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コンチェルティーノ  作者: 白鳥 真一郎
第八章  神に命じられても
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☆ イコノスタシス




 ただ……残念なことに、我々の信仰を単なるファンタジーだとおっしゃる方も多いのです。

 死者が生き返ることなどありえない。万物の創造主ならば人間の不幸などたちどころに消せるはず。ましてや人間を愛している神ならなおさら。そもそも万物の創造主を造ったのはいったい誰なのか……などなどです。


 そのような疑問に対して我々は反論しなければならない、とか、信仰はすべての疑問を封じて神のおっしゃったこと、なされたことを信じ切ることなのだ、とは私は思いませんし言いません。誰であろうと疑問は疑問として持ち続け、それぞれが納得できる答えを探せばよいのです。


 たとえば、皆が仲良く手を繋ぎ、皆が他者のことを優先して平和で和やかな世界を築く。そういうファンタジーを現実にしようと熱心に神を信仰する者もいます。もし実現するなら素晴らしい理想の世界です。しかし、もし自らの理想とするファンタジーを他者に強要すればどうなるでしょう?

 

 歴史には多くの先例があります。強要すれば軋轢を生み、争いを生じます。そして最後にはファンタジーを信じぬ人々を抹殺しなければ、いや、たとえ一人残らず抹殺したとしても理想世界を目にすることはできないのです。

 なぜなら、強要から愛が生まれることは決してないからです。我々の望む信仰とは自己を変えることによって愛を実現することです。つまり自分自身が自分で自分を自らの望む理想の姿に向けて変えていくからこそ尊いのです。


 ただ、我々の信仰がファンタジーであろうとなかろうと、そもそもあなたが見ている世界は、あなた以外の人が見ている世界とはまったく違うことを忘れてはなりません。あなたが見ている世界は、同じものを見ている他の人と同じ世界、ではない。同じものや現象が目の前にあっても、一人一人がまったく違う世界を、驚くほど異なる世界を感じています。それぞれが、異次元と言い切ってもいいほど違う世界に生きているのです。


 一億の人間がいたなら一億とおりの世界がある。一億種類の異なる次元の世界がある。それが現実であり、我々が理想を掲げる上での大前提です。だからこそ私たちは会い、話し、思いを打ち明け、互いの境界が曖昧に溶け合うところに接点を探るのです。争いを避けるために、です。労力と時間をかけて、相手の《のりしろ》とこちらの《のりしろ》が見つかるまで探し続けるのです。


 人と人との世界は合理的でスピーディーであればそれでよいというわけではない。無駄と思えるほど時間をかけて様々なことを他人と話し合うなかに、目の前の相手とあらゆる問題をすりあわせて連帯感を築いていくという、人と人にとって最も根源的で大切な関係性が隠れているのです。なぜならそれこそが隣人を大切にするということに他ならないからです。もちろん大変な根気と時間と労力がかかります。けれど決してその労苦と汗を惜しんではなりません。


 人と人は、そのようにしてようやく共通の現実と共通の課題に気付き、相手とまったく同じというわけではないけれど互いに人ごととは思えない『あるもの』を、つまり《のりしろ》を見いだすことができるのです。その上で、それらの《のりしろ》と《のりしろ》を丁寧に貼り合わせていきます。


 ですから、『《のりしろ》のようなあいまいな存在……を許さない唯一絶対の完璧な理想』や『人々の現実を一瞬で変えてしまうことすらできる非の打ち所のない崇高な目標』を掲げる人々が現れたときは ――それらがいかに合理的であり論理的で筋の通ったものであろうとも、いえ、合理的で論理的で非の打ち所がなければないほど―― 彼らの掲げる『絶対に間違いのない理想や目標』という〝ファンタジー〟を、仮にでも他者に押しつけたらどのようなことになるのか、つまり、そこに隣人への慈しみが本当にあるのかどうかを、我々は見極めなければなりません。 

 

 あなたはたまたま今のあなたに生まれただけです。もしかすると王家や皇室に生まれていたかもしれない。盗賊の家に生まれたかもしれない。今のあなたが王侯や盗賊でないのは、たまたま王侯や盗賊とは無関係だったという、ただそれだけのことです。


 もしかしたら自分は目の前にいる人に生まれていたかもしれない……と常に考えるのです。相手は自分だったかもしれないと想像するのです。あなたの隣人はあなた自身であると、立場を入れ替えて考えるのです。相手の感じる痛みを、苦しみを、悲しみを、痛切に想像し、そして感じるのです。あるいは相手の傲慢やその暴虐性を、癌細胞を摘出する医師のように慎重に見極めるのです。

 愛は相手の上に立って相手を憐れむことではない。愛は感激ではない。感傷でもない。泣く人に同情することが愛なのではなく、優しげな声を使うことが愛なのではありません。


 誰もが知っているとおり、愛は誰にも見えません。ただ自分に愛あることを自分自身が信じる。それだけです。愛とは信じる者の眼差しに、心に、言葉に、行動に、隣人と向き合うその時に、そこにただ『ある』だけなのです。


 愛は幻に等しいから空しいと思う人もいれば、愛は幻だからこそ尊いと言う人もいます。愛を実践しても、愛そのものは見えない。愛という物質や実体があるわけではない。愛を実践しても見返りはない。いや、むしろ愛を行うことによって十字に架けられることすらある。愛を行う者にとって愛は辛く厳しい。愛は愛を行う者を容赦しない。神は愛を行う者を容赦なく鞭打ちます。神は神の顔色を伺いながら愛を為そうとする者を峻別します。愛を行う者はその愛が真実であるかを神に厳しく試されるのです。愛は快楽ではない。むしろ愛を為すことは痛みと苦しみそのものです。愛を実践するには少なくともその苦しみを引き受ける覚悟が必要です。


 真実の愛を為すとき、人は自分自身の存在を忘れます。今の自分が神の御心のままにあることすら忘れます。自分を忘れ、神をも忘れ、ただ目の前の隣人を尊び慈しむ。ただそれだけです。だからこそ愛はこの世で最も清らかで美しいのです。




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