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コンチェルティーノ  作者: 白鳥 真一郎
第八章  神に命じられても
38/59

☆ プレリュード







 深夜、妻に電話する。ぼくたちの会話は何気ない日常の出来事がほとんどだ。妻は担任している小学生との印象的なやりとりをよく話してくれる。自ら生み育てた子供であるかのように優しく。


 妻―― 飾らない性格、清潔な肌と簡素な装い。さりげない気遣い。

 料理上手な妻が忙しい仕事の合間を縫って時折送ってくれる総菜を、夜のアパートでひとり食べる。


 妻は言う、『わたしたち、昔と全然変わってないね』と。


 だが、本当はそうではない。ふたりは変わりすぎてしまったのだから。あなたも。そしてぼくも。


 あなたと話しながら思う。〝死んでしまった恋人〟とあなたがいつの日か同じ人になれば…… と。

 

 結婚して十年。あなたはぼくを信じて一緒に歩いてくれた。それはまぎれもない事実。あなたほど誠実な人はいない。あなたほど信頼できる人はいない。あなたは完璧だ。


 だからこそ、ぼくはあなたに心を許すことができない。あなたが完璧である限り、あなたはいつか必ずぼくを殺す。冷たい銀の矢を放つ女神のように冷酷に、再び。


 



 ✧













 

 カーテンの隙間へ体を滑り入れた。


 硬く凍り付いた窓。星の残光に冷やされた群青。終わろうとしている夜。清らかな泉のような香り。薄い窓ガラスがほのかに青く光り始めた。


 着替えて窓を開けた。バラ色に明けゆく東の空に、ひときわ白く高く円錐形の独立峰が浮かび上がった。優美なドレープを描いて長い裾を引く様子が印象的なその姿は、美しく整った裸身に純白の亜麻布を巻いて立つ女神を思わせた。


 けれどやがて君も気付くだろう。彼女のたおやかな姿の奥深くには、偽りの愛を死で償わせるための鋭い稜線と、目もくらむばかりにひたむきな垂直の岩壁が秘められていることに。

 だが、殺気すら漂う稜線も、見る者を圧倒する岩壁も、ここからはその片鱗すらうかがうことはできない。


 彼女をオリンポスの神にたとえるなら愛と美の女神アフロディーテ、ではない。愛と美だけではなく、優美な姿に厳しさと激しさを秘めた女神。それは死と生を司る女神とも月の女神とも称されるアルテミス。


 ぼくはオリオンのように彼女を恋う。この冬のうちにあの白い山肌に触れて(あなたの白く清められた肌を愛撫するように、そっと)ぼくは高みを目指すだろう。雪と氷に覆われた頂。そこへ行けばあの日のままのあなたに会えるはずだから。



 窓を閉めてガスストーブを消した。階段を降りて空を見上げると新しい雲が生まれていた。


 もしもあなたが温度の存在しない静かな透明で冬の空をゆるやかに満たせば、そしてそこに蓋を開けたばかりの新鮮なインクを流し込めば―― この雲と同じように美しい雲が生まれるだろうか。


 雲は、時に(つや)やかな黒髪のように渦巻き、誰のものでもない透明な空間を(あで)やかな漆黒で埋めていく。


 けれど彼女はすべてを埋め尽くすことはできず、こちらを振り返っては心を残すように新しい渦を巻き、ゆっくり流れて南東の空へ向かう。その姿をじっと見ていると、言い尽くせなかった言葉が天上にあふれているように思えた。

 

 冬の空はあふれだす言葉にとまどい、地平をすり抜けたあけぼの色の光に頬を染めて、恋をしている人のようにはにかんでいる。


 もちろんこの空はいつも恋にとまどっているのではないし、常に愛らしくはにかんでいるわけでもない。青白いしぶきをあげて荒れ狂う海を水平線の彼方まで有無を言わさず上から押さえ込んで女王のように厳然と支配しているし、時に大雪を降らせて人々を困惑させることもあれば、慈母のように白い雪原に寄り添うこともある。

 

 空が見せる様々な表情は、あなたが見せる様々ば姿にも似ている。





 ✧






 チェーンを巻いた赤いバスはガタゴト揺れながら大きな鉄道駅まで下った。ホットドッグと熱いレモンティーを買って朝一番の特急に乗る。行き先を告げる車内放送が二度繰り返され、人影まばらな特別急行は白く凍ったプラットホームを後にした。


 鉄橋に差し掛かると雲が割れて日が差した。いぶし銀に輝く海が見えた。幾重にも白いアーチが連なる長い鉄橋を轟音を立てて渡りきると車窓に派手な雪煙が上がった。水色の特急は大きく車体を傾斜させ、古い都へ向かう本線に別れを告げた。


 水色の特急は谷筋をたどって左右に車体を振り、緩やかな勾配を延々と登った。雪が激しく降り、モーターが苦しそうに唸り始め、白い風景は更に白くなった。


 分水嶺の長いトンネルを抜けた。鉄の車輪がレールを滑走する軽い擦過音が微かに耳に届いた。いつのまにか雪は止んでいた。空は相変わらず曇っていた。わずかに水の流れる細い川が現れ、川面には時折、青空のかけらがキラリと光った。


 駅を通過する毎に雪は薄れ、線路に並行して流れる川の幅が広がるにつれて空は青みを増した。いくつかの支流が合流する大きな街を過ぎると雪は消えた。


 終着駅のプラットホームは人であふれていた。改札を出ると潮風が薫った。顔を上げて楽しそうに行き交う人々。賑やかなフェリー乗り場。対岸の造船所に林立するクレーン。太陽の直射が眩しい。思わず振り返ると赤い屋根の上に青い空があった。パステルで描いたような明るい青空。


 どの道から行こうか…… 


 歳末の商店街はひどく混雑していた。しばらく思案して近くの踏切を渡った。駅裏の急な坂道を駆け上り、山裾の小学校の横から寺の石門をくぐった。庫裏の横を抜けて日陰の路地を東へ進む。


 目の前に周囲の光を黒々と飲み込む骨太のシルエットが現れた。古い三重の塔。


 駆け寄って塔の基壇を回り、彩色がすっかり落ちた柱に触れた。この塔を造り上げた人々の魂の息づかい。塔を維持してきた人々が刻み込んだ視線の跡。手に触れて感じるそれらは間違いなく彼らが生きた証。

 

 この塔は生き生きとした彼らの姿と想いを時を超えて未来へ運び続ける現役のタイムマシン。君とぼくが生きた証も塔のどこかに残っているのだろうか。


 塔の裏手の石段を登った。海の見える公園は昔のままだった。海側の青いベンチに座るとすぐ目の前に塔の頂が見えた。何も変わっていない。塔の尖端を地上から這い上がる邪気から守るかのように垂直に連なるいくつもの青銅の円盤もあの頃のままだ。


 もしもあの円盤に二十年前のふたりの視線が刻まれているなら、その痕跡を七色に輝くダイヤモンドの針でなぞればあの頃のときめきが聞こえるだろうか。ふたりの胸のときめきが、甘く切ない二重奏のように。


 けれどそれはおそらく迷いに満ちたプレリュード。今思えば二人の視線が同時に同じ場所に重なっていたとしても、ふたりが見ていたのはそれぞれ別のものだったのだ。なぜなら君が見ていた終止記号は、ぼくには見えなかったのだから。









・挿入曲:ショスタコーヴィチ作曲


      2つのバイオリンとピアノのための5つの小品より プレリュード





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