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コンチェルティーノ  作者: 白鳥 真一郎
第一章  記憶より微量の何か
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☆ 海の記憶




「正直言って、ぼくはこのあたりのことをまだあまり知らないんだ。もしかして地元の人は、ここを尾道って呼んでるのかな?」


「はい」


「そうだったのか。ぼくは広島の尾道しか知らない。瀬戸内の、海沿いにある、歴史のある寺院や神社がたくさんあって、何度も映画の舞台になった古い街だけど、タチバナさんは知ってる?」


「ええ、そうです。その尾道です」


「えっ? ここが広島の尾道ってこと? もちろん冗談……だよね」


 彼女は見かけによらずとてもお茶目人なのかもしれない。なんだかワクワクしてきた。


「ユウキさん、ここは…… ここは尾道ではないんですか?」


 だが、そう言った彼女の目は、残念ながらお茶目ではなかった。澄み切った瞳。心を射貫く真剣な視線。


「この先の尾根を少し登ると海が見えるよ」


「瀬戸内海ですか?」


「いや、日本海。さすがに今日は無理だけど」


 彼女の瞳が揺らいだ。


「タチバナさん、この店は《未来》という喫茶店なんだけど、このに来るのは初めて?」


 彼女は無言でうなずいた。


「どうやってここに来たのかな。スキー? スノーシュー? それとも……」


「わたし、ついさっきまで尾道にいたんです」


「ついさっきまで? そんなバカな……  いや、失礼。それにしても不思議だね」


「ここはどこなんですか?」


「北の国の森の中。尾道からは何百㎞も離れている。一瞬で来れる所じゃない」


「……」


「ぼくは隣の街から歩いて来たんだ。いつもなら一時間半ほどでここに着くんだけど、今日は四時間もかかってしまった」


「四時間…… 」


 取り立てて感情を込めてはいないように聞こえた。けれどニュートラルな口調とも思えなかった。何か別のことを考えているような気がした。だが、彼女の目は不思議なほど清らかだった。ぼくは何か間違ったことをしているのだろうか。

 もしかしたらそうなのかもしれない。毎日毎日、ぼくは間違ったことをしているのかもしれない。

  

「君はもしかして、ぼくがこんな所で何をしてるのか疑問に思ってない? まあ、お互い様だけど」


 彼女は小さくうなずいた。


「ここは山奥だから仕事に集中できる。ただそれだけなんだ。完全に電波の圏外だからね。その上ここのマスターは親切だし冗談好きだし食事も申し分ない。だから毎日ありがたく使わせてもらっているんだ」


「ここに毎日、ですか?」


「そう、毎日。でも、今朝はここに来る途中で急に激しく吹雪き始めて、一気に胸の高さまで積もってしまった。信じられない? 雪の中を必死にもがいて、やっとたどり着いたんだ。冗談抜きで死ぬかと思ったよ」


 彼女は何も言わなかった。少し間を置いて、ぼくは続けた。


「ここに来るルートは一つしかないんだけど、タチバナさんは知ってる?」


「いいえ。どんなルートですか?」


「人がやっと通れる細い登山道が一本あるきりなんだ」


「そうだったんですね」


 ぼくはだんだん不安になってきた。彼女はいったいどこから来たのだろう。


「もう一度窓の外を見てごらん。こんなに吹雪いてたらヘリは飛べない。それに、さっきマスターがぼやいてたんだけど、今年は倒木が多すぎてスノーモビルも雪上車も使いものにならないらしい。つまり、その―― ぼくが何を言いたいかわかるかな?」 


「わかります」と素直な声で返事をした彼女は、しかし窓の方ではなく、テーブルの上に視線を向けた。そこには彼女が持ってきたミルクティーの缶があった。彼女は小さな声で「この紅茶はここに来た時も同じ熱さでしたから」と、大事な秘密を打ち明けるように付け加えた。


「なんだって?」


 ぼくは思わず聞き返した。言葉の意味が理解できなかったから、ではない。


「ごめんなさい。最初にきちんとお伝えしていなかったわたしが悪いんです」


「どういうことだろう?」


「ここに来る少し前、わたしは海の見える公園のベンチに座ってこの紅茶を飲んでいたんです。好きな人と一緒に」


「……」


「今日はお昼まで部活があって。帰り道、一緒にお好み焼きを食べたんです」


「仲がいいんだね。うらやましいな」


 本当にうらやましかった。


「とてもいい天気でした。手を繋いで、とても嬉しくて、急な坂道もあっというまに登って。一緒に熱い紅茶を買ってベンチに座って。そうしたら急に『ごめん。大事な用事を忘れてた。さよなら』って言われて」


「……」


「ぽつんと取り残されて、ひとりぼっちになってしまったんです。もう見放されたのかもしれないって。最近、忙しいから一緒に帰れないって言われることが多くて。今日は本当にひさしぶりだったんです。それなのに……  どうしてですか?」


 なぜぼくに問うのだろう。そもそもぼくには何をどう答えたらいいのかすらわからない。


「わたしなんていてもいなくても同じなのかもしれない。そんなことばかり考えていたら涙があふれて止まらなくなって。でも、どうしても会いたくて、話をしたくて、前みたいに時間を忘れるくらい一緒にいたくて、(ふもと)の神社の大きな(クスノキ)に向かって手を合わせて、どうか会わせてくださいってお願いしたんです。そうしたら大きな青い空からわたしを呼ぶ『声』が聞こえてきて」


「空から声?」


「はい。女の人の、優しい声でした」


 彼女は不思議なことを言っている。明らかに常識とは異なる彼女の言葉を耳にして、明確な疑問が生じた。


「もしよければ君が聞いた『声』のことを詳しく教えてもらえないかな」


「その声はこんなことを言ってくれたんです。『好きな人にそれほど会いたいのなら二十年後のその人に会わせてあげましょう。ただし、会える時間は限られます。どうしますか?』って。わたしは迷わず『お願いします』って返事をしたんです。そうしたら、一瞬でここに」




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