冬の山へ登る技術や経験など皆無だ。いったいどうしたらいいのだろう?

 かなり悩んだのだけれど、ぼくは居心地のよかった新聞部を、思い切って辞めた。




 銀杏並木がほんのりと黄色味を帯び始めた土曜日の午後、ぼくは山岳部への入部手続きを終えた。逞しい胸板の温和な目をした部長に付き添われ、部室棟の前に立った。

 白いジャージを着た二十名ほどの山岳部員を真昼の太陽が照らしていた。ぼくは入部の挨拶と自己紹介をした。深く頭を下げ、上体を起こしたその時、一人の女子部員と目が合った。


 太陽の光を真正面から受けた彼女は、まるで月の女神のように全身が白く光り輝いていた。

 彼女は目を細めもせず、じっとこちらを見つめていた。その黒い瞳は、なぜか青白い光を宿しているように見えた。そしてその光は―― ぼくの額を透過してどこか遠くにあるものを照らしているように思え、その視線は、誰も知らない世界に存在する大切な何か、に焦点を定めようとしているかのように微かに揺れていた。


 もしかしたら――  もしかしたら、彼女もぼくと同じものを探しているのかもしれない。


 ぼくは彼女の瞳から目を離すことができなかった。








 




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