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コンチェルティーノ  作者: 白鳥 真一郎
第五章  遠いあの日のままの姿
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☆ 二年三組 橘あおい





 山頂は次第に輝きを失っていく。そして濃い紫色に染まり、しばらくするとすべてが闇に溶けた。


 いつのまにか窓ガラスに彼女の顔が映っていた。どんな迷いの色も浮かんでいない、息を呑むほど清らかなアオイ―――



 ポッポー、ポッポー、ポッポ―、ポッポ―、ポッポ―


 鳩時計が鳴いた。


「ユウキさん……  」


 彼女はそれ以上何も言わず、そっと立って後ろ姿を見せた。夜の闇とランプの光。灯油の燃える微かな音。濃紺の制服が優しく揺れた。彼女はゆっくり遠ざかっていった。

 ドアを開ける前に、薪ストーブの前を横切った彼女はこちらを振り返った。何か言いたそうな様子だった。けれど彼女は一息にドアを開けると姿を消した。バラの花の香りだけを残して。


 アオイ・・・


 ぼくは思わずテーブルに両手をついて立ち上がった。そしてしんと静まりかえった喫茶室を見渡した。


 薪ストーブの前に何か落ちている。思わず駆け寄って拾い上げた。青い表紙。白い鳥の刻印。その小さな手帳をぱらぱらめくるとバラの花の香りが立ち、写真が一枚、栞のように挟んであった。


 ああ、これは、もしかすると……


 一番後ろの列に黒い詰め襟の学生服を着たぼく自身の姿があった。中程の列には濃紺のセーラー服に身を包んで寂しそうに微笑むあの人のバラ色の頬。

 それはクラス写真だった。正門の桜はもう散っていた。紫陽花はまだ咲いていない。これとまったく同じ写真を、ぼくはかつて自分のアルバムに貼った覚えがある。


 更にめくると一枚の薄い紙が出てきた。《ピーターパン》……見覚えのある店名。ミルクティーとレモンティー、厚切りのトーストとジャムのセットが二つ。二十年前の日付だった。おそらくあの日、ぼくが財布を忘れた時のレシート。


 最後のページを開いた。氏名欄には《 八十一期 二年三組 橘あおい 》 と青いインクで綴られていた。終筆をしっかり止め、あるいはさりげなく跳ね、矢を放つように一気に払う凜とした筆跡。

 証明写真欄には鮮やかな発色のポートレートが貼られ、優しい目をしたアオイが静かに微笑んでいる。制服の胸の位置には三高のエンボスが楕円形にプレスされていた。


 彼女は間違いなく二十年前の世界から来たのだ。


 






 念のためマスターに尋ねると今日もセーラー服を着た人物など目にしていないという。それどころかぼく以外、誰一人来なかったらしい。誰も座っていない椅子に向かって話しかけるぼくの姿を見るには見たが、何かの脚本を依頼されていろいろな演技を試しているのだろう、と思ったそうだ。ぼくは演劇や演技とは縁がないのだが。


―――いや、違う。本当は高校生の頃からずっと演技をしてきたのだ。弱い自分をあの人に見せることのないように、自分の本当の姿を決して彼女に知られてはならないと。


 純粋な気持ちで好きになってくれたあの人を、今になってもぼくは忘れることができない。あの人が去った後も、ひとりぼっちの世界であの人のぬくもりを求めながら、姿を探しながら、会いたいと願いながら、今もずっとあの日のように。


 それなのに、会いたかったあの人、ぼくの〝死んでしまった恋人〟が目の前に現れても『今も、誰よりも君を好きだ』と言うこともできない。この胸に思い切り抱きしめたいのに、手を触れることすらできない上に、ただの綺麗事しか言えない。

 会いたくて、探し続けて、見つけることも会うことも叶わなかった高校生の頃のあなたに奇跡的に会えたのに、ぼくは今も本当の自分から逃げ回っている。どこへ行くのか、行き先もわからぬまま。




 街外れに建つ古いアパートに戻るとコートも脱がず寝台に倒れ込んだ。厚い毛布にくるまって身を縮めていると、遠くに雷鳴を聞いた。


 気圧が急降下していく


 耳の奥が重くなり、回転する地軸が軋み始めた。地底で硬い岩石が擦れ合うような、微かな、ジーッと鳴る微細な振動に背骨が共鳴し、震え、船酔いに似た目眩を催し、深海の底に引きずり込まれるように眠りに落ちた。 


 夢の中であの人は『ユウキさんなんか死んでしまえばいい!』と叫んだ。そしてぼくの胸を叩き続けた。遠いあの日のままの美しい姿で、泣きながら。


 本当に死んでしまえばよかったのだ。あの人が死んでしまったときに、一緒に、ぼくも。








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